第二夜
いつからこの
「早矢様は、この山に咲く朝顔の化身なのです。花はとても珍しい色をしておりまして、村ではしぼり汁を使った工芸品も多く作られております。村や人が栄えるのは、早矢様の御力があってこそなのです」
一人の年老いた巫女の熱弁は、今でも思い出せた。早矢が字の読み書きや他者との会話に不自由しないのも、彼女の教育の
朝顔が山や村の至る所に咲き誇る様を、早矢は想像することしか叶わない。それでも、生活は充実していた。自分が御役目をこなすほど朝顔は活き活きと繁り、山を明るく彩っていく。巫女たちに身の回りの世話もされ、不満もない。社の中で過ごす毎日は、早矢にとって平穏なものだった。
一つ変化があるとすれば、迷子の少女――いろはと出会ったことだ。
その日の夕暮れにも、彼女はまたやってきた。
扉を開けて招き入れれば、いろはは早矢に歩み寄る。その表情は、いつも以上に陽気だった。
「早矢さま、こんにちはです!」
「ああ。よく来たな、いろは」
「見てほしいのです! 木の実がこんなに落ちてたのですよっ」
「ほう。変わったかたちをしておるな」
小さな両手が運び込んだのは、山中に生えた木々の実だ。
早矢の隣にちょこんと座り、いろははそれらを一つずつ畳の上に並べてみせた。
「いちばん小さいのがどんぐり、いちばん大きいのが松ぼっくり、このトゲトゲの中に入ってるのは栗なのです」
「山には
えへへ、と照れ笑いをする様子もまた、早矢の心を和ませる。日頃直接関わるのは大人ばかりで、子どもとは言葉を交わす機会もなかった。いろはと触れ合って『外』の知識を得ることは、いつ経験しても新鮮だ。
木の実を手の中に一旦戻し、いろははそっと早矢に差し出した。
「滝のお水で洗ってきたのです。早矢さまにも、食べてほしいのです」
「これらは食物なのか」
「はいです。焼いたりゆでたりしたほうが、もっとおいしいのですけど」
「……そなたの気遣いは、ありがたいのだがな。私は、食物を口にせずとも生きられるのだ」
「え?」
いろはは、きょとんとまるい目をさらにまるくする。
――さて、どう申せば
微苦笑を浮かべ、早矢は静かに言い聞かせた。肌
「我が身は、朝顔とつながっておるのがわかるであろう」
「はいです」
「山には雨が降り、その水を吸った土も潤う。朝顔の根や茎を伝い、私にもその養分が常に流れ込んでくるのだ」
「へー、そうなのですか! すごいです!」
「私の中にも、御役目で男衆につけられた子種がある。それらを糧として朝顔は多くの種をつけ、蔓になる芽も増やしておる。山や村で昼も夜も年中朝顔が咲き続けておるのは、斯様な仕組みのおかげだ」
「おやくめって、たいへんなのですか」
いろはの眼差しが、ふと心配げになる。
緩くかぶりを振り、彼女を安心させるように早矢は言葉を継ぐ。
「私も、そなたのような人肌に触れると安心するのだ。苦しくはないぞ」
「……ひとはだ」
木の実を抱える小さな手が、きゅっと握られる。何か思い詰めるかのように。
「どうした、いろは」
「……わたし、早矢さまに言わなきゃいけないことがあるのです」
「何だ、申してみよ」
早矢がやわらかく促せば、いろははぎゅっとまぶたを閉じた。短い髪がもぞもぞとひとりでに揺れたかと思うと、そこからひょこりと意外なものが飛び出した。
髪と同じ銀色の毛に覆われた、獣の耳が。
目を
「わたしは、キツネなのです。
だまっててごめんなさい、と謝る声は、わずかに震えを帯びていた。
ふ、と笑みをこぼした早矢は、銀色の耳をそっと撫でる。ふさふさとしたそこは、ぴくりと一瞬
「そうか。人にしては目も髪も風変わりな色をしておるものだと、会うたびに思っておったが。可愛い狐であったか」
「いやじゃ、ないのですか」
「
おずおずと振り向いたいろはの
その頬を撫でながら、早矢はまた身体の内側からじんわりとあたたまっていくのを感じた。
――楽しい、とは斯様な感情なのだろうか。
山には獣のほかに
今まで交流してきた人間たちとは別の感性を持ち、何でも素直に顔や口に出すいろはの様子は、とても微笑ましい。彼女と会うたびに新たな発見もあり、『外』の知識が深まっていく。
許されるなら、御役目の時間以外はいろはとともにずっと過ごしたいとさえ願い始めた。
安心してか、幼い狐の少女は涙を拭う。
「早矢さまにそう言ってもらえて、とってもうれしいのです。わたしの色も、キツネの中ではめずらしいってよく言われるのです。でも、あの……」
「何だ」
「わたしがキツネだというのは、だれにも言わないでほしいのです」
「もちろんだ。私がそなたと
人差し指を唇の前で立てる仕草をして、早矢は穏やかに笑む。
いろはも嬉しげに、こくこくと何度もうなずいた。
「さあ、じきに日も暮れる。暗くならぬうちにお帰り」
「はいです。あ、木の実は早矢さまへのおみやげに持ってきたので、どうぞですっ」
「ああ、ありがとう」
すっくと立ち上がったいろはは、ぺこりと頭を下げて社を出ていった。
手の中に収まった三種の木の実を見比べ、早矢はその輪郭をそっと撫ぜる。いろはにいつもするように。
――外へ行くことは叶わずとも、いろはには幾度でも会いたい。私もあの子のそばにおりたい。
村の繁栄のためではなく、己のための願いを自覚する。
数えることも忘れるほどに長く生きた年月の中、それは初めて抱いたものだった。
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