4.月明かりの夜
その日の夜、僕は睡眠薬を砕き、欠片のいくつかを水に溶かして《天使》の水皿に入れた。《天使》は一口舐めたあと少しだけ不思議そうな顔をしたものの、その水を嫌がることはなかった。
早めに電気を消し、ベッドに横たわる。眠れない数時間を過ごしたのち、深夜に起き出して《天使》の様子を伺った。丸まって眠っているようだった。頭を指で撫でても、細いまつ毛が動くこともない。
月明かりが射し込むようカーテンをわずかに開け、光の線の届く場所に使い古したタオルを敷いた。くたりとして動かない《天使》をタオルの上で横に寝かせる。つぶらな瞳は閉ざされ、穏やかな顔で眠っている。僕は力の抜けた翼を人差し指と中指で触れた。カーテンの隙間から射し込む月の光が羽の表面で反射し、撫でる指の動きに合わせて玉虫色の筋が流れた。
カッターナイフの刃をゆっくりと動かす。カチ、カチ、カチ。普段より少し長めに刃を出した。左手で天使の翼の一枚を軽く持ち上げ、カッターの刃をその根元に当てる。月光がちらりと冷たく刃の先を
右手に徐々に力を込める。肉、より少し弾力のない──盆に食べた落雁を思い出した──サクリとした感触がカッターを通して伝わる。鋸を扱うときのように刃を前後に動かし、翼へと食い込ませてゆく。最初の感覚に反して翼はなかなか頑丈で、刃はゆっくりとしか進まない。無理に押し進めてしまえば翼は壊れてしまうかもしれない、と考え、翼を掴む左手に無意識に込められていた力を抜き、静かに、翼を切っていく。右手に伝わる感覚に僅かな変化があり、思わず手を止めると、刃と翼の隙間からどろりとした液体が流れ出した。それは鮮やかな赤、などではなく、透き通った蜂蜜色であった。月の光は粘性のある液体の中で散乱し、細かく砕いた宝石でも入っているかのように、キラキラと輝いた。再び刃を動かす。翼が《天使》の肉体から分離されていくにつれ、沁み出す液体の量も増えていった。それはタオルになかなか染み込まず、《天使》の身体の下に小さな池をつくる。刃を動かし続けると、突然、右手にかかる抵抗が消え去った。翼は艶やかさを保ったまま、僕の左手から垂れ下がっている。その端からも僅かに蜂蜜色の液体が流れ出していた。
緊張の糸が切れ、大きく息を吐く。そこで僕は初めて、自分が息を止めたまま作業をしていたことを知った。眠り続ける《天使》を見る。白い背中に遺る翼の痕は直径五ミリもない円に近い形をしていた。そこからは液体が滲み続け、もう一枚の翼を濡らしていた。
切り取った翼を《天使》に並べるように置き、もう一枚の翼の付け根にカッターの刃を当てる。蜂蜜色の液体に浸かる翼と、同じ液体を刃先に纏うカッターナイフが、溶け合うように見えたのは錯覚だったのだろう。刃を動かす。翼を持つ左手がぬくい液体で濡れる。今度は先程より落ち着いて切断を進められた。液体が出ても驚いて手を止めることはない。無意味に息を止めながら作業することもない。かかる時間を大幅に減らし、しかし先に切り取った一枚と変わらぬ丁寧さを心がけて、慎重に、もう一枚の翼も切り取った。先に切り取った翼と重ならないように、並べて置く。魚の切り身のように並べられた2枚の翼を横切るように、カーテンの隙間から漏れる光が線をひいていた。翼の片方は繊維の虹色に輝き、白地に構造色の光を泳がせている。もう片方は夕焼けの最も明るい部分を抽出したような液体を全体に纏い、白い繊維を封じて煌めいている。
両翼を失った《天使》は、安らかに眠っているようだった。あるいは、違う意味で『安らかに眠っている』のか? とろりとした液体がついたままの左手の先で、《天使》の腹のあたりを撫でてみた。月の光が小さな顔の一部を白く照らし出している。その光が、不意に消えた。月が厚い雲に遮られた、ただそれだけだったのだろうが、その仄白い光に頼って作業をしていた僕は、タオルを敷いただけの即席の作業台も、その上に乗っていた白い姿も、全てを視界から奪われてしまった。十秒。二十秒。薄暗い興奮が闇の中で冷めていく。指先についた液体は、ほんのりとした熱を急速に失っていった。
一分。二分。部屋は暗いままだ。背後に広がる空間が、決して広くはないワンルームが、途方もなく広大かつ殺風景であるように思えて、僕はその世界に一人きり、閉じこめられているような気がした。背筋を這いのぼる孤独感。それに恐怖を煽られるほど僕は幼くなかったが、それでもカッターを握ったままの右手に力を込めずにはいられなかった。
唐突に目の前が明るくなる。月光のなかに見つけたタオルの上には白いからだも蜂蜜色の液体もなく、しかし濡れているように見えるタオルからは、微かに雨の匂いがした。
《天使》の翼を切り落とす 守宮 靄 @yamomomoyan
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