終話   正一人

 戊午つちのえうまの年。(778年)

 二月。


 三虎は無事に唐から帰ってきた。

  

 三虎、二十八歳。

 莫津左売、二十九歳。


 出会ってから、十三年の月日が経っていた。



   *   *   *




「もう、ここには来ない。」


 無表情な三虎が淡々と、莫津左売なづさめの部屋で告げた。

 とうとうこの日が来た。

 唐から無事に帰ってこれたのに。

 莫津左売は全身を雷に打たれたように硬直させた。

 ヒリヒリと心が痛い。

 顔がヒリヒリと引きつる。

 笑顔がつくろえない。

 顔を伏せ、


「どうしてかいて良い?」


 どうにか聞き取りやすい声を出した。


「莫津左売の何が悪いんじゃない。

 いも(運命の女)ができた。

 もうオレは……。そのいもしか愛せない。」


 わかった。ピンときた。


(あの一度だけ口にした、「紅珊瑚べにさんごの良く似合うおみな」だ。いもにしたんだわ……。)


 心が、打ち沈んで行く。

 涙が、せり上がる。

 莫津左売は、顔をあげる。


「わかったわ……。

 わかったわ三虎。……さ寝して。」


 三虎は優しく口づけしてくれた。

 優しく、今までありがとう、とこころが伝わってくるような……。



 優しさだけで、熱がこもってない、まるで知らない人のようなさ寝だった。


 初めての、なぜかすごく疲れ切ってて、たどたどしかったさ寝も。


 二人でどこまでも快く親しんでいった数々のさ寝も。


 唐に渡る前、あんなに情熱的だったさ寝も。


 今はどこかに飛びすさって行ってしまった。


 ───もうオレは……。そのいもしか愛せない。


 その言葉が真実だとまざまざ突きつけられる、共寝だった。


「莫津左売……。」


 戸惑ったように三虎が動きを止め、こちらの顔を覗きこんだ。

 莫津左売の頬があとからあとから涙で濡れている。

 涙が止まらない。


「もう止めて。」


 三虎にそんなことを言うのは……、いや、共寝中にそんなことを言うのは、初めてだった。


「……莫津左売。」


 三虎が本当に困っているのが伝わってきたが、


「もう止めてって言ったの!

 遊行女うかれめならそんな事言わないと思ったの?!

 泣くなんておかしいって言うの?!

 今の三虎に抱かれれば抱かれる程、思い知らされるだけよ、もう止めて!」


 その後はこらえきれず、顔を両手で覆って大声で泣き出してしまった。


「ああっ、わああああ………!」


 三虎は莫津左売を抱き起こし、初めて会った時のように胸に抱き、涙が枯れるまで背中をポンポンと叩き続けてくれた。








 泣き止んでから、


「莫津左売……。こんなこと言うと、怒るかもしれないけれど。」


 遠慮がちに三虎が喋りはじめた。


「そのいも、オレが嫉妬にかられて、初めのさ寝の時、すごく乱暴にしてしまったんだ。

 誤解はとけて、すぐにちゃんとさ寝しようとしたんだけど、オレのせいで、すごく身体がおびえてて……。

 莫津左売にいろいろ教えてもらってなかったら、オレは途方に暮れていた、と思う。

 ありがとう。」

「バカっ!」


(バカバカ。そのいものところに行ってしまえ。)


「う──────っ。」


 止まった涙がまたあふれてしまった。





    *   *   *




 衣を三虎に着せ、自分も衣を着て、三虎と向かい合う。

 背の高い三虎の顔を見上げる。

 恋いしいこの顔も、この距離で見つめるのは、もう、今日でしまいとなるのだろう。

 そう思うと、自然と三虎の胸に右手で触れていた。

 三虎はされるまま、立っている。



(あたしは泣いてすがったりしない。

 媚眼秋波びがんしゅうはで時々は通ってきて、と繋ぎ止めようとしたりしない。

 三虎は偽りなく、心を語ってくれた。

 そういう仲だ。

 あたしは遊行女うかれめ

 三虎にとって、遊行女。

 夢を見るつもりなど毛頭もうとうない。

 覚悟は、してきた。)



「あたし、ある人の妻になる。」

 

 と三虎の顔を見て言った。


 おのこが銭をたんまりと用意すれば、遊行女うかれめ遊浮島うかれうきしまから出し、普通の良民りょうみんの妻とすることもできる。


(分かるかしら?)


 たわむれの軽やかさで、小首をかしげて尋ねてみる。


「誰でしょう?」

「………。」


 本当に分からないらしい。三虎は動きを止めている。


花麻呂はなまろよ。あなたのところの。」

「花麻呂か!」


 三虎が目を見開き、ついで、


「ああ……、そうか。」


 と顔をしかめながら頷いた。


「良く財貨を用意できたな。」

「ようやく、貯められたって。」


 実は、花麻呂から、


遊浮島うかれうきしまをオレが出すから、いもとなり妻となって。」


 と妻問つまどいをされたが、まだ返事はしていなかった。

 でも、はい、と返事をしよう。


「あたしにすごい、メッタメタに恋してるんだから。」


 そう言うと、


「安心した。」


 と三虎が破顔した。


「花麻呂は良いつまになるだろう。」


 めったに見られない、目を細めた、顔全体の笑顔。


(だからもう……。ずるいんだから……。)


 やはり胸の鼓動が早くなる。そんな自分を悔しく思いながら、


(でも……、今日が最後になるなら、見れて良かった。)


 と噛みしめるように、自然に笑顔が浮かんだ。

 三虎が顎をなでながら、


「わかった。少なくとも辛亥かのといの年(771年。7年前)には、ヤツめ、通ってたな?

 二十一歳になって、荒弓に、おまえを妻にしないのか、どうなんだって聞かれた事があったぞ。

 あれは裏に花麻呂がいたな。」


 と言った。あたしはふふ、と笑った。


「当たり。」

「あいつ、しごいてやる。立派に使える衛士にしてやるから、安心しろ。」


 三虎が剣呑に口の端を釣り上げた。

 あはは、と莫津左売は上を向いて明るく笑った。


「じゃあ……。」


 莫津左売は二階棚にかいだなのほうへ行き、金塊と薬草をとりだした。


 金塊は、若草色の麻袋に。

 薬草は、薄いしゃの小包に入っている。


「これは未来の妻から、卯団長うのだんちょうさまへ、賄賂。」


 三虎の手をとって、ぽん、と薬草を握らせる。


「莫津左売!」


 これは受け取れない、というように三虎が声をあげる。

 古い薬草だが、薬草は持つので、今でも価値がある。


「いいの。受け取って。

 そのいもと喧嘩でもして、あたしのところに来たって、もう莫津左なづさめてあげないんだから。」

「………。」


 三虎は無言で薬草を握りしめた。

 

 莫津左売は引き戸へ向かい、鈴を鳴らして引き戸を開け、簀子すのこ(廊下)に控える給仕のおみなを呼んだ。


「ねえ、お客のあと、浮刀自うきとじを連れてきて。

 あたしが遊浮島うかれうきしまを出る時のお祝いを、盛大にやる段取りをしたいの。を見せるわ……。」


 と若草色の麻袋を振ってみせた。



   *   *   *


 


 シャララ、鈴を鳴らし、引き戸を閉めた莫津左売は、くるりと三虎の方を向いた。まっすぐ、三虎の顔を見る。


「お祝いには、来てよ。未来のつまの、上司なんだから。」


 三虎は、降参、というように両手の平を莫津左売に見せ、肩をすくめた。



 こんなに、強いおみなだったのか、と驚嘆を禁じえない。


(いや、これは、莫津左売の気遣いだ。

 オレは今、莫津左売を、ひどく傷つけているのだから……。

 ついさっき、とめどなく泣いたばかりなのだから……。)


「確認だけど、……あれで足りる?」

「充分よ。もし少し足りなければ、……花麻呂と二人でなんとかする。」

「………そう。」


 三虎はしばし目をつぶった。

 

 もし今宵、莫津左売が泣いてすがって、「遊浮島うかれうきしまを出して下さい。」と口にしたのなら、三虎はすぐに莫津左売をここから出してやるつもりだった。


 ……しかし、出したあとは?

 銭の問題ではない。

 秋間郷あきまのさとにある石上部君いそのかみべのきみの本屋敷に住まわせてやっても良いが、三虎はもう、莫津左売のもとに、夜、通うことはできない。

 三虎の夜はいものものとなってしまった。


(ただ住まいを与えられるだけの、無為な生活を、莫津左売は望むだろうか?

 優しくも凛とした誇りを持つこのおみなは……。)


 そう思い、三虎は迷い、今宵、せめてもの餞別にと、金塊を懐にしのばせて持って来た。

 その金塊でさえ。

 これでは、渡せない。


(胸を駆け抜ける、この悲しさは、なんだろう。)

 

 目を開け、


「じゃあ、……これで最後にするから、もう本当に、部下の衛士の妻にするから。」


 三虎は、とん、と一回自分の口元を指差し、


吾妹子あぎもこ。ここに、どうすれば良いか、教えて。……お願い。」


 と目を閉じた。

 莫津左売が、はっと息を呑んだのが分かった。



   *   *   *




 吾妹子あぎもこ(愛おしい愛人)。そう呼ばれたのは、初めてだった。

 いつも三虎は心にどこか一線をひいていて、吾妹子あぎもこと呼んでくれなかった。


(十六歳で逢ってから、今まで。

 あたしの心の中にいる恋いしい人は、あなただけだった。

 あなたはずっと、あたしの心の中にいた。

 あたしは、その恋心を、手放そうと思う。

 きっと、三虎の姿形のまま、あたしの心はぽっかりと穴が開くだろう。

 でも、とらわれの迦陵頻伽かりょうびんが(妙声の鳥)をかごから逃して、空に解き放ってあげるように、あたしは今、心の戸を開け放ち、心の中のあなたを自由にして、逃してあげようと思う。

 三虎とあたしの道は、くっきりと別れた。

 その道を、あたしは、歩ける。

 あたしの足には、力が満ちているのが、不思議と分かるの。

 だから、歩いて行ける。)



「……ちょっと、待ってね。」


 涙声でそう言い、一回鼻をすすってから、


(教えてあげるわ……。)


「三虎、……。さあ、これが、お別れの口づけよ。」


 と三虎の頬を両手で包み、深い深い、口づけをした。

 



     *   *   *




 古志加こじかが心に決めた、たった一人のおみないもならば。

 莫津左売。おまえは本当に、オレのたった一人の吾妹子あぎもこだったよ。




 初めて会った日を思い出す。あの日、


「バカなおみなじゃなければ、顔はどうでも良いや。」


 と遊浮島うかれうきしまに行ったオレは、大勢の女にいっせいに見つめられて、困った。選べない、と。


子曰しいはく、知らざるなりと。」


 声がした時、鈴が鳴るような、綺麗な可愛い声だな、顔が見たい、と思ったら、恥じらって、顔がすぐに見えなくなってしまった。


 だから近くで見たい、と思い、立たせて、胸に抱きとめた時、感触があまりに柔らかくてビックリした。

 華奢きゃしゃで小柄で、周りのおみなからのヤジに震えていた。

 守ってやりたくなって───迷いなくおまえに決めた。


 それは正解だった。初めてのさ寝にオレは心から満足し、これは良い遊行女うかれめを見つけた。これからこのおみなに末永く通おう、と嬉しくなった。


 おまえは優しくて、控えめで、柔らかく包んでくれるような人だった。

 声も素晴らしくて……。オレはいつもおまえに声をあげさせるのが、楽しくてしょうがなかったよ。

 寒い冬の日も、暑い夏の日も、オレはおまえと逢って、満足しないで帰るということは、ただの一度もなかった。


 そして十三年たった。


 もうおまえは、まわりのヤジに震える小さなおみなではない。

 オレも、恋したおみなを妹にする勇気が持てない若いおのこではない。


 おまえの美しいところは、今も変わらない。

 ただオレが、古志加こじかへの愛が大きくなりすぎて、もう他の女を愛することができなくなってしまっただけだ。


 ───ありがとう。

 沢山の事を教えてくれた吾妹子あぎもこ

 こんな悲しい味の、深い口づけがこの世にあるなんて、知らなかった。

 最後まで、オレの知らない事を教えてくれて、……ありがとう。










   ────完────













 ↓挿絵です。

 https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093072803653321

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