第三夜

 連なる山の木々が赤や黄色に染まり、日が昇っている頃でも風は涼しさを増す。地面に落ち葉が被さる時期でも、いろはは外で遊ぶのが好きだった。

「また遠くまでわざわざ行くのかい。遊ぶだけなら、この洞穴ほらあなの近くで充分じゃないか」

 母親からはそう呆れられるけれど、あまりにも遅く帰ったとき以外は叱られることもないので、毎日自由を謳歌している。同族以外のあやかしにも出会えるかもしれないとささやかな希望を抱きながら、野山を駆け回った。もっとも、一番の目的は早矢さやと会うことだけれど。

 ――今日は、どんなお話をしようかな。なにをもっていけば、早矢さまはよろこんでくれるかな。

 一歩進むたびに、心が躍るようで。足元でかさかさと鳴く落ち葉が、舞い上がるような気さえした。

 紅葉の景色の中でも、やはり朝顔はどんな植物よりも紅く見える。早矢が御役目に励んでいるからこそ、朝顔ももっと美しく咲くのだろう。

 ――村にも、朝顔はいっぱい咲いてるのかな。

 一旦足を止め、くるりと方向転換する。少しくらい人間の生活をのぞき見ても罰は当たらないだろう、という好奇心が競り勝った。

 やしろへ何度目かの来訪をした時、早矢の話していたことを思い出した。

「夜空には、月や星というものが浮かぶそうだな」

「はいです。お月さまもお星さまも、ぴかぴか光ってとってもきれいなのですよっ」

「そうか。巫女からの受け売りだが、月や星にも、この世と同じく人や獣が棲むらしい」

「そうなのですか!」

「この世もまた数多あまたの星の一つなのだと聞いておる。星が如何いかほどに大きなものなのか、私にはわからぬが……きっと、様々なものにあふれておるのだろうな」

 そっと抱き寄せられれば、早矢の豊かな胸に顔が埋まる。そのやわらかさとぬくもりに、いろはは甘えた。母親に抱きしめてもらうときとは、別の心地好さがある。

「月や星、太陽を日々眺めながら朝顔は咲き続ける。そなたと出会えたのも、星の土を通じて朝顔が導いてくれたためかもしれぬな」

「そうだったら、もっとうれしいのです! お星さまが空を流れるときに、三回おねがいごとをするとかなうって言い伝えもあるのです」

「ほう、面白いな。社からは空が見えぬのが、少し残念だが」

 ――じゃあ、わたしが早矢さまの分まで、いっぱいおねがいごとをすればいいんだ。村の人たちだって、早矢さまにおいのりしてるんだもんね。

 そう気づいてからは、星が流れない夜でも、いろはは毎晩祈りを捧げるようになった。


「早矢さまも、村の人たちやわたしたちといっしょに、もっともーっとしあわせになれますように」


 ほかの妖たちに聞かれたら、鼻で笑われる願いかもしれない。それでも、この山の一帯はいつまでも平和であって欲しいし、御役目の成果で村に子どもが増えればにぎやかになる。それこそが早矢の求める幸せなのだろうと、いろはは想像していた。

 実現されるのが何年先になろうと、早矢が生きている限りは待ち続けるつもりだ。

 しばらく山を下ると、畦道あぜみちやその先に佇む建物が見えてきた。一般的な民家とは異なる、石灰色をした直方体だ。やはり、群生した朝顔の臙脂えんじ色が、田畑よりずっと目立っている。

「わぁ……!」

 四角い建物が点在し、朝顔が咲き乱れる景色を木陰から遠目に眺め、いろはは感嘆の声を漏らす。

 ――ここが、人間の住む村なんだ。

 道には大人の姿もぽつぽつと見え、村には子どもが生まれにくいという早矢の話も納得できる。妖の子どもでさえ、自分たちの集落で遊ぶことが多い。いろはにも同族の友はいるが、人間に興味を持つ彼女をどこか腫れ物に触るように扱うふしもあった。

 村の大人は、大体が白衣を着ている。早矢のまとう肌襦袢じゅばんとは違った装いにも、いろはは目を惹かれた。

 ――こうやって遠くから見るだけなら、そんなにこわくないのにな。かかさまもみんなも、自分の目でたしかめたらいいのに。

 不意に、すぐそばの畦道を数人の男が通りかかった。

 いろはは息を潜め、木の幹全体で身を隠すように、背中をぴったりとつけて様子をうかがう。

「――では、被験者の具合は変わらんのだな」

「はい。朝顔もご覧の通りに非常に美しく咲いておりますし、計画は極めて順調です」

「今夜も、雇った者たちを御役目に向かわせる予定です」

「この研究が成功した暁には、不老不死の力も確実に我々のものとなりましょう」

「結構。彼女には、今後も励んでもらわねばな。我らの……ひいては人類の更なる繁栄のために」

 白衣の男たちに囲まれる中、ただ一人背広をきっちりと着こなした初老の男は、不敵な笑みで大言壮語を口にする。

 彼らの会話を聴きながら、いろはは小首を傾げた。

 ――なんのお話をしてるんだろう。おやくめって、早矢さまのことだよね。

 耳慣れない言葉ばかり出てきたせいか、内容がよく飲み込めない。

「今夜は、私も御役目に参加しても構わんかね」

「ええ、是非とも」

「長年この地で研究を続けていられるのも、貴方様の、そして政府のご助力の賜物ですので」

 背広の男も早矢のもとへ行くのだろうということだけは、いろはにもどうにか理解できた。

「明日は御役目があるから、日の暮れぬうちにおいで」

 昨日も、彼女からそう言い聞かされていたことを思い出す。

 ――早矢さまもいそがしいだろうし、わたしもいそがなきゃね。

 村の見物を手短に済ませ、静かに場を離れようとしたとき。

 ぱきり。

 足元に落ちていた木の枝を、気づかず踏んでしまった。

「誰だッ」

 男の一人が警戒する。いろはは思わず跳び上がりそうになった。


 ――村の人間たちには、絶対に見つかってはいけないよ。


 母親の言葉が、脳裏をよぎる。

 とっさの判断で術を解き、狐の姿に戻った。銀色の毛並みが、木洩れ日を反射してかすかにきらめく。

 そのまま振り返らずに駆け出すと、パァン、と何かが弾ける音がして。足が止まり、身体も硬直する。

 ――早矢さま。

 何かの当たった自分の背中が、やけに熱くなっていくのを感じながら、いろはは倒れた。

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