恋の手前で

香月 優希

恋の手前で

「ねぇ、ディア。あいつはやめた方がいいわよ」

 マグの中のホットココアを軽く混ぜながら、タラシャは私を上目遣いに見て言った。

「え?」

「イルギネスのことよ。あの銀髪の剣士」

 イルギネスは、私がここのところよく会っている相手の名前だ。確かに、最初は剣を手入れしてくれたお礼だって言われてカフェにお茶を飲みに行ってから、なんとなく定期的に会うようになっているけど、まだ付き合っているわけではない。──そんな予感は、してなくもないけど。

「本気にしない方がいいわ。あんな男」

「……どうして?」

 親友のタラシャに急にそんな言い方をされるなんて、ちょっとショックで私は聞いた。あんな男、だなんて。

「あいつさ……」彼女は少し言い淀んで言葉を切ったものの、嫌悪感をあらわにして続けた。


「あいつ、声かけてきた女だったら、誰とでも寝るって噂よ」


 告げられた言葉は、私の心を冷たく包んで、予想外の勢いで突き落とした。



 ーーーーーーーーーーーー



「え?」

 まるで豆鉄砲でも食ったみたいな顔で、イルギネスの青い瞳が私を見返した。

「噂を鵜呑みにするわけじゃないけれど、モヤモヤしているのは嫌なの」

 こういうことは、引っ張れば余計に鬱屈としてしまう。私は彼に会うなり、きっぱり聞くことにした。

 何度か会って一緒にいて、この人モテるんだろうなとは思っていたし、そう思いながら私も──少しずつ、この人の傍にいたいって気持ちが出てきているから。それに、自分の前にいる彼は、そんなふうに見えないって──ちょっと盲目になっているのかも知れないけれど、信じたかった。

「ただの噂、よね?」祈るような気持ちで、しっかり彼の顔を見上げて、返事を待つ。

 でも。

「……」

 彼は、目を逸らした。

 え?

 ちょっと待ってよ。どうして黙るの? 自分でもビックリするぐらい動揺している私に、彼は言った。

「すまん。そういうことがあったのは、事実だ」

「──」

 彼があっさり認めたことに、驚いて言葉が出なかった。もしかしたら、口も開いていたかも知れない。

「でも、君と会うようになってからは一切ない。……言ったところで、信じられなくても仕方ないが」

 言いながらイルギネスは、あの日、武器屋うちにボロボロの愛剣を持ち込んだ時と同じようにうなだれている。青い瞳を伏せて、痛ましいくらいの顔で。だけど私は、さすがに「いいのよ、大丈夫」と納得できるはずもなく、黙ったまま俯いた。


 向き合って立つ二人の間に落ちた、初めて経験する、重い沈黙。


 それを破ったのは、イルギネスだった。

「隠しているつもりはなかった。でも──否定もできない。だから、君が嫌なら、俺はもう会わないよ」

「……」

 私が返事をしないのを肯定と受け取ったのか、彼は小さな声で謝った。

「ごめん」

 顔を上げられずに地面を見ている私の視界から、彼の靴先が消える。

 やっと視線を上げた向こうに、遠ざかる彼の背中が見えた。背の高い、均衡の取れた綺麗な後ろ姿。


 ──声かけてきた女だったら、誰とでも寝るって噂よ。


 タラシャの言葉が、ぐるぐる回る。


 ──でも、君と会うようになってからは一切ない。


 イルギネスの言葉も。だけど、足が地面にくっついたみたいに固まって、私はその場に立ち尽くしたまま、彼の姿が振り返りもせず、トボトボと路地に曲がって消えるのを見送った。

 

 何よ。

 ちょっと、好きだなって、思い始めていたのに。

 そりゃ、異性との経験がないわけないとは思っていたけれど。でも、そういう事を誰とでも平気でできるような人だって言われたら、「あら、そう」って流せるほど、私は割り切れない。私には、一つ一つが、大切な事なのに。


 だけどそこでふと、気づいた。


 そういえば彼はまだ──私に指一本、触れていない。



 ーーーーーーーーーーーー



 それから、なんの音沙汰もないまま5日が経った。

 時間があると余計なことを考えてしまうから、忙しかったのは本当に救いだった。

 でも、明日は武器屋の定休日。店番が終わって、お茶を飲んで一息ついた途端、押し込んでいた心が顔を出して、私は慌てた。

 最近、定休日は当たり前みたいにイルギネスと会っていたけど──彼は今頃、どうしているだろう。

 

 もう、本当に会わないつもり?

 

 自分の胸の中で、もう一人の自分が聞いてくる。

 だって、否定しなかった。そんな男、信用ならないじゃない。

 だけど気持ちとは裏腹に、脳裏に浮かんだのは、うなだれた彼の姿。

 あの人、最初にちゃんと話した時も、そうだった。

 弟さんを亡くして、自暴自棄になって。なのに、周りのことばかり優先して、自分は黙って受け入れてばっかり。


 ──君が嫌なら、もう会わないよ。


 私が嫌なら?

