2.曇りの朝

 僕はこの《天使》を飼うことにした。図鑑にも載っていない、他の生物とは似ても似つかない生物をどこに逃がすのが正解か分からなかったからだ、というのは表向きの理由で、本音は《天使》の羽の魅力に取りつかれ、手放すのが惜しくなってしまったからだった。


 飼うとは言ったものの、僕はこの生き物について知らなさすぎる。この生き物は何を食べるのだろうか。どこかの人魚よろしく生肉だろうか。それとも野菜か。考える前に試してみるのがいいと思い、冷蔵庫にあった肉や野菜を近づけてみるも、いやいやと首を振るように顔を背けられた。僕が手渡しするのがダメなのかと思い、皿に乗せダンボールに入れ、少し離れたところから見てみても、その食物たちには見向きもしない。試しに手元にあるお菓子などを見せてみても似たような反応しか見せない。

 どんな生き物でも水は飲むだろう。醤油皿に水道水をいれて、箱の中に入れてやると、僕の方をちらちらと見ながら6本の脚で這いより、小さな舌で舐めた。ぴちゃぴちゃと音を立てながら水を飲み干し、皿に残った水滴まで舐め取ろうとしている。相当に喉が乾いていたんだなと、僕はもう少し大きい皿に水を入れ、空になった皿と取り替えた。《天使》は飛びつかんばかりに顔を突っ込み、また水を飲んだ。

 ……この生き物は、水だけを飲んで生きるのかもしれない。さかんに音を立てて水を飲む《天使》をぼんやりと見ながら思う。《天使》は3杯目の水を飲み干してやっと満足したのか、六肢を突っ張り翼を広げ、伸びをした。そして背を丸め、翼で身体を覆うようにして眠ってしまった。


 以降、日に3度か4度、皿の水を換えるのが僕の日課になった。《天使》は最初のころこそ僕の手がダンボールの中に入ると隅に寄って可能な限り距離をとろうとしていたが、何度となく繰り返すうちに慣れてしまったらしく、今では僕がダンボールを覗き込んでも、ぐでんとだらけきった姿で寝転んだまま、小さな口であくびなんかしている。今日の夜に水を換えたときは、皿を置く俺の手に柔らかい毛の生えた頭を押し付けてきた。ふわふわの毛と、その下にある皮膚の感触が手の甲に伝わる。水しか飲んでいないのに、初めて合ったときより明らかに毛艶が良くなっている。翼の輝きもいっそう増し、今や自ら七色に発光しているようだった。


 帰宅した僕が「ただいま」と声をかけると、《天使》はぴぃぴぃと細い声で鳴く。ダンボールの縁に手をかけて立ち上がり、こちらを見ようとする。近づいてダンボールのそばで屈むと、黒目がちな瞳をきらきらとさせて、翼をパタパタとはばたかせる。その動きに合わせて、翼の表面で光の筋が動き、うねるのを見るのが楽しみだった。

 この奇妙な、しかし愛らしく、この上なく美しい生き物が他の誰かに見つかってしまうと面倒なことになりそうなことは簡単に想像できたが、心配する必要はなかった。僕には家に来る友達も恋人いないし、うっかり口を滑らせてしまう程度に親しい相手すらいない。《天使》が僕だけの秘密であり続ける未来は、安泰だった。


 今日も《天使》は俺の「おはよう」に応えるように眠たげな声で鳴き、起き上がって翼と脚を伸ばす。夜のうちに少しだけ減った水を換えると、ぴちゃぴちゃと美味そうに舐める。

「行ってくる、夕方には帰るから」

 そう言いながら《天使》の頭を撫でるのが、新しい日課になった。翼には触れたいようでどうしても触れたくないような矛盾を抱えたまま、今朝も撫でることはなかった。

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