最終夜
天井に近い位置にたった一つ取り付けられた
――今日は遅いな、いろは。
体調を崩してしまっただろうか。
――私と会っておることが、狐や人間たちにも知られてしまったのだろうか。
巫女や御役目の男衆以外の者を社に入れることは、
彼女が来られないのは仕方ないし、元の生活に戻るだけだ。そう頭に言い聞かせ、割り切ろうとはするものの、あきらめきれなかった。
いろはの純粋な笑顔に癒され、他愛ない話や簡単な遊びをして笑い合った日々を、手放したくはない。
正座した膝の上で、両手をきゅっと握りしめる。と、外から男の声が響いた。
「早矢様、御役目のお時間にございます」
「あ、ああ。入るがよい」
朝顔の
上がってきたのは、普段通りに若い男数人と、見慣れない背広を纏った初老の男だった。
早矢の前に並んで正座した彼らは、深々と頭を下げる。
中心の背広の男が、人当たりのいい笑みを浮かべた。
「お初にお目にかかります、早矢様」
「ああ。そなたも、今宵は私に子種を授けてくれるのだな」
「左様にございます。
「ほう、見せてみよ」
快く促した早矢だったが、男の差し出したものを見た瞬間、ひゅっと息を呑んだ。
透きとおるような銀色の毛並みを持つ、小さな狐だった。
ぴくりとも動かないその身体は、既に事切れているのだと一目見ただけでもわかってしまう。その狐が何者であるのかも。
信じられない。信じたくない。
今日もまた、元気な姿で会えると思っていたのに。
これから身体の温まる行為をするにもかかわらず、背筋から指先まで急激にぞっと冷えていく気がした。
おそるおそる手を伸ばし、早矢は
「山で偶然見つけましてな。この毛並み、見事なものでしょう。色も、そこらの絹より余程美しい。肌寒い季節もじきにやって参りますし、早矢様も暖を取れればと――」
「そなたら」
男の言葉を遮り、早矢はこみ上げてくる何かを抑えつけるように問いかけた。
「そなたら、契りで私が出した条件を
「ええ、もちろんですとも」
「ならば、そなたらも覚悟はとうにできておろう」
「早矢様?」
「申したはずだぞ」
男たちに動揺が走る。仔狐を抱いたまま、早矢は彼らの顔を見渡した。
「――私の気を害し、生けるものを
ばちん、と。種を宿していた朝顔の一つが、突然大きく弾けた。それはぼっと燃え上がり、導火線のように蔓を伝って畳や壁を這い上がり、部屋中を焼き尽くしていく。
男たちは悲鳴を上げて出ていくが、一人残らず逃がすまいと蔓が全身に絡みつき、炎とともに締め上げる。
肉の焦げる臭いや断末魔を
山の地面に這う蔓も炎で紅く染まっていき、周囲の木々にも次々と燃え移る。朝顔の花も、端から焼かれて散っていく。
夜風に火の粉が舞う中、早矢は抱きかかえた
「あれらが星なのだな、いろは」
返事はないとわかりきっていても、語りかけずにはいられない。
周囲を呑み込む炎の勢いに霞んではいるものの、無数の星が漆黒の空に散らばっているのがわかる。高い木々が傘のように頭上を覆い、月はちょうどその陰に隠れてしまう位置だ。それでも、火が爆ぜる音もどこか遠くに聞こえるほどには、
いつだったか、いろはがあやとりを披露した。一つの輪になった紐で
「星とは、
「んー、わたしもよく知らないのです。でも、お星さまは絵にかくと、だいたいこんなふうになるみたいです」
「そうか。とても整って綺麗だ」
五芒星と
「朝顔の花は開くとまるいが、よく見れば中ほどの白い部分は、この星にも似ておるな」
「わぁ、ほんとですっ。朝顔もお星さまの土で育ったから、そのもようが入ったのかもしれないです」
「ふふ、いろはの考えはまことに面白いな」
自分にはない発想で物を見るいろはに、愛着が増していった。巫女から教わる知識では得られない新鮮味が、早矢の心を揺り動かす。
いろはは、頭を撫でられながらくすぐったそうに頬をゆるませていた。ふと、何か思い出したように目を見開く。
「そうだ、今日はお星さまがお空にいっぱい流れる日だって、
「ほう、さぞや見事な景色になるのだろうな」
「はいです。だからわたし、早矢さまの分までいーっぱいおねがいごとをするのです!」
「可愛いそなたは、何を願ってくれるのだ?」
「ないしょ、なのです。だれかにおねがいごとをしゃべると、かなわなくなっちゃうって言われてるのです」
はにかむ彼女に、早矢も微笑をこぼして。今夜だけ社の屋根に穴が開き、そこから夜空を眺めることができたらいいのに――と、ほんの少し
けれど今、あの時ささやかに望んでいた景色は、目の前に広がっている。
蔓を伝って燃えていく朝顔の火は、やがて
死は、不思議と怖くない。いろはのそばにいられるからか。
彼女を胸にぎゅっと抱き寄せ、冷たい土にぺたりと座って暗い天幕を見上げながら、早矢は呟く。自身にとっての、最初で最後の願いを。
「私も朝顔も、どうなろうともかまわぬ。だから、どうか――」
ぱちぱち、ぱちぱち。
鮮やかな紅に包まれていく女の望みを聞き届けるかのように、たった一筋、星が流れていった。
―完―
足元の冷たい土さえ星の一部 蒼樹里緒 @aokirio
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