木、小説

 『私』はどういう人物であったのだろうか。


 最近、ふと気がつくとそんなことを考えてばかりいた。


 自身の人生を振り返り、物語として書き残した彼女だが、その文字数はたった数ページの掌編小説。一週間分の日記にも満たない文字数である。


 例えば、物語を書きつける際に、あえて枝葉末節を削ぎ落す事はよくある。本当はこれも書きたい。だが、物語の主旨を損なう恐れがあるために書けない。


 私ならずとも、小説を書いた事があるものなら誰だって直面する悩みであろう。


 『私』はあえて脚色を減らしたのではないか? そんな疑問がふと湧いたのは、アパートに繋がる坂道を歩いている時だった。


 私の住むアパートはひどくオンボロだった。木製の古い建屋である。風が吹けば倒れる。そんな慣用句ほどにぼろくはないが、すきま風が入り込んできて寒い。穴だらけのアパートだった。


 御年90歳を迎える大家さんによれば来年に建て替えを予定しているとのことだ。


 私はふと、歩道に植えられた枯れ木を見上げた。春になれば青々とした葉を付ける街路樹も今は禿げあがってとげとげしい。柔らかいグミのような新芽、目にまぶしい青葉で装わぬ木々のなんと痛ましいことか。

 痛ましいどころか無骨で、硬くて、えもいわれぬ寂しさを漂わせている。


 何の気なしにボーっと眺めている私の脳内に、これも小説である、という汀の言葉が蘇った。


「いいかい、これは枯れ木に見えて立派な小説だ。幹が話の根幹だとしよう。すると、深く張った根はプロットである。プロットをよく練ればそれだけ立派な物語になる。この木を見たまえ。枯れているように見えていまだ健在。中身が充実している証拠だ。根元から先端まで幹は太く長く伸びている。間に生えた枝は修飾、あるいはキャラクターの脚色である。多すぎれば物語がとっちらかるが、少なすぎれば物語が簡素になる。まさにこの木が丁度よいのだよ」


 私はいつものごとく聞き流していたが、その話をあの小説に当てはめれば、『私』の小説には脚色しかない事が分かるであろう。


 あの小説はすべて『私』を脚色したものであり、だからこそキャラクターとして成り立っているのであるが、『私』の存在は『余命、3分』という小説において、そのメッセージ性を高めるための脚色でしかない事がありありと分かるではないか。


 そして、物語の根幹を務めあげているものが医者が渡した本であることも、同時に判然とするであろう。


 余命を記すとされる本。それがあの小説においてどれほど大切な役割を果たしているかは読めば分かる。


 『私』は本の存在を際立たせるためにあえて自分の人生を語らなかったのではないだろうか?


 枝葉末節を削ぎ落し、本の存在感を高めるために、あえて書かなかった。


 すなわち、ストイックな人生を装ったわけだ。


 自己の人生を極限まで切り詰めて名前さえも捨てた『私』にとって、あの本は何だったのだろうか。


 ただの私小説であろうか。それとも明確な目的があって書かれたものだろうか。


 あるいは、文字の力を証明するために…………。


「もう、よそう。寒くなってきた。今夜は鍋にするか」


 私は、坂道を下り始めた。

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余命、3分 あやかね @ayakanekunn

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