最終夜

 天井に近い位置にたった一つ取り付けられた格子こうし窓からは、夕陽の光がわずかに射し込んでいた。けれど、それもすぐに夜の色へと移り変わり、涼やかな風も時折舞い込んでくる。そこにまじった草木や土の香りを感じながら、早矢さやは小さくため息をこぼした。

 ――今日は遅いな、いろは。

 体調を崩してしまっただろうか。やしろへは毎日のように来ているから、今さら道に迷うこともないはずだ。何かよくないことでもあったのか。

 ――私と会っておることが、狐や人間たちにも知られてしまったのだろうか。

 巫女や御役目の男衆以外の者を社に入れることは、ちぎりに反する。それを破った己は如何様いかような罰でも受け入れるが、いろははゆるしてやって欲しい――そう願わずにはいられない。彼女を招き入れたのは、己の意思なのだから。

 彼女が来られないのは仕方ないし、元の生活に戻るだけだ。そう頭に言い聞かせ、割り切ろうとはするものの、あきらめきれなかった。

 いろはの純粋な笑顔に癒され、他愛ない話や簡単な遊びをして笑い合った日々を、手放したくはない。

 正座した膝の上で、両手をきゅっと握りしめる。と、外から男の声が響いた。

「早矢様、御役目のお時間にございます」

「あ、ああ。入るがよい」

 朝顔のつるうごめき、扉を開ける。

 上がってきたのは、普段通りに若い男数人と、見慣れない背広を纏った初老の男だった。

 早矢の前に並んで正座した彼らは、深々と頭を下げる。

 中心の背広の男が、人当たりのいい笑みを浮かべた。

「お初にお目にかかります、早矢様」

「ああ。そなたも、今宵は私に子種を授けてくれるのだな」

「左様にございます。僭越せんえつながら、御役目の前に、早矢様に差し上げたい品がございまして」

「ほう、見せてみよ」

 快く促した早矢だったが、男の差し出したものを見た瞬間、ひゅっと息を呑んだ。


 透きとおるような銀色の毛並みを持つ、小さな狐だった。


 ぴくりとも動かないその身体は、既に事切れているのだと一目見ただけでもわかってしまう。その狐が何者であるのかも。

 信じられない。信じたくない。

 今日もまた、元気な姿で会えると思っていたのに。

 これから身体の温まる行為をするにもかかわらず、背筋から指先まで急激にぞっと冷えていく気がした。

 おそるおそる手を伸ばし、早矢は亡骸なきがらをそっと腕に抱きしめる。まぶたをそっと押し上げてみても、鬱金うこん色の瞳に光は宿っていない。

「山で偶然見つけましてな。この毛並み、見事なものでしょう。色も、そこらの絹より余程美しい。肌寒い季節もじきにやって参りますし、早矢様も暖を取れればと――」

「そなたら」

 男の言葉を遮り、早矢はこみ上げてくる何かを抑えつけるように問いかけた。

「そなたら、契りで私が出した条件をおぼえておるか」

「ええ、もちろんですとも」

「ならば、そなたらも覚悟はとうにできておろう」

「早矢様?」

「申したはずだぞ」

 男たちに動揺が走る。仔狐を抱いたまま、早矢は彼らの顔を見渡した。臙脂えんじ色の両目を、怒りと嘆きで満たして。


「――私の気を害し、生けるものを無闇矢鱈むやみやたらに殺めたとき、朝顔の種はとなる、とな」


 ばちん、と。種を宿していた朝顔の一つが、突然大きく弾けた。それはぼっと燃え上がり、導火線のように蔓を伝って畳や壁を這い上がり、部屋中を焼き尽くしていく。

 男たちは悲鳴を上げて出ていくが、一人残らず逃がすまいと蔓が全身に絡みつき、炎とともに締め上げる。

 肉の焦げる臭いや断末魔を後目しりめに、早矢はゆらりと立ち上がって歩き出した。想像の中でしか知り得なかった『外』へと。

 山の地面に這う蔓も炎で紅く染まっていき、周囲の木々にも次々と燃え移る。朝顔の花も、端から焼かれて散っていく。

 夜風に火の粉が舞う中、早矢は抱きかかえた仔狐こぎつねの身を優しく撫でながら、暗い空を見上げた。素足で踏みしめる土は、不思議とひんやりとした温度を肌に伝えてくる。

「あれらが星なのだな、いろは」

 返事はないとわかりきっていても、語りかけずにはいられない。

 周囲を呑み込む炎の勢いに霞んではいるものの、無数の星が漆黒の空に散らばっているのがわかる。高い木々が傘のように頭上を覆い、月はちょうどその陰に隠れてしまう位置だ。それでも、火が爆ぜる音もどこか遠くに聞こえるほどには、静謐せいひつな夜景に見惚みとれた。

 いつだったか、いろはがあやとりを披露した。一つの輪になった紐で幾重いくえもの直線を織り成し、器用に様々なものを形作っていって。中でも、五芒星の対称的な図形が、早矢は特に気に入った。

「星とは、斯様かようなかたちをしておるのか」

「んー、わたしもよく知らないのです。でも、お星さまは絵にかくと、だいたいこんなふうになるみたいです」

「そうか。とても整って綺麗だ」

 五芒星とかたわらに咲く朝顔の一つを見比べ、早矢はあることに気づく。

「朝顔の花は開くとまるいが、よく見れば中ほどの白い部分は、この星にも似ておるな」

「わぁ、ほんとですっ。朝顔もお星さまの土で育ったから、そのもようが入ったのかもしれないです」

「ふふ、いろはの考えはまことに面白いな」

 自分にはない発想で物を見るいろはに、愛着が増していった。巫女から教わる知識では得られない新鮮味が、早矢の心を揺り動かす。

 いろはは、頭を撫でられながらくすぐったそうに頬をゆるませていた。ふと、何か思い出したように目を見開く。

「そうだ、今日はお星さまがお空にいっぱい流れる日だって、かかさまが言ってたのです!」

「ほう、さぞや見事な景色になるのだろうな」

「はいです。だからわたし、早矢さまの分までいーっぱいおねがいごとをするのです!」

「可愛いそなたは、何を願ってくれるのだ?」

「ないしょ、なのです。だれかにおねがいごとをしゃべると、かなわなくなっちゃうって言われてるのです」

 はにかむ彼女に、早矢も微笑をこぼして。今夜だけ社の屋根に穴が開き、そこから夜空を眺めることができたらいいのに――と、ほんの少しうらやんだ。

 けれど今、あの時ささやかに望んでいた景色は、目の前に広がっている。

 蔓を伝って燃えていく朝顔の火は、やがてふもとの村にも届き、そこに暮らす人間諸共もろとも焼き尽くすだろう。そして、己の命もここでようやく尽きると、早矢は確信した。

 死は、不思議と怖くない。いろはのそばにいられるからか。

 彼女を胸にぎゅっと抱き寄せ、冷たい土にぺたりと座って暗い天幕を見上げながら、早矢は呟く。自身にとっての、最初で最後の願いを。


「私も朝顔も、どうなろうともかまわぬ。だから、どうか――」


 ぱちぱち、ぱちぱち。

 柏手かしわでのような響きで、炎はぜる。

 鮮やかな紅に包まれていく女の望みを聞き届けるかのように、たった一筋、星が流れていった。



  ―完―

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足元の冷たい土さえ星の一部 蒼樹里緒 @aokirio

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