ぎりぎり義理ってことでいいですか

銀色小鳩

ぎりぎり義理ってことでいいですか

 日めくりカレンダーをめくって、ついに現れてしまった数字に、心臓がバクバクし始めた。

 今日は……あれだ。あれです。あれですよ。世間でいう、好きな人に、チョコレートをあげる日。

 女子が男子に、とか、女子が女子に、とか。そういうことは取り合えずどうでもいい。そもそも私は女子扱いなどされていない。いないかな? いないような気がする。

 そもそも「女子」という年齢なのか。そこからまずツッコミが入りそうだ。最近は女だからどうの、男だからどうの言うと、炎上しやすいらしいし。三十代の、見た目も女っぽくない私がわざわざ、「女子がどうたら」とか、言わないほうが無難なのだ。

 一括して、好きな人にチョコをあげる日でいいじゃないか。


 心臓がおかしいことになっているのは、もちろん、告白する予定だからじゃない。告白なんてそんな滅相もない! 勇気もない、意気地もない、振られたら最後、逃げ場もない。だからつまり……義理チョコを、渡すというイベントで、少しでも話ができたらいいな、あわよくば受け取ってもらえたらいいなと、期待しているだけだ。

 問題は、一つ。

 義理チョコをあげるような仲ではない、ということだけだ。

 そう。私がこの二年間ずっと気になっているのは、ご近所さんでも、お友達でも、職場の同僚でもなんでもない。


 仕事前の数分間をその喫茶店で過ごすようになったのは、激務に入る前に心を落ち着けるためであり、たった二百十円で得た窓際の席で、ひとりの時間を楽しむためだった。

 ある日、仕事で手ひどい叱責を受けた翌日に、甘いパンを頼んだ。私はいつもはコーヒー一杯しか頼まない。頼んだはいいが、乾燥したパンは食欲のない喉を通っていかず、そのうち全てのものが飲み込むことができないような感情のかたまりが喉につっかえてきて、席に伏せてしまった。

「お客様」

 彼女はそんな私に、声をかけてきたのだった。

「そろそろいつもお帰りのお時間ですけど、よろしければお持ち帰り用の袋をどうぞ?」

 見上げた私の情けない顔を見て、彼女の長いまつげの瞳がゆっくりと瞬いた。栗色に輝く髪がきれいにカールされている。朝の勤務だというのに私のボサボサ頭とはまったく様子が違う。

 制服をきっちりと身につけ、白いシャツの長袖を腕まくりしているのを見て、ぼんやりと「喫茶店」じゃなくて「カフェ」とか言っとくべきだったかなこの店……と思った。袖から出ている柔らかそうで筋のある細い手首も、朝の光のせいかまばゆく見える。決まりすぎじゃないかこの人。

 彼女も毎朝同じ時間でシフト勤務しているようで、レジで良く見かける顔ではあったが、こんなに近くで見たのは初めてだった。

 喉につまった感情のかたまりは、言葉を押し出す邪魔をした。彼女の顔を見つめたまま、唇から何の音も出せずにいると、彼女はくしゃっと笑ってテーブルに紙袋を置いた。

「いつもありがとうございます」

 そう言って、レジへ戻っていった。


 それからもほぼ毎日喫茶店へ寄っている。いらっしゃいませ、ありがとうございます、それだけのやり取りだったが、私が目を見て会釈するようになったので、彼女もそのたびに笑いかけてくれるようになった。

 気が付くと、変わったのは視線のやり取りや会釈だけではなかった。喫茶店に花が飛ぶような空気が流れはじめていた。

 私は喫茶店に寄る前にトイレで身だしなみチェックをするようになった。黒一色だった服装に少しだけ淡い色を取り入れるようになり、少しでも彼女が話しかけやすい雰囲気を作ろうと必死になり始めた。


 数日前、私は聞いてしまった。店員同士の会話を。

「まきちゃん、チョコ誰かにあげるの」

 お前全身が耳になってたぞ、と言われたら、はぁそんな現象もあるんですね確かにそんな感じがしました、人間って耳になれるんですねと答えるだろう。私の全身、皮膚の神経までが、耳になったように感じた。「まきちゃん」は人の良さそうな笑顔でいつものようにくしゃぁと笑い、言った。

「貰いたいですよ、逆に~~。も~~」

 それは。好きな人から貰いたいということ? チョコが好きなだけ? もらうの、例えば、好きな人じゃなくてもよかったり? 私があげてもよかったり? 誰があげても、チョコなら喜んでくれたりしないか……しないか、やっぱり。

「チョコ好きだから、毎年自分用に買うんですよ~~」

 チョコが! ……好き!!!! チョコが好き!!!

 私はその場でバレンタインのチョコレート特集のサイトを見始めた。そして、もちろん、購入した。あげるかどうかは後で考えればいい。買うだけ! 買うだけ! 買うだけだから。自分で食べたっていいわけだから。

 そうだ。これは自分用のチョコだ。あの店員さんは「自分でチョコを買う派」なのだ。そして私も、自分用も買った。つまりこれは仲間同士としての義理チョコだ。

 私も自分でチョコ買ったりするんです~、これ美味しそうだから私も買ったんですよ~、お勧めです~、とか言って渡せたりしないだろうか!

 迷惑かな。


 来店を知らせるドアチャイムの音に心臓が飛び跳ねる。レジに栗色の髪が見えた時点で、私の全身は今度は耳ではなくて、心臓になってしまっている。人間って心臓になるんですね、知らなかった。

 彼女が振り向いて、笑った。

「いらっしゃいませ」

 レジに向かう足が他人のもののようだ。もつれそうで、歩きがゆっくりになってしまう。今渡したら、コーヒー飲んでる場合じゃなくなる。帰りがけに渡せ、今渡すなよ。はやるな。これは自分用のチョコであって、バレンタインだから渡すんじゃない。バレンタインだから、たくさんの美味しいチョコが売られている時期だからただ見つけて、ええと。告白じゃない。あせるな。チョコを自分用に買ったら美味しくて、余ったから! チョコ好きって聞いたから、ただ仲間として!

 鞄から取り出した包みをレジ前で出し、彼女の目の前に差し出した。


「好きです」


 しん……と店内が静まり返り、私の全身がかーっと熱くなった。

 言葉が何も出てこない。

「あ、えっと……」

 彼女は戸惑ったように包みを受け取った。

 何を言っていいのか言葉を迷っている空気を感じたとたん、私は踵を返していた。

「待って! 待ってって!」

 後ろから叫ぶ声が聞こえる。

 客なのにごめんなさい義理なんです言葉が出ないんです本当にすみません義理です義理です次に来た時義理ってちゃんと言うから、ねえホント許して義理だから……!

「待ってって! 言ってるのに!」

 袖を引っぱられてよろめいた。息切れしてまで追いかけてきてくれているのに、そのまま逃げるわけにはいかない。追いついてきた彼女の髪の毛は乱れていて、走らせてしまった事が申し訳なくなる。今さら義理チョコだと主張するにはどうしたらいいのか。言葉は働かない頭を通らずに、口から出ていた。

「義理……」

「義理チョコなんですか!」

 怒ったような口調で言われて、つい軍隊のように返事をする。

「ハッ! 義理の範囲に抑えてみるよう! 心掛けます!」

 ぎりぎり範囲から多分はみでちゃうと思いますけど、ぎりぎりをうまく調整して、あの、なるべく迷惑じゃない客として。

 彼女は私の両腕を握ると、目を見て言った。

「じゃ、私も、最初は! なるべくお友達からのお付き合いにできるよう! 最初は、心掛けます!」

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