足元の冷たい土さえ星の一部

蒼樹里緒

第一夜

 いつからか、とある山には奇妙な色の朝顔が咲き誇るようになっていた。山だけでなくふもとの村も、鮮やかな臙脂えんじ色に年中彩られている。

 夏の名残を含んだ夜風が、木々の枝や葉をざわめかせた。

 暗い森の中を、一人の少女が駆けていく。小さな足に履いた草履ぞうりで、軽やかに土を踏んでいた。ぽんぽんと弾むまりにも似て、短い髪も揺れる。

 ところが、その足は急に止まる。生暖かい風にまじり、男衆の声が聞こえてきたのだ。

 少女は、太い木の幹にそっと身を隠す。まるい瞳で、じっと様子をうかがった。

「今日もいいだったなぁ」

「あんな美人とヤるだけで金がもらえるんだから、得だよな」

「ほんと、来てよかった」

 数人の男は、陽気に言葉を交わしながら、山道を下りていった。松明の光が遠のいていく。

 少女は小首を傾げ、彼らの来た道を辿り始める。

 ――あっちのほうには、行ったことなかったな。

 月明かりに頼らずとも、少女の目には景色が日中と同じように見えていた。男衆の足音が遠ざかったのを確かめ、浴衣の裾を揺らしてまた走る。

 しばらく進むと、開けた場所に出た。鬱蒼と林立する木々に囲まれ、やしろらしき建物が静かに建っている。木製の扉は、外界からの来訪を拒むかのように固く閉ざされていた。そこや壁全体にも、やはり朝顔とそのつるがびっしりと張り巡らされている。

 先刻の男衆の会話で、少女もこの中に誰かいるのだろうと察しがつく。

「いいかい。村の人間たちには、絶対に見つかってはいけないよ。優しそうな奴でも、しゃべってはだめだよ」

 母親からは、日頃そう言い聞かされてはいた。けれど、どんなにその理由を聞いても教えてもらえず、少女の好奇心は募る一方だ。

 ――ちょっとだけなら、いいよね。

 こくりと小さく喉を鳴らし、足音を忍ばせて扉への階段をのぼる。

 ギィッ。

 ところが、片足を乗せた途端、古びたそこは軋んで鳴いてしまった。あわてて一旦降りる。


「誰か、そこにおるのか」


 扉の内側から、不意に問いが投げかけられた。若い女のようだ。警戒するでもなく、素朴な疑問を口にするような響きで、典雅な声音が夜気を震わせる。

 ――どうしよう。

 少女は、うつむいて身を強張こわばらせた。

 このまま逃げてしまおうか。相手に顔を見せて謝ろうか。

 ――でも、悪いことをしたらあやまりなさいって、かかさまは言ってた。

 すぅ、と小さく息を吸い込み、顔を上げる。

「あの、ごめんなさいですっ。遊んでたら、道に迷ってしまったのです……」

わらべか。斯様かような時に迷子とは、さぞや怖かったであろう」

 ギィ、と。階段ではなく、今度は扉が鳴いた。

 慰めるような女の言葉の後、朝顔の蔓がひとりでにうごめいて扉を開けていったのだ。

 少女は驚き、ぱちぱちとまばたきを繰り返す。ついでに、頬もつねってみる。

「いたい」

 ――夢じゃない。

 開け放たれた扉の向こうには、仄かに行燈あんどんの光がともっていた。その色よりも濃く、むしろ朝顔と同じ色をした長い髪が、まず少女の目を捉えた。

 部屋の中心で足を崩して座り、白い肌襦袢じゅばんを素肌に羽織っただけの女が、そこにいた。髪と同じ色の瞳で、彼女は少女を穏やかに見つめる。

「さあ、入るがよい。夜は獣も出やすいと聞く。しばらくここにおれば安全だ」

「は、はいです」

 促されるまま、少女はおそるおそる踏み入った。草履を脱いで畳に上がれば、そこも蔓が一面覆っているのがわかって唖然とする。天井にも、緑色のそれは縦横無尽に這っていた。

 おいで、と女に優しく手招きされ、蔓の隙間を縫うように歩み寄る。女の手がふわりと伸び、少女を自分の隣に座らせた。

 ――きれいな人。でも……。

 よく見れば、女の手足にも蔓が絡みつき、むしろ一部が管にも似て体内に入り込んでいる。

 それに気づいた少女は、相手の顔を見上げて尋ねた。

「おねえさんは、ここでなにをしてるのですか」

「御役目――出産祈願のための儀式だ」

「しゅっさん?」

「要は、子作りのことだ。村の女からは、子がほとんど生まれぬと聞いておる。男衆が七日に一度、私のもとへ祈りに参るのだ。この朝顔を養い、村を栄えさせるために」

 ――あの人たちは、おいのりに来てたんだ。

 山を下りていった男たちの姿を思い出し、少女は納得する。

 少女の髪を優しく撫ぜながら、女も問いかけた。

「そなたも村の子か」

「ええと、ちがうのです。もっと向こうの」

 村とは別の方角を指さした少女は、はっと口をつぐむ。

 ――いけない。おうちのことはおしえちゃだめだって、母さまに言われてるのに。

 けれど、女は疑うでもなく、そうかとうなずいた。

「私は、この社から外へ出たことはないのでな。村や山がどのような様子なのかも、男衆や巫女たちの話でしかわからぬ」

「ずっと? 一歩も出たことはないのですか」

「ああ。御役目をになう者としてのちぎりだ」

「さびしく、ないのですか」

 純粋な疑問に、女は不思議そうに臙脂色の目を瞬かせた。そして、ふんわりと笑む。周りに咲き乱れる朝顔のように。

「人には会えるし、そなたのように言葉も交わせる。淋しくはないぞ。もっとも、男衆や巫女以外の者と会うことは、契りで禁じられておるのだがな」

「えっ、わたしがここにいるとまずいんじゃ……!」

「ふふ、案ずるな。御役目は済んだし、私の身を清める巫女も帰った。しばらくは誰も来はせぬ」

 ――あったかい……。

 髪を撫でられながら、少女は女の言葉やぬくもりに甘え始めていた。豊かな胸元に、ぽふりと頭を預ける。母親とはまた別種のやわらかさが、そこにはあった。草木の匂いにまじって蜜のように甘く香るのは、女自身の香気だろうか。

「そなた、名は何と申す」

 ふと問われ、少女は視線を上げて答える。

「いろは、なのです」

「いろはか。可愛い名だな。私は、早い弓矢の矢と書いて、早矢さやだ」

 女――早矢にほめられ、いろはも顔をほころばせた。

 村の人間は恐ろしいものだから近づいてはいけない、と母親からも釘を刺されている。けれど、生まれて初めて接した人間はとても思いやりにあふれ、悪人とは到底思えない。

 優しい体温に包まれるうちに、まぶたも重くなってくる。

 それを察してか、早矢が耳元でささやいた。

「夜が明けるまで眠るとよい。私がそばにおる」

「ありがとう、です……」

「それと、私の些細な頼み事なのだが。また、ここへ遊びに来てはくれぬか」

「え?」

「そなたと話しておると、身が軽くなる心地がするのだ」

 よいか、と問われれば、自然と首を縦に振ってしまう。

 ――この人なら、きっとだいじょうぶだよね。


 朝顔の臙脂色は、陽の光を浴びればもっと鮮やかに目に映るのだろう。

 早矢とともに眺める美しい景色を想像しながら、いろはは瞼を閉じた。

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