隣人の朝食

えんがわなすび


「え、長谷川さんが…?」


 そう聞き返した私に、刑事だと名乗った矢田と木村という男二人は、私が少し開けた玄関の扉を引き継ぐように大きく開けた。ごく一般的なマンションの扉は、男二人が並んで立つには些か狭いように見えた。





 日曜日の朝。まだ早い時間に鳴ったインターフォンの音に、朝食を用意しようと冷蔵庫を開けようとした手が止まる。少しだけ開けたカーテンの隙間から洩れた朝日は一人暮らしのワンルームを静かに照らし、休みの日にはいつもかけている朝の番組がゆったりとした曲を伴って始まった。早春の朝は遅い。


 もう一度、一回目の呼び出しから暫く間を置いて鳴らされたインターフォンに、漸く私はそちらに足を向ける。ついでに昨日眠れずに服用した睡眠薬のゴミを片付ける。テーブルの上に出しっぱなしになっていたそれは、クシャッという独特な音を立ててゴミ箱に姿を消した。


 こんな朝早くから。


 そう胸中で呟き、モニター越しに応対した私に、男二人はテレビで見たような小さな手帳を示したのだった。




「ええ、お亡くなりに。一昨日の金曜日の夜に、この隣で。森崎もりさき静香しずかさん、何かご存知ないですか?」


「物音とか、変わったこととかなかったっすか」


 体格の良い矢田さんは短めに揃えた顎髭を触りながらまっすぐに目線を合わせ、矢田さんより少し背の高い痩せ型の木村さんは大きく開けた玄関の扉が閉まらないようになのか、それに体を預けたまま人懐こい表情で矢田さんの言葉を継ぐように言う。


 日曜日の早朝で廊下を歩く人は少ないとは言え、玄関に男二人も押しかけている光景は周り近所から見れば異様に映るかもしれない。第三者からその様を想像した私は、"とりあえず玄関閉めてもらえませんか"と二人を促した。

「すみませんね」と、さして悪びれた様子もなく言った矢田さんの言葉に続き扉が閉まる。




 長谷川はせがわ香菜かな


 同じ食品加工会社に勤める後輩だ。

 人当たりのいい笑顔で笑うその顔を思い出す。背中の中ほどまで伸ばした髪はいつもふんわりと整えられており、利便性だけを優先した私のショートヘアとは随分と違っていた。女らしさの違いもあっただろう。可愛い女とはこうあるべき、と言うような女性だった。


 誰に対しても笑顔で接する彼女と、知り合う人に"大人しい"と評価される自分。

 きっと同じ会社に勤めていなければ、きっと同じマンションに住んでいなければ、二人は接点を持たなかっただろう。




「金曜日の夜は、仕事から帰ってずっと一人でいたので何も。ここのマンション、壁が厚い方なのか、あまり隣の音も気にならないので」


「そうですか。ちなみに、帰宅は何時頃ですか?」


「買い物のために何件かスーパーを回っていたので20時くらいだったかと。最近物価が高くなったので少しでも安いところを探してると遅くなるんです。…あの。長谷川さんは、どうして殺されたんですか」


 私の話にメモを取っていた矢田さんが紙から顔を上げ、ペンを持ったままの手で顎髭を触る。少し年齢を重ねた風に見える目元がゆっくりと私を見た。

 それからメモ帳を数ページほど遡った彼は、一度静かに息を吐く。


「殺害方法のことを聞いているのでしたら、致命傷は喉を掻き切られての失血死です。その後、何故か胴回りの肉を一部削ぎ落とされています。胃から睡眠薬の反応が出たので、恐らく眠らされている間にやられたんでしょう。部屋には鍵が掛かっており、その鍵は紛失中。動機の方を聞いているのでしたら、現在調査中です」


 どこか淡々と言葉を並べた矢田さんに、隣りにいた木村さんが"矢田さん"と、たしなめるように呼ぶ。チラリと彼を見た男は次いで私に目を向け、"朝食中でしたらすみませんね"と、また悪びれた様子もなく言うそれに、何も返さず頭だけ横に振った。食事はこれからだった。


「ところで、森崎さんは長谷川さんとプライベートで会ったりしてたんすか?隣同士だと仲良かったんすかね」


「部屋が隣なのは偶然です。会社が家賃を負担してくれる指定マンションがここなので、うちの社員は割りと借りてます」


「じゃあ、個人的付き合いとかは」


「二週間くらい前に、一度だけ彼女の部屋に行った程度です」


 仲が良かったのか、と聞かれると疑問が浮かぶ。同じ会社、隣人、同じ女性でたまに挨拶をする程度。認識はそんなものだ。少なくとも私はそう思っていたのだが、彼女はもしかしたら違っていたのかもしれない。先日、何の前触れもなくインターフォンを鳴らした彼女は、「森崎さん、フィナンシェって食べられますか?」と顔を覗かせたのだ。


 どうやらお菓子作りの勉強しているらしく、他人の意見も聞きたかった彼女は同じ職場の人、と言うだけで私を部屋に呼んだ。彼女に対しての認識がその程度しかなかった私にとって、仲が良いのか分からない存在を自宅に招く社交性に驚いたことを思い出した。


「お菓子作りですか、良いっすね。そういうのは何回も?」


「いえ、それきりです」


 ちょっと砕けた口調が癖なのか、木村さんは矢田さんの真似をするようにメモ帳を開きながら"なるほど"とペンを滑らす。


 同じ職場で住む場所も隣なら、密な接点はなくとも顔は合わす。会えば人懐こい笑顔で「おはようございます、森崎さん」と挨拶する彼女は、いつもあまり表情が変わらない私には少し眩しかった。


 チラリと視線を逸らす。

 玄関脇にこじんまりと備えられた靴箱の上には、物が増えすぎてかさばったキーケース。その隣に置いてある時計は、朝食を作ろうと手を伸ばしてから随分時間が経っている。それでも背中に僅かに当たる光はここまで届かず、三人が立っている場所は薄暗い。


「すみませんね、森崎さん。お時間取らせて」


「…いえ」


 私の視線を追ったのか、矢田さんは静かに言う。また悪びれた様子もなかった。


「それで。こんなにいろいろ聞かれるってことは、私は疑われているんですか?」


 自分の口から出たそれは、なんだかドラマかアニメのシーンみたいだと思った。

 男二人は静かに目線を合わせ、同じタイミングでメモ帳を懐に仕舞う。小さく聞こえた溜め息は、誰のものだったのだろうか。


「ええ、森崎さん。先程の証言で、貴方からは更に詳しく話を聞かないといけなくなりました。もう少し付き合ってもらえませんかね」


 狭い空間に光は届かない。




 口のがゆっくりと持ち上がった。

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