《補遺》ベランダに墜ちた天使

1.雨の夜

 眠れない夜を過ごしている。手持ちの睡眠薬も効きが悪くなってきた。外は雨降りのようで、サーッという静かな音が嫌に耳につく。どこからどこへ落ちているのか、タン、タン、と水滴が何かを叩く。

 規則的な雨音を聞きながら形にならないままの思考と戯れていると、べしゃり、と音がした。ベランダの方からだ。水を吸った布が床に叩きつけられるような音。普段なら無視していたであろうそれを見ようと思ったのは、無視したとして眠れるわけでもなかったからだ。


 カーテンを引く。ワイヤーガラスの格子の向こうに、濡れて黒ずんだコンクリート。その隅には、白い何かがあった。ずぶ濡れらしいそれがどういう姿をしているのか、この角度からでは分からなかったが、生き物のように見えた。ここはアパートの五階だ。猫が入ってこられる構造でもないし、鳥のようにも見えない。正体は気になるが、雨の中ベランダに出るのも気が進まないし、触るのは少し気持ち悪い、見なかったことにして寝てしまおう、どうするかは晴れてから考えよう、とカーテンを閉めようとした手を止める。白い塊が動いたように見えたからだ。死んでいると思いこんでいたから放っておこうと考えたのであって、命の灯が小さくなって消えていくのを窓ガラス越しに待つのは、あまり気分がよろしくない。渋々窓を開け、つっかけを履いて白い塊に近づく。風に流された小さな雨粒が頬に触れる。外で長く迷っている時間はない。僕はずぶ濡れの何かを指先でつまみ上げ、部屋に戻る。


 浅いダンボールの底に、裁断して雑巾にする予定だった使い古しのタオルを敷く。その上に白い塊を置き、これまた古いタオルで拭く。雨水が塊からタオルへと移り、白いなにかはそれの本来の姿に近づく。

 両手に乗るほど大きさだった。頭は大きく、全身が白い柔らかい毛で覆われている。顔は幼児と獣の中間のようで、手や脚のかたちは概ね人間のそれに近かったが、それは三対、合計六本ある。閉じられた瞳は大きく、睫毛は長い。

 そんな奇妙な姿を見て、新種でも奇形でも宇宙人でもなく、《天使》のようだ、と思ったのは、それの背中に二枚の翼があったからだった。鳥の翼に近い形だが、生えているのは羽根ではなく普通の毛だ。いや、毛の色は普通ではない。蛍光灯の冷たい光を反射して、白い毛の1本1本が違う色に輝いていた。それは見る角度によって色を変え、僕が頭を動かせば虹色の波が白い海に立つようにも見えた。構造色というのだろうか。僕はそれに妙に見とれてしまい、ダンボールの上で首を振る速さを変えて、七色の筋が揺れ動くのを楽しんでいた。

 それに飽きるころになっても、《天使》は目を開かなかった。やはり死んでしまったかと思い、胸のあたりに手を当ててみる。小さく鼓動しているような気がする。

僕は床に置いたダンボールの前に胡座をかいて座り、それが目が覚めるか永遠に眠るかするまで待つことにした。どうせ今夜も眠れないのだし。


 ときどき塊に触れて鼓動を確認したり、翼の煌めきを眺めたりする。雨は止み、夜が開けたころに、《天使》がピクリと動き、続けてゆっくりと目を開いた。黒目の大きい瞳は焦点の合わないままうろうろと部屋を彷徨っていたが、やがてその視線は僕を捉えた。その顔から細かい感情は読み取れなかったが、僕を警戒しているのはわかる。僕がひらひらと手を振ると、びくりと身を強ばらせたが、何もされないと分かったのか小さな身体から力を抜いた。しかし警戒は解いてないらしく、ダンボールの隅に翼と背中を押しつけるようにして俺から距離をとっている。


 こうして、ペット禁止のアパートで僕と僕が《天使》とよぶ白い生き物の共同生活が始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る