 あなたの気持ちはどうなのよ。

 また、人の気持ちを優先して。勝手に決めつけて。自分が我慢すればいいなんて、カッコつけてるんじゃないわよ。

 急に怒りが込み上げてきた。

 

 自分から声をかけてきたくせに、簡単に放り出したりしないでよ。私だって、一緒にいて楽しかったのに。それとも……やっぱり、彼にとって私は、どうでも良かったのかも知れない?


 だけど。

 

 私は、椅子から立ち上がった。

 それに、あなたは間違っている。私の気持ちを優先するんだったら──私、嫌だなんて、ひと言も言っていないじゃない。



 ーーーーーーーーーーーー


 

 翌日。

 決心したものの、いつも待ち合わせている時計塔に堂々と行くのは気が引けて──それに、彼はいないかも知れないし──ひとまず高台から時計塔の方を見てみようと、私は坂を登った。

 高台の広場では、子どもたちが追いかけっこをして走り回っている。

 私は、抱えた紙袋を潰さないように、そっと柵に手をかけて時計台の辺りを探した。


 いた。

 長椅子にぼんやり腰掛けて頬杖をついている、遠目でも目につく銀の髪。肩にかけた赤いショール。


 あんなこと言って去っておきながら。なんで待ってるのよ。


 姿を見た瞬間、腹が立つほど心が震えて──思わず足が動いていた。

 坂を駆け下りて、息を切らしながら突然登場した私の姿を見て、イルギネスが立ち上がる。


「え? あれ?」

 捨てられた子犬みたいな顔をして驚いている彼を見たら、たまらなくなって、私は勢いのまま、彼の目の前に進み出た。

「これ」

 手にしていた紙袋を、彼の胸に押し付ける。

「一緒に食べようと思って」

 見上げたそこに、青い瞳が、不思議そうに覗き込んでいる。

「ラム酒入りのショコラパウンドケーキよ。昨日焼いたの」

 前に、好きだって言ってたから。

「え」

 彼は袋の中身を確認して──気のせいか、ちょっと泣きそうな顔で微笑んだ。

「ディア」

「こんなところで黙って待ってないで、ちゃんと、また会おうって言ってよね」

 すると、イルギネスは袋を大事そうに抱えて空を見上げ、とてもホッとした様子で大きく息をついた。

「よかった……もう、来ないかと思った」

「だから──あ」

 突然、イルギネスの右手が私の手をとったので、私は続きを言えなかった。

「ごめん」

 海色の瞳が、優しい光を湛えて私を見つめている。

 ほらまた──その目が、言えない感情をいっぱいに浮かべている。いろいろ思っていたはずなのに、言葉が出なくなって、私はただ、彼の目を見つめ返した。

 私の心の何かを読み取ったように、彼の右手が私の手を放し、そっと頬に触れる。男の人らしい、ゴツゴツした大きな手。私も厳かに彼の手を包んでみると、彼は穏やかに微笑んだ。


「ディアが、好きだ」


 急な告白にびっくりして瞬きを返した私を、彼は穏やかな笑顔のまま、愛おしげに見下ろす。

「好きだ。今日も、会いたかった」

 あまりにストレートに言われて、不覚にも胸がいっぱいになっている自分に気づく。どうしよう。なのに、こんなにも動揺している私のことなんかお構いなしに、彼は続けた。

「付き合ってほしい」

「イルギネス……」

 もう、この人は。でもちょっと待って。うっかり雰囲気に飲まれそうになったけれど、ちゃんと確認しておかなくちゃ。私は、ひと呼吸して気持ちを整えた。

「一切、ないのよね?」

「え?」

「私と会うようになってからは、大丈夫なのよね?」

 なんの質問か分かると、彼は一瞬、苦笑いの顔になってから、きゅっと表情を引き締めた。

「ああ」

 短い返事だったけれど、私にはそれで充分だった。

「分かった」

 私も彼の顔に両手を伸ばして、頬を包む。

「じゃあ私は、これからのあなたを見てる」 

 彼の海の色の瞳が、私をまっすぐ捉えて、胸の奥がドキドキと高鳴る。次の瞬間、思ったより強く柔らかい力で、身体を引き寄せられた。彼の胸元にすっぽり収まると、背中に、渡した紙袋が当たった。

 顔を上げたそこで、視線が重なる。そのまま、彼の顔が近づいてきて──キスの予感を感じたところで、ふと止まった。

「どうしたの?」

 すると、彼は困ったように首を傾げて、くすりと笑った。

「いや……こういうことは、大事にしないとな」

「今さら?」

 さすがにキスくらいは、私だって経験あるのに。

「今さらだからさ」と、彼。

「そっか」

 ちょっとだけ残念な気がしたけれど、私はなんだか、それ以上に幸せな気分になって、広い背中に腕を回した。答えるように、彼の腕に少し、力がこもる。

「このまましばらく、こうしていよう」耳元で、彼が言った。

「うん」目を閉じて、ぬくもりに身を任せる。

 ちょうど鳴り出した時計塔の鐘の音が、私たちを祝福するみたいに、青い空の向こうまで優しく響き渡っていた。



<了>

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