異常性癖サキュバス(冬の季語)
秋サメ
異常性癖サキュバス(冬の季語)
「すみません、無茶なお願いを聞いてもらって」
はにかむ真知子さんと僕を挟むテーブルの上で、ふたつのカップが湯気を立てていた。
「いえ、それはいいんですが。
……あの。少し、寒くないですか?」
「ええ。寒いですね」
品の良い笑顔のまま、彼女はそう頷く。
少し、というのは嘘だ。家主の前で出てしまった遠慮の心だ。本当はすげー寒い。外気は五度だが、たぶんそれよりも寒い。どういう仕組みだよ。
僕は仕方がなく、窓際の上方を指さした。
「あそこにエアコンがありますよね?」
「ありますね」
「……暖房、という機能があるはずなんですが」
「はい。ですが、今は冷房を入れています」
「え」
なんで……?
まさかエアコンくんも真冬に意図して冷房を入れさせられるとは思ってもみなかったことだろう。
「だって、室温を高くしちゃうと、より早く始まっちゃうじゃないですか」
「なにがです?」
「腐敗とか、死後硬直とか」
意味が分からなかった。
というよりも、それが意味することを深く考えたくなかった。
にも関わらず、真知子さんは頬をわずかに染め、恥ずかしそうに言葉を続けた。
「わたし、興奮しないんです。
死んでるひとじゃないと」
僕は椅子を蹴って走り出した。
……走り出したかった。
しかし両足は奇妙にしびれ、全く力が入らなかった。
……倒れ込む僕のもとに、真知子さんが近づいてくる。
***
死ぬことに決めた。
そのきっかけについては省略する。死ぬ理由というものは人それぞれ数多あるくせに、そのどれもが聞いた瞬間陳腐化し、「ああそれね」となってしまう性質を持つからだ。
なので僕は詳しくは語らないが、カテゴライズするなら「失恋」が項に相当するだろうか。
……ここで「失恋ぐらいで死ぬなよ~」とか半笑いで言ってくる奴は僕と一緒に死んでもらうからな。止まない雨はないかもしれないが、今降っている雨で窒息するような奴もいるんだ。
さておき、死ぬことにした僕は身辺整理から始めた。
部屋の大掃除……というより大除去とも言うべき行為は、意外にも二日くらいで終わってしまった。
アプリで出会い、家に来た女の子に童貞とセットでPCと自転車をあげたので、残ったのは寝具と中華製の偽ルンバくらいのものになった。ちなみに偽ルンバくんは僕の大事なペットなので僕を見送ってもらう予定だ。
こうして、僕の手元には四日間が残った。
……困った。
なにせ、女の子とヤったら死ぬのが馬鹿馬鹿しくなってきたからである。
良くも悪くも、僕は健全な人間というわけだ。自殺は才能だという格言を、この時ほど身にしみて感じたことはない。
さて、死ぬのも馬鹿馬鹿しいが、一度死ぬと決意した手前、簡単に退くのはいかがなものかと揺れる人間が取る一般的な選択肢のひとつに、闇バイトに応募する、というものがある。
これは「一度捨てた命でなにかしよう」という思いと、「これくらいのことをするんだから、死ぬのは無しでもいいよね……?」という謎の上目遣い的感覚が作用しており、とにもかくにも、僕は闇バイトに応募した。
たしか、募集文面は、
「さみしい未亡人のサポートをしてくれる男性、急募!」
……とか、そんな感じだったと思う。うろ覚えだ。正しい文句を知りたければ、うらびれた商店街の電柱とかに貼ってある似たようなチラシを見れば良いので、各自でお願いしたい。
とにかく、一抹の好奇心があったことは否めない。
僕は希死念慮の残骸をブースト燃料にして、とある民家のインターホンを押した――。
それが三十分前。
で、床に倒れているのが、それから三十分後。
「ちょっとまってください!」
僕は笑えるほど必死に叫ぶ。
「このまま死んでも、僕のちんちんは勃ってませんよ! 性行為が成立しないじゃないですか! ノーセックスですよ!」
「大丈夫です。方法はありますから」
ぜんぜん大丈夫じゃないことを、真知子さんは目に笑いじわを浮かべてにこやかに言った。
「ちなみに方法というのは、おしりに――」
「ちなむなちなむな! 聞きとうないわ!」
必死さのあまり平安貴族になりながら首を振る。泣きそうだ。
「あの、できればで良いのですが」
囁くように真知子さんは言う。
「最期に一句、詠んでいただけますか?」
「は?」
「その句を浮かべながら致しますと、より性感が高まりますので……」
「やめろよ~~~その未だ人類が知らない性癖出すの~~~」
今度こそ僕は泣いた。本当に怖かった。この前行った富士急の戦慄迷宮より怖かった。
「一説によりますと、松尾芭蕉などもそうだったと言われております」
「そんなわけねえだろ」
泣きながら松尾芭蕉の名誉を守ったが、それで僕が救われるわけでもない。
だんだんとろれつが回らなくなり、呼吸もおっくうになってくる。
……筋弛緩剤だ。
飲み物に混ぜられたか、それともどこかで打たれたのか――。
「さあ、句を詠みなさい!」
史上最も難しいことを要求する真知子さん――。
その顔が、一瞬のうちに驚愕のものに変わった。
パリン!
と豪快な音を立て、窓ガラスが割れたのだ!
飛び込んできたのは、制服姿の女子高生である。
「覚悟しなさい! 異常性癖サキュバスめ……!」
と少女は叫ぶ。
どうしてここが?
それはそうとして、異常性癖サキュバスって何?
「ヌウッ……!
邪魔をするな!」
異常性癖サキュバスは憤怒の表情を浮かべ、謎のビームを放つ。
なんだそのビームは。
「そんな攻撃!」
女子高生もビームで応戦した。
だからなんなんだそのビームは。
「はあッ……はあっ……!」
…………見たことも聞いたこともないビームの応酬で、いつの間にか決着はついたらしい。
砂埃が立ち上る室内。
最後にそこに立つ勝者は……!
「ハハハ!
馬鹿な小娘よ……!」
……真知子さんだった。
こういう展開で女子高生側が負けるパターンってあるんだ。
しかも女子高生は完全に挽肉みたいになっているので、どんでん返しが起きる気配もない。
「わうわうわ……」
ろれつが回らないので僕のツッコミもキレがない。悲しいことである。
ちなみに「いや勝てないなら助けに来ないでくんない?」って言った。僕はこういう人間なのだ。
「……しかし、ちょっと疲れちまったな」
真知子さんはすすだらけの頬を拭い、そうため息をついた。
「わう?」
だいじょぶそ? と僕は訊いた。
彼女は答えず、にっと笑った。
「ちょっと付き合えよ」
***
車内ではラジオが流れている。
数年ぶりに聞くラジオは、親の車で聞いたものと変わらぬ音質と、変わらぬ雰囲気でそこにあった。
「ここらへんもさー、ずいぶん変わったよな」
真知子さんがそう言うので、なんとかして車窓を見てみる。
コンビニ。公園。でっかい西松屋。なにがどう変わったのかはよく分からない。けれど、変化はしているのだろうとは思う。
「……結婚したときは、まだ工事中だったんだよな。再開発地区っていうの?
マンションが建つとかショッピングモールだとかいろいろ言われてたけど、どれも違ったな」
「わう」
かろうじて指の先を動かし、窓を開ける。排気ガスの臭いと夕方の空気が一気に流れ込んで、懐かしいような、脳よりも奥の方でなにかがゆっくりと動くような、そんな感覚にとらわれる。
「まあ、あれだな。
生きてるかぎり、世界は変わってくよな」
「ううわ」
「それが良い方に、なんて期待しちゃいなかったし、悪いことが起きる覚悟はしてた。
……けど、それはあくまでも“つもり”だったんだよな」
「……わう?」
「夫が死んだんだよ」
真知子さんはまっすぐ前を見ていた。
「どんなに辛いことを想像してみても、それはやっぱり想像だったな。
現実は常にそれ以上の苦しみでいつもやって来る。
感情は喜びだけをもたらすわけじゃない。鋭利な刃物にも、皮膚を削ぐやすりにもなって私自身を傷つける」
「…………」
「葬式のとき、ずっと濡れてたよ。
どうしてだろうな。理由は言語化できるが、たぶん凄く陳腐な表現になるし、正解からはほど遠いんだろう。
だから言わないし、言いたくない。……この気持ち、分かるか?」
「わうう」
「はっは! そうかよ!」
そうか、と何度も真知子さんは口の中で繰り返した。
面白そうに。
あるいは、愛しそうに。
「……みんなそうなのかもな。
そういうのをどっかに抱えて、ちゃんと生きてるんだろうな」
真知子さんは優しくブレーキを踏む。
それから、僕のシートベルトを外し、ドアを開けて押した。
僕の身体がごろりと車外に出る。
「わう……?」
「元気でな。
私みたいな生き物にだって、そういう風に救われる日がある。そういうことかもな」
そう言って、呵々と彼女は笑った。
「……ほらな?
やっぱ、言葉にすると陳腐になるだろ」
車が走り去る。
僕だけがそこに取り残される。
***
人通りの少ない、街灯もない道だ。
自動車や自転車はすぐ隣を走っても、僕の存在には気がつかないらしい。
筋弛緩剤は死に至らしめるようなものではなかったのか、徐々に動けるようになってきた。
……僕は空を見上げていた。
空には月が浮かんでいた……わけでもなく、雲に覆われてロケーションはあまり良くなかった。世界は、こんなときにもささやかな情景を提供したりはしない。
でも、こんな場所でも、生きていかなければならないのだ。
僕は真知子さんを思い出す。
一生忘れないであろう、彼女との奇妙なドライブを。
…………ようやく腕が動かせるようになる。
スマホをポケットから取り出す。
それを緊急通話モードにして、僕はマイクに吹き込んだ。
「はやく来て!
異常性癖
サキュバスが!」
異常性癖サキュバス(冬の季語) 秋サメ @akkeypan
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