ビタースイートチョコケーキ

此木晶(しょう)

ビタースイートチョコケーキ

「あ……」

 神と魔が闊歩する二つの大陸と無数の島々で形作られた世界から、意識の一部が浮上する。一度沈んでいることに気づいてしまえば現実へと浮かばずにはいられない。切っ掛けになってしまった言葉を口にしながら私は顔を本から上げる。

「チョコレート……」

 本日2月13日。所謂バレンタイン前日。夢見る乙女が心を込めてチョコレートを準備する日だ。生憎私、園田佳乃は、そんな事など関係なく頭からすっぱりと抜けていたのだけれど。

 言い訳をさせてもらいたい。続刊を心待ちにしていた小説の発売日が昨日でとにかく出された課題をこなした後は、飲み物お菓子を取りそろえた後はずっと引きこもっていた。とっても楽しいひと時だったのだけれど、主人公が挑まれた料理勝負の切り札にチョコレートが出てきて、不意に現実に戻ってしまった。

 もう一度引きこもっても良いのだけど、一度引っかかってしまうとなかなか読書に没頭も出来そうにない。大体私だって、チョコを渡したっていいかなという相手位はいる。問題があるとすれば夜八時を過ぎていて手近な店が閉まっているのと、技術協力してくれる母親がいない事か。結婚二十周年とか言って三日前から娘を置いて夫婦そろって温泉旅行と洒落込んでいる。我が親ながら自由だ。おかげで三日間自由に過ごせてよかったと思っている私も私だけれど。

 一通り家事は仕込まれているけれど、親子揃って甘味の嗜好が和菓子寄りで、おはぎやお煎餅ならば作れるのだけど洋菓子方面はからっきしダメだったりする。

「どーしよっかなー」

 口には出してみたけれど、答えは決まっている。こんな事頼める相手は私には一人しかいない。携帯に番号を呼び出し、発信。応じた声は不審げだった。

「浩美? うん、私佳乃。お願いチョコレートの作るの手伝って。出来たら簡単で見栄えのする奴」

 返答までに少し間があった。うん。こめかみ押さえてため息ついてる浩美の姿が脳裏に浮かぶ。なんだかんだで付き合い長いしなぁー。ともあれ。

「感謝。今すぐ行くから。ん、分かったコンビに寄ってく。うん、じゃ後で」

 取るものそこそこに家を飛び出した。

 25分後、私は浩美のいる寮の前にいた。直線距離ならばもっと近いのだけれど、浩美の注文の品を探して5件コンビニを梯子してしまった。普段意識していなかったけど、コンビニがそこらかしこにあるのには今更ながらびっくりしてしまった。道を挟んで向かいにあるなんてのもあったし。

 あと置いてあるパック飲料にこんなに違いがあるとは思わなかった。おかげでコンビニの新規開拓をする羽目になったのだけれど。うん、怒ってないよ? と、冗談は置いといて早くしないと消灯時間になってしまう。さすがにそれはまずい。

 玄関通って食堂へ。で、思わず声が出た。

「甘っ」

 40近い視線が集中する。寮生は男女合わせて50人前後。その内の約半分女子の殆どが食堂にいる計算だ。愛想笑いを浮かべながら「どもども」と頭を下げて中へ入る。

「佳乃、あなたねぇ……」

 ようやくたどり着いたというのに浩美の反応は冷たかった。手元にはきれいにラッピングまで終わったクッキーと思われる包みが並んでいる。さすが浩美手際が良い。

 でもね、苦労した私を少しは労ってもばちは当たらないと思うの。まあ、そもそも私が自分でチョコレートを準備していればすべて丸く収まった話ではあるのだけどね。

「だってここまでとは思わなかったのだもの」

「どういう意味よ、それ」

「製菓会社の陰謀に踊らされている……」

「あんたねぇ……」

 さらに何か続けようとして、浩美は言葉を切った。私があからさまに笑顔だったのと、いかにも自分たちがやりそうなやり取りだってことに気づいたからだろう。こめかみを揉んでから「趣味悪いわよ」呟かれた。うん、ごめん。ちょっと反省してる。

