後
「長谷川香菜です、よろしくお願いします!」
第一印象は元気な子だな、だった。
食品加工会社なんて、大体は外側から見る小綺麗さよりも中身は体力勝負のキツイ仕事だ。年齢、性別に関係なく重量のあるものを持たされ、気づけば手の先がボロボロになっていく。自分の見た目を第一に考えそうな若い子には、偏見かもしれないが長くは続かないなと新入社員挨拶で勝手にそんなことを思った。自分が責任者でもないのに。
多くは男性が入ってくるようなところにポツンと混じっていた彼女と初めて会話したのは、意外にもその日帰宅して鍵を開けようとした時だった。静かな廊下に嫌に響く大きな、それでいて少し高めの声が向けられて思わずびくりと肩が揺れる。
「あれ?もしかして森崎先輩ですか?今日入社した長谷川です!え、先輩の部屋そこですか?うわー、嬉しい!私その隣なんですよ!良かったー、全然知らない男の人だったらどうしようかと思ってました!」
矢継ぎ早にそこまで喋って、思い出したように"あ、よろしくお願いします!"とニコリ笑った彼女に、何かを言おうとした口が開いて閉じる。彼女の中で、今日一日会話もなく朝の新入社員挨拶の場で一度だけ顔を合わせた私は、全然知らない女の人ではないようだ。
第二印象は苦手な子だな、だった。
◇
暦上は春とはいえ、まだ寒い。
仕事帰りの時間帯が明るくなってきたのは嬉しいが、少しでも風が吹けば冷たいそれから逃れるように袖口に手を隠す。
そういえば冷蔵庫の食材が少なかったことを思い出した。
近年稀に見る物価の上昇で、物を買うのも考えさせられるようになった。人々は少しでも安さを求め、かく云う私もどこが一番安いのかを探してスーパーをハシゴするようになってしまった。
「あ、森崎さん!お疲れ様です、帰るタイミング同じだったんですね!一緒に帰りませんか?」
「…長谷川さん。お疲れ様」
どうせ隣ですし、と。左に足並みを揃えた彼女の緩く巻いた髪が揺れる。どこから走って来たのか、少し乱れた息を整えてニコリ笑う。"一緒に帰る"なんて、学生みたいだ。
「長谷川さんって社交性高いよね」
無意識に出た言葉だった。それを聞いた彼女は一瞬きょとんとして、それから"えー、なんですかー?"と分かったのか分からないのか判別しにくい表情でケラケラと笑う。
彼女みたいに社交性が高く、人一倍笑い、愛嬌があれば、私も何か違ったのだろうか。
メイクは適当、髪は邪魔になるからショートで手入れもしない、他人との会話も上手い方ではないから自然と黙ってしまえば"大人しいね"が定着してしまった。私も彼女みたいであれば。彼女みたいに。
どうすれば彼女みたいになれるのだろう。
◇
「森崎さん、フィナンシェって食べられますか?」
金曜日の夜。あまり鳴らないインターフォンに何か頼んでいただろうかとドアスコープを覗けば、さっきまで職場で見かけていた隣人がいた。さっきまで見ていた服装とは違い、少しラフな格好だ。
隣人であろうとも、彼女がこの部屋のベルを鳴らすなんてことはこれまでなかった。こちらも用もなければ、自宅に帰ってからも交流を図るような親密さはなかったからだ。なので何事かと出てみれば先の一言。どうやらお菓子作りにハマっていて、それの試食を求めていたようだった。
「ありがとうございます。作ってみたは良いものの、食べてもらえそうな人がいなくて。あ、もうすぐ焼き上がるので、先に紅茶飲んでてください」
是非、と通された部屋の中央、炬燵の一角に座らされ可愛らしいティーカップに入った紅茶を出される。向かい側に自分用の同じ紅茶を置き、甘い匂いが充満するキッチンに消えた彼女を一瞥して部屋を見渡す。
淡い暖色系で統一された、いかにも彼女らしい部屋だった。
小さな小物、お洒落な家具、控えめだけどポイントとして飾られた観葉植物。どれもこの隣にはないものだ。同じ間取りなはずなのに、全く別の空間だった。
どうすれば彼女みたいに。
「お待たせしました!ちょっと形は歪ですけど、味はいけてると思います!…たぶん」
「いただきます。…美味しいと思う」
「ほんとですか!?良かったー!でも流石にもうちょっと練習して、この形なんとかしないとダメですね」
市販のものと比べれば随分と歪なそれを彼女は照れたように掲げ、温くなり始めた紅茶を飲む。一体何を目指しているのだろう。お店でも出したかったのだろうか。
たぶん、衝動的なものだったんだろう。
「ふぁ…なんか安心したら眠くなってきちゃっ、……寝不足、か…な…」
糸の切れた人形のようにドサリと倒れた彼女を見下ろす。
「…ごちそうさま、長谷川さん」
使い切ってゴミになってしまった睡眠薬の袋をポケットに仕舞う。
キッチンに綺麗に並べられた包丁を借り、その喉に狙いを定めた。
◇
「睡眠薬はご自分のですか?」
「はい。最近眠れなかったので、病院で処方されたものです」
"それから汚れると困るので、風呂場まで運んで喉を切りました。力の入っていない人間って重いんですね"
そう淡々と述べた森崎に、矢田は内心ぞっとした。
何の感情もなく言ったのだ、目の前の女は。人一人を、知人を殺害して。
だらりと下げられた両手に抵抗する気はないのだろうということは窺えるが、それが益々不気味だった。
「私のところに聞きに来たのは隣人だからですか?それとも分かってて?」
「先程も言ったとおり、動機については現在調査中でして。殺害現場の風呂場に、被害者とは別の短い髪の毛が見つかっています」
鑑識には、とっくに回してある。自供したので意味は成さないが、それは二週間前に一度だけ訪れたはずの目の前の女のものと出るだろう。二週間前というのも恐らく嘘だ。仮に本当に訪れていたとして、二週間も前なら髪の毛なぞ、とうに流れている。
それを聞いた彼女は、"ああ、なるほど…"と小さくこぼす。それだけだった。
感情がないのか、この女は。
「…ああ、そういえば。長谷川さんの部屋の鍵を返すのを忘れていました。全部綺麗にして、ちゃんと鍵を掛けたんですが…。刑事さん、すみませんが返しておいてくれますか」
「…預かりましょう」
思い出したように靴箱の上のキーケースを指した後を追って、この部屋には似つかわしくない可愛らしいキーホルダー付きの鍵を矢田の指示で回収した木村は、何かを耐えるように眉間に皺を寄せた。
密室なんて馬鹿らしい。
「最後に。被害者は胴回りの肉を一部削ぎ落とされていました。あれも貴方がやったんですか?」
「ええ。食品加工会社に勤めているので、肉ならどう切れば良いかは分かるので」
「…理由を尋ねても?」
「彼女を食べれば、彼女みたいになれると思ったんです」
今度こそ、男二人は絶句した。
彼女みたいになれば、この劣等感はなくなると思った。
当たり前のように言ったそれに、咄嗟に口元を押さえたのは木村だ。矢田は苦虫を潰したような顔をしている。
「半分は昨日の朝に。もう半分はまだ冷蔵庫にありますよ。そういえば…」
これから食べるところだったんですよ、朝食を。
そういって、女は
隣人の朝食 えんがわなすび @engawanasubi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます