3.晴れの昼

 《天使》は徐々に僕に懐き、また徐々に活発になってきた。ある日など、水皿を持って流し台に行く僕を追いかけようとしたらしく、ダンボールの壁を登ろうとしてそのまま箱ごと倒れてしまった。夕方、僕が帰ってきてからはさらに箱の外に出たがるため、夕食後に箱から出して遊んでやるのが新しい日課となった。遊ぶといっても、狭いワンルームをうろつきたがる《天使》について回ったり、膝に乗せて頭や顎を撫でたりするだけ。顎の下を撫でたときに気持ち良さそうに目を瞑るのは、どこか猫のようだった。


 ある休日、僕は珍しく日が出ているうちに《天使》を箱から出して遊んでいた。レースカーテンを通して淡く部屋を照らす日の光に興味を持ったらしい《天使》は、6本の脚でとことことベランダに通じる窓まで歩いていった。

 首を伸ばすようにして、窓の向こうのベランダの塀、のさらに奥に見える空を見ているようだ。《天使》の体毛は光を受けて白く光るようにも見え、その翼は今まででもっとも明るく輝き、雑然としたワンルームの隅に現れた虹そのものだった。青い空には《天使》の体毛のような筋雲がいくつか流れている。僕は空がよく見えるよう《天使》を抱きあげた。

 すると《天使》は、その身をくねらせ、僕の腕から抜け出した。落下する白い身体。抱きとめようとした僕の腕は空を切り、《天使》はそのまま落下、せずに羽ばたいた。バタバタと闇雲に動かしているだけに見えたが、自由落下するより少し長い間、空中にとどまっていたように見えた。


 その日の《天使》は窓辺から離れたがらず、日が落ち、星のない夜がやってきてからもしばらくそこにいたが、やがて自らダンボールの側へと戻ってきた。

 その夜も僕はいつもどおり天使の飲み水を換え、既に眠っている天使に「おやすみ」とこえをかけてから、眠った。




 次の日帰ると《天使》は窓に凭れて眠っていた。僕が帰ってきた音で目を覚まし、ぴぃぴぃ言いながら窓を手の先で擦る。僕が特になにもしないでいると、《天使》は身をかがめて跳び上がったあと、翼を忙しなく動かして、明らかに『飛んだ』。そしてクレセント錠を脚4本で掴んだものの、ロックのかかったままの錠は動くことはない。力尽きたらしい《天使》は羽ばたきをやめて床にぺしゃりと落ちた。俺は天使を拾い上げ、ダンボールの中に戻す。ついさっきまでのどこか必死な様子など忘れたように、《天使》はゆっくりと水を飲み、居心地良さそうに丸まった。


 僕は行動こそ冷静なようだったが、心臓はバクバクと鳴っていた。いつ、鍵の開け方を知ったのだろうか。今回はロックの存在に気づいていなかったようだが、いずれ気がつくかもしれない。昨日窓の外を見続けていた黒い瞳。あのとき、こいつは外に出たいと思っていたのか。6本の脚を器用に使えば、ロックも錠も容易に外せるかもしれない。そして僕が部屋にいない日中に、こっそりと窓から飛んで逃げ出すのだろう。その日までこうやって、ダンボールの中での暮らしに満足したふりをしているのだろうか。

 僕だけが知っている、他のどの生物にも似ていない羽の輝きが、瞬きをした一瞬のうちに、指の隙間からすり抜けていく未来。少し前まで存在すら知らなかったこの小さな秘密が手の届かないところへ行ってしまうことを想像すると、胸腔の内側が冷えるような不安と恐怖を覚えた。


 なんとしてでも阻止したい。逃してしまうのは嫌だった。

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