「で、材料は?」

「こちらでございます、お代官様」

「誰が代官よ、誰が……。また大きいの買ってきたわね、オレンジジュース」

「それ高かったの。貴重な戦利品よ」

「はいはい、まあ残った分は飲んじゃえばいいか。はいOK。道具取ってくるからホットケーキミックス説明通りに溶いておいて。いい、説明通りによ?」

 二度重ねて念押しされた。失礼な、それ位できるわよ。箱の説明書を片手に作業を始めた。途中顔を上げると大分人数が少なくなっていた。残っている面々の顔には多かれ少なかれ焦りが浮いている。私も少しは焦るべきなんだろうけど、浩美を全面的に信頼する。十分に間に合うと思ったから引き受けてくれたんだと思うし。

 しかしまぁ、と思う。バレンタインって一体と。

 浩美に言わせれば、チョコレートを渡すなんて習慣があるのは日本くらいで、女子から渡すなんて決まりもない、単に製菓会社がチョコをそういう広告を打っただけなのよ。実際二月のチョコの売り上げって年間の八割あるって言うし。大体バレンティヌスってどういう人か知ってる? ローマ兵士の結婚式を行って絞首刑になった人よ。恋愛ならともかく、どこにチョコレートが関係あるのよ。どれだけ拡大解釈しても親しい人に感謝するくらいよ、だ。

 実際には年に一度女の子が勇気を出して意中の男子に告白する日になっている。最近はだいぶ違う感じだとも思うけど、友チョコとかご褒美チョコとか。それでも免罪符的な日であるのは確かなのだろう。だからチョコでなく、おはぎやお饅頭であっても今みたいな日だったんじゃないかなと思う。思うんだってば。

 そうだったらどれだけ作るの楽かという希望が入っていることは否定しないけど、どちらにしてもそんな日があってもいいじゃないとは思う。その方が面白いし、なんていうとまた浩美に怒られそうだけどと考えていたら、実際怒られた。

「終わった? もうまだじゃない」

「えあ、ごめん。ちょっと考え事してた」

「もう……、まあいいわ。チョコ刻んで。湯煎はあとでするから、刻むだけよ」

 相変わらず信用されていない物言いにちょっと悲しくなる。めげないんだから。冗談はともかく、さっきから気になっていることがある。

「分かった、けどそれ何に使うの?」

 確かに道具を取りに行くって言ってたけど、浩美が抱えているのは1~3合くらい炊ける多分個人用に炊飯器だった。

「何って、ケーキ作るんじゃない。時間ないんだし馬鹿なこと言ってないで手を動かす」

 ?マークを頭の上で動かしつつ、チョコを刻む。面倒くさい。すり鉢使っちゃダメかしら。

「はいこれで良し、そっちはどう? いいわね。じゃお湯沸かしながらケーキ出来るの待ちましょうか」

 説明通りにって言った割に、固さを確かめると「もうちょっと」なんて言いながら少し緩めに溶き直したホットケーキミックスを炊飯器に流し込むとスイッチを入れて浩美が隣に座る。

「ケーキってオーブンで焼くんじゃなかったっけ?」

 トースターでやろうとして熱が全く足りなかった失敗を思い出す。

「時間ないでしょ。蒸しパンケーキで代用よ」

「炊飯器で作れると思わなかった」

「結構便利よ、炊飯器。私はやらないけどシチューも作れるし」

 これから炊飯器を見る目が変わりそうだ。

「で。なんだってこんな間際になってチョコ作ってる訳? あんただって自分で作れない訳じゃないでしょ」

 うん、かなり気合入れれば。どうも洋菓子は敷居が高くて。ごまかすように笑っていると「いいわ何となく分かったから」話が早くて助かります、親友。

「説明だけはしてあげるから、部屋戻っていい?」

「ご勘弁を、殿」

「……」

「えへっ」

「帰るわ」

「待って、お願い見捨てないで」

 図ったみたいにやかんがお湯が沸いたと自己主張。中々偉い。

「……温度計って湯煎しましょうか。ヒーターそれだから」

「テンパリングってよく分からないよね、意味とかやる意義とか」

「何なら事細かに説明しても良いけど、どうする」

「遠慮します」

「テンパリングはやるに越したことはない作業だからやった方がよいわ。味も見た目もかなり変わってくるから」

「そうなんだ」

 どういう風に変わってくるのかは聞かない。長くなりそうだし、何より悔しいから。家に帰ったら調べてやる。

 そうこうしているうちに今度は炊飯器が自己主張。蓋を上げると湯気と共に甘い香りが立ち上がり、引っ繰り返すと見事なホールの蒸しパンが出来上がっていた。

「本当は冷めてからの方がいいんだけど、時間ないから色々省くわよ」と前置いて浩美は、湯気のぼるケーキの底-炊飯器に入っていた時の天板部分-を薄く切って平らにする。

「あとでね」目の前に置かれた破片を見ていたら、こんな風に言われた。そんなに飢えているように見えたかしら?

 形を整えたケーキを今度は二枚におろす。両方とも切り口を上にして浩美が言う。

「はい、買ってきたオレンジジュースを切り口に塗っちゃって」

「デロデロにならない?」

「浸すんじゃなくて、塗るのよ?」

「あ、はい」

 浩美の目が結構怖かったのです。

「柑橘ってチョコと相性がいいのよ。酸味の所為かしらね」なんて浩美の蘊蓄を聞きながら、湿らす程度にオレンジジュースで蒸しパンに含ませる。結局オレンジジュースは半分以上残ったので浩美に進呈することになった。

 蒸しパンを重ね合わせて元に戻した時にはケーキはすっかり冷めていた、中の方はよく分からないけれど。

 浩美が湯煎してくれていたチョコをケーキに垂らす。

 波というか波紋というかな模様を作りながら広がっていく。それもやがてなくなりケーキは光沢のあるチョコで覆われていた。

「おおー、なんかそれなりに見える」

「あなたねぇー。手伝わせておいてそんなこと言う?」

「だっていきなり炊飯器が出てきて、一体何作るのかって思うじゃない。それがここまで店で売っててもおかしくない様なのが出来るって誰が思うって話」

「はいはい。そういうことにしといてあげる本当はデコったりするんだけど、材料もないからこれで良いわよね?」

「もう十分。ありがと。あ、でもこれまだ持って帰れないよね」

「冷やすのと、ラッピングはやってあげるわ。どうせ考えてないでしょ?」

「そんなこと、あるけどさ。いいの、そこまでやってもらって」

「今更でしょ。それにもうついでよ、ついで」

 なんか自棄になっているような感じだったので、一つ聞いてみる。

「弟君と何かあった?」

「あったって程じゃないわ。単にいつものこと、なだけよ」

「平常運転ね」

 もしくは浩美が一人で空回りしている、と。その意味でも平常運転な訳だ。浩美と弟君の事情を詳しく知っている訳ではないけれど、詳しく知るつもりもないけれど、私が外側から見ている限り、弟君は人との関りを拒絶気味ではあるとはいえ、当たり障りのない程度ではあると思う。むしろ浩美の方が弟君に過干渉というか、なんか気に入らないことがあるのか、大抵の場合浩美の方が突っかかっている形になっている気がする。確かに弟君と話していると『どうしてそういう風に考える?』と引っかかることも多いから分かる気もするんだけどね。

 だから、私からは二人の関係性に対して何とも言い難い。

「推測するに、弟君の関係者にもチョコ配るかどうか悩んで、確認取って拒否られたってところ?」

「ちょっと違う。去年拒否られたから悩んだんだけど、結局数作ちゃったのよ」

 力尽きたように突っ伏した。長い髪が広がる。サラサラでうらやましいなぁ。

 ともかく、あまり見ない光景ではあるのよね。

「だったらさ、全部弟君に送っちゃえばいいんじゃない? 誰に配るのか配らないのか、自分で食べちゃうのか。全部弟君に決めてもらえば?」

「なによそれ」

「だって浩美が悩んでいるのは、許可がもらえないから勝手に配っていいのかどうