終話 正一人
二月。
三虎は無事に唐から帰ってきた。
三虎、二十八歳。
莫津左売、二十九歳。
出会ってから、十三年の月日が経っていた。
* * *
「もう、ここには来ない。」
無表情な三虎が淡々と、
とうとうこの日が来た。
唐から無事に帰ってこれたのに。
莫津左売は全身を雷に打たれたように硬直させた。
ヒリヒリと心が痛い。
顔がヒリヒリと引きつる。
笑顔が
顔を伏せ、
「どうしてか
どうにか聞き取りやすい声を出した。
「莫津左売の何が悪いんじゃない。
もうオレは……。その
わかった。ピンときた。
(あの一度だけ口にした、「
心が、打ち沈んで行く。
涙が、せり上がる。
莫津左売は、顔をあげる。
「わかったわ……。
わかったわ三虎。……さ寝して。」
三虎は優しく口づけしてくれた。
優しく、今までありがとう、と
優しさだけで、熱がこもってない、まるで知らない人のようなさ寝だった。
初めての、なぜかすごく疲れ切ってて、たどたどしかったさ寝も。
二人でどこまでも快く親しんでいった数々のさ寝も。
唐に渡る前、あんなに情熱的だったさ寝も。
今はどこかに飛びすさって行ってしまった。
───もうオレは……。その
その言葉が真実だとまざまざ突きつけられる、共寝だった。
「莫津左売……。」
戸惑ったように三虎が動きを止め、こちらの顔を覗きこんだ。
莫津左売の頬があとからあとから涙で濡れている。
涙が止まらない。
「もう止めて。」
三虎にそんなことを言うのは……、いや、共寝中にそんなことを言うのは、初めてだった。
「……莫津左売。」
三虎が本当に困っているのが伝わってきたが、
「もう止めてって言ったの!
泣くなんておかしいって言うの?!
今の三虎に抱かれれば抱かれる程、思い知らされるだけよ、もう止めて!」
その後は
「ああっ、わああああ………!」
三虎は莫津左売を抱き起こし、初めて会った時のように胸に抱き、涙が枯れるまで背中をポンポンと叩き続けてくれた。
泣き止んでから、
「莫津左売……。こんなこと言うと、怒るかもしれないけれど。」
遠慮がちに三虎が喋りはじめた。
「その
誤解はとけて、すぐにちゃんとさ寝しようとしたんだけど、オレのせいで、すごく身体が
莫津左売にいろいろ教えてもらってなかったら、オレは途方に暮れていた、と思う。
ありがとう。」
「バカっ!」
(バカバカ。その
「う──────っ。」
止まった涙がまた
* * *
衣を三虎に着せ、自分も衣を着て、三虎と向かい合う。
背の高い三虎の顔を見上げる。
恋いしいこの顔も、この距離で見つめるのは、もう、今日で
そう思うと、自然と三虎の胸に右手で触れていた。
三虎はされるまま、立っている。
(あたしは泣いて
三虎は偽りなく、心を語ってくれた。
そういう仲だ。
あたしは
三虎にとって、遊行女。
夢を見るつもりなど
覚悟は、してきた。)
「あたし、ある人の妻になる。」
と三虎の顔を見て言った。
(分かるかしら?)
「誰でしょう?」
「………。」
本当に分からないらしい。三虎は動きを止めている。
「
「花麻呂か!」
三虎が目を見開き、ついで、
「ああ……、そうか。」
と顔を
「良く財貨を用意できたな。」
「ようやく、貯められたって。」
実は、花麻呂から、
「
と
でも、はい、と返事をしよう。
「あたしにすごい、メッタメタに恋してるんだから。」
そう言うと、
「安心した。」
と三虎が破顔した。
「花麻呂は良い
めったに見られない、目を細めた、顔全体の笑顔。
(だからもう……。ずるいんだから……。)
やはり胸の鼓動が早くなる。そんな自分を悔しく思いながら、
(でも……、今日が最後になるなら、見れて良かった。)
と噛みしめるように、自然に笑顔が浮かんだ。
三虎が顎をなでながら、
「わかった。少なくとも
二十一歳になって、荒弓に、おまえを妻にしないのか、どうなんだって聞かれた事があったぞ。
あれは裏に花麻呂がいたな。」
と言った。あたしはふふ、と笑った。
「当たり。」
「あいつ、しごいてやる。立派に使える衛士にしてやるから、安心しろ。」
三虎が剣呑に口の端を釣り上げた。
あはは、と莫津左売は上を向いて明るく笑った。
「じゃあ……。」
莫津左売は
金塊は、若草色の麻袋に。
薬草は、薄い
「これは未来の妻から、
三虎の手をとって、ぽん、と薬草を握らせる。
「莫津左売!」
これは受け取れない、というように三虎が声をあげる。
古い薬草だが、薬草は持つので、今でも価値がある。
「いいの。受け取って。
その
「………。」
三虎は無言で薬草を握りしめた。
莫津左売は引き戸へ向かい、鈴を鳴らして引き戸を開け、
「ねえ、お客のあと、
あたしが
と若草色の麻袋を振ってみせた。
* * *
シャララ、鈴を鳴らし、引き戸を閉めた莫津左売は、くるりと三虎の方を向いた。まっすぐ、三虎の顔を見る。
「お祝いには、来てよ。未来の
三虎は、降参、というように両手の平を莫津左売に見せ、肩をすくめた。
こんなに、強い
(いや、これは、莫津左売の気遣いだ。
オレは今、莫津左売を、ひどく傷つけているのだから……。
ついさっき、とめどなく泣いたばかりなのだから……。)
「確認だけど、……あれで足りる?」
「充分よ。もし少し足りなければ、……花麻呂と二人でなんとかする。」
「………そう。」
三虎はしばし目を
もし今宵、莫津左売が泣いて
……しかし、出したあとは?
銭の問題ではない。
三虎の夜は
(ただ住まいを与えられるだけの、無為な生活を、莫津左売は望むだろうか?
優しくも凛とした誇りを持つこの
そう思い、三虎は迷い、今宵、せめてもの餞別にと、金塊を懐にしのばせて持って来た。
その金塊でさえ。
これでは、渡せない。
(胸を駆け抜ける、この悲しさは、なんだろう。)
目を開け、
「じゃあ、……これで最後にするから、もう本当に、部下の衛士の妻にするから。」
三虎は、とん、と一回自分の口元を指差し、
「
と目を閉じた。
莫津左売が、はっと息を呑んだのが分かった。
* * *
いつも三虎は心にどこか一線をひいていて、
(十六歳で逢ってから、今まで。
あたしの心の中にいる恋いしい人は、あなただけだった。
あなたはずっと、あたしの心の中にいた。
あたしは、その恋心を、手放そうと思う。
きっと、三虎の姿形のまま、あたしの心はぽっかりと穴が開くだろう。
でも、
三虎とあたしの道は、くっきりと別れた。
その道を、あたしは、歩ける。
あたしの足には、力が満ちているのが、不思議と分かるの。
だから、歩いて行ける。)
「……ちょっと、待ってね。」
涙声でそう言い、一回鼻をすすってから、
(教えてあげるわ……。)
「三虎、
と三虎の頬を両手で包み、深い深い、口づけをした。
* * *
莫津左売。おまえは本当に、オレのたった一人の
初めて会った日を思い出す。あの日、
「バカな
と
「
声がした時、鈴が鳴るような、綺麗な可愛い声だな、顔が見たい、と思ったら、恥じらって、顔がすぐに見えなくなってしまった。
だから近くで見たい、と思い、立たせて、胸に抱きとめた時、感触があまりに柔らかくてビックリした。
守ってやりたくなって───迷いなくおまえに決めた。
それは正解だった。初めてのさ寝にオレは心から満足し、これは良い
おまえは優しくて、控えめで、柔らかく包んでくれるような人だった。
声も素晴らしくて……。オレはいつもおまえに声をあげさせるのが、楽しくてしょうがなかったよ。
寒い冬の日も、暑い夏の日も、オレはおまえと逢って、満足しないで帰るということは、ただの一度もなかった。
そして十三年たった。
もうおまえは、まわりのヤジに震える小さな
オレも、恋した
おまえの美しいところは、今も変わらない。
ただオレが、
───ありがとう。
沢山の事を教えてくれた
こんな悲しい味の、深い口づけがこの世にあるなんて、知らなかった。
最後まで、オレの知らない事を教えてくれて、……ありがとう。
────完────
↓挿絵です。
https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093072803653321
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