ビタースイート・モラトリアム

ふゆのいろ

 待ち合わせ場所はいつもの改札口で、約束の時間より早くそこに着くことが僕の日常だった。カバンの中に荷物をしまい、いつものようにスマホの画面を覗く。最後に送ったメッセージが既読になっていることを確認した瞬間、聞き覚えのある声が僕の耳に届いた。


「うい、おまたせ。今日も寒いね〜!」

「いや、全然待ってないから。行こっか、ユウさん」


 ユウさんはタートルネックの白いセーターにベージュのダッフルコートを羽織り、寒そうに手をポケットに突っ込んでいる。僕と目が合うと、悪戯っぽい笑みとともにその手を静かに僕の首筋に近づけた。


「うりゃっ!」

「冷たっ!?」

「若者は体温が高くていいねぇ。あたしなんてもう身体が冷えて冷えて……」

「2歳しか変わらないでしょ……」

「知らーん。行くよ、トーキ!」


 跳ねるように歩く彼女に追随するように、ポニーテールが小さく揺れる。昔から何も変わらない、いつものユウさんだ。


 呼び方を「木嶋先輩」からユウさんに変えたのは、僕が高校を卒業したあたりだろうか。同じ美術部の先輩だった木嶋佑香は僕が入学して一年で高校を卒業し、ひと足先に大人になった。似た話題や趣味が高じてよく話していた僕と彼女は、そのまま緩やかに関係を続けている。

 僕があと数ヶ月で大学を卒業する年になっても2人で定期的に遊ぶ日々を続けているのも、緩やかな関係性の賜物だろうか。


 目的地に着くまでの道のりは、バレンタインギフトが鎮座する駅前ビルのショーウィンドウと手を繋いで歩く無数のカップルで占拠されていた。

 季節柄仕方ない。そう思いつつも、僕の視線は前を歩くユウさんに向かう。カバンの底に眠ったままの荷物と、冷たいままの僕の手。たまに後ろを振り返りつつも軽やかな足取りで進んでいく、キャメルのショートブーツの足音。


「ユウさん、あの……」

「トーキ、そっち車道! 危ないよ」


 駆け寄ろうとした僕を遮り、上着越しに腕を掴んだ。唖然とする僕を尻目に、彼女は何事もなかったかのように再び歩き続ける。


「……わかってるよ。こういうのって男のほうが車道に立つものじゃないの?」

「そういうのはトーキが鍛えて車を素手で止められるようになってからお願いするね。今は危なっかしいから」

「一生無理じゃん」


 こんな軽口の応酬も、いつもの事だ。僕が頼りないのも、彼女がそういう優しさを求めていないのも、一緒にいる時間の長さである程度わかってくる。それでも、だ。


「ユウさん、あのさ。この時期に遊びに誘った理由、なんだけどさ……」

「あー、バレンタイン? 今年はどんなチョコにしよっか。去年渡した手作りのトリュフ、どうだった?」

「……ワサビ入ってたやつ?」

「いやー、あの時のリアクション直接見たかったわー! ほら、意外と日本酒とかに合うかなぁって思って!」

「トラウマになりかけたんだけど……」


 バレンタインの件ではない、とは言えなかった。いざ伝えるとなると気恥ずかしく、自分の口から話せることだとは思えない。だが、まだ時間はある。例のものを渡すタイミングは残っているはずだ。

 ユウさんに対する想いを自覚したのは、思い返すと随分昔だ。遊んでいるうちに芽生えた感情を胸に秘め、取り繕って過ごしてきた。緩やかな関係性が心地良かったからだ。そうしている間に、伝えるタイミングを失ってしまった。

 僕は、ユウさんのことが好きだ。


「着いた〜! 歌うぞ〜!」


 目的地であるアミューズメント施設の7階、カラオケフロアはいつも通りそれなりに空いている。僕は受付で部屋の確認を済ますと、料金表をチェックする。平日午前、フリータイム、学生料金。最もコスパがいい時間だ。

 数ヶ月後には使えなくなるモラトリアムの特権を言い訳に、僕たちはよくフリータイムでカラオケを行っていた。ユウさんの休日が不定期だったこともあり、僕のような暇な大学生にとっても平日が都合良かったのだ。


「……この学生証も、もうすぐ使えなくなるんだよな」

「トーキも春から社会人か。大人になるってわけね!」


 大人になる。

 モラトリアムには終わりが来て、僕たちの関係は不変ではなくなるのだ。


「……とりあえず、入ろっか」


 マイクを持てば今後への不安も祓えるかもしれない。僕は小さく頭を振り、ユウさんに付き従うように入室した。


「何時間まで歌える?」

「5時間は平気」

「若いねぇ……」


    *    *    *


 喉を潰す前に、持ち歌がなくなった。

 テーブルの上に置かれたコーヒーゼリーの残りひと口を味わいながら、ユウさんはソファに座ってリズムよく足をバタバタと前後移動させる。モニタに映るよく知らないアーティストのインタビュー映像を眺めながら、僕は履歴からその日歌った曲を確認する。

 僕の選曲にラブソングが多いのは完全に無意識の悪魔のせいだ。たまたま好きな曲や歌いたい曲がそれだったからだが、ユウさんに何か変な勘繰りをさせていないだろうか? 履歴を消そうとさえ思いながら眺める曲リストに、僕はひとつの話題を連想する。


「ユウさん、大人の恋ってどういうふうに始まるんだろうね?」


 それは僕が好きなバンドが何年か前に出したシングルからの連想だ。メロウな曲調に重なる歌詞はアダルティックで、人前で歌うのは少し恥ずかしい。歌っている最中に店員が入ってきて、サビ前でフェードアウトしていく僕の歌声に大笑いするユウさんの姿が数十分前にあったばかりだ。


「大人の恋? 告白とかのプロセスは挟まずに雰囲気で付き合いはじめる、とは言うよね。いきなりキスとか、その……行為とか」

「それってさ、いちいち確認作業を挟むのは無粋ぶすいってことなのかな?」

「そうなんじゃない? ……もしかして、トーキにやっと春が!?」


 コーヒーゼリーが乗っていた皿を置き、ユウさんは前傾姿勢で僕の話に耳を傾けようとする。茶化す気満々だ。


「いやー、トーキもついに大人か。大学生にもなって浮いた話とか全然なくて、あたしはめっちゃヤキモキしてたんだよ。ほら、黙ってたら顔は良いじゃん?」

「それ以外の部分に難があるみたいな言い方やめて?」

「で、どういう感じの子を好きになったの? ゆるふわ女子力高い系? サバサバ系のクール女子? それともサブカル好きの……」

「違う、違うから!! ちょっと聞いてみただけじゃん!」


 カバンから上着のポケットに移動した“それ”を渡す空気にはならなかった。ユウさんは一頻り僕の色恋沙汰に対してツッコミを入れながら、満足げに笑い転げている。いつもと何も変わらない、日常の風景だ。


「……もうすぐ陽も暮れるし、そろそろ帰る?」

「ういー。じゃあ帰る用意しよっか」


 彼女は荷物をまとめ、カバンから財布を取り出しながら立ち上がり、部屋を出ようとする。


「先に払っとくよ」

「……待って待って!!」


 部屋を出れば、窓から見える景色は既に夕陽が落ち始めている。ビル群に射すオレンジの陽光に目を細めながら、僕は彼女の背中を追うようにフロアを下りた。

 会計を済ませて外に出ると、圧縮されて束になった寒さが肌を突き刺すように襲いかかってくる。室内との寒暖差は激しく、僕は思わず身体を縮こめた。


「うぅ……寒っ」


 前を歩くユウさんがそう呟き、冷えた指先を暖めるように両手を擦り合わせる。薄暗くなっていく黄昏時の街を足早に歩く彼女の後ろ姿、徐々にスローペースになっていく彼女の足音。

 モラトリアムは子どもでも大人でもない時間だ。大人になっていくユウさんの背を追いかけて生きてきた僕にも、否応なく大人になる時間がやってくる。


「待って、ユウさん」


 不意に口を衝いた言葉は街の静けさに染みて、彼女の耳に届く。隣を歩くカップルの声も、規則的な信号の電子音も、矢継ぎ早に通り過ぎていく自動車群の喧騒も、僕の心音に比べるとずっと静かだ。

 立ち止まった彼女に追いつくように足を早める。ユウさんと、並んで歩く。


「寒いならさ。手、繋ごうか……?」

「……お言葉に甘えてっ!」


 僕の上着のポケットにユウさんの小さな手が飛び込んだ。滑らかな肌の感触が重なり、細い指が熱を求めるように僕の掌を追う。これは他のカップルよりも控えめで、誰に見せつけるわけでもない交錯だ。

 並んで歩く時間が、一瞬にも、永遠にも感じられた。横断歩道で信号を待つ間、僕は次の行動に向けたシミュレーションを念入りに行なっていた。いける、今なら。

 ユウさんの温度から手を離し、ポケットの奥から“それ”を掌に滑らせる。彼女の指に届く位置で、僕は手を開いた。


「ん? なにこれ?」

「ユウさん、ハッピーバレンタイン」


 今年こそは、僕がプレゼントを渡す。いつもバレンタインのどさくさで何かを貰ってばかりだが、今日はもっと大きなイベントなのだ。

 片手に収まるような小さな箱に入っているのは、シルバーのネックレスだ。バイトで生計を立てる大学生にとって安くない値段のそれは、大人にとってはままごと遊びのようなものかもしれない。


「あと……誕生日おめでとう。今はこんなのしか渡せないけど、来年はもっといいやつをプレゼントする。だから……だから、これからも一緒にいてください。今日からは友達じゃなく、恋人として」


 信号の色が変わった。僕はユウさんの方を振り向かず、ゆっくりと足を進める。大人の恋に確認作業が無粋なら、僕の告白はまだまだ未熟なのだろう。それでも、いつか迎える終わりを緩やかに享受するよりは、ここで関係性を変えることを望む。たとえそれで何かが終わってしまっても、それはそれだ。

 並んで歩く彼女を追い抜く瞬間、腕を掴まれる感覚に足を止める。振り向けば、ユウさんが俯いていた。


「……待って」

「ごめん。僕ばっかり盛り上がってた」

「そう、じゃなくて! ……そっか、そういうことか……。あー、なるほどね。わかった……わかった! とりあえず、ご飯行こう!」

「えっ、今から!?」


 僕の腕を引き、ユウさんはくるりと踵を返す。駅とは逆方向に歩いていく彼女になんとか並びながら、僕の表情は不思議と緩んでいた。

 愛の言葉は舌先を離れるまで苦く、一度放たれれば空に溶けていく。返事を聞かなくても、彼女が僕に絡ませる指で答えは理解できた。

 きっと、これが大人になるということなのだ。


 もうすぐ冬が終わり、春が来る。季節と共に僕たちの関係性が進むことを祈りながら、僕は静かに訪れる夜を穏やかに迎えた。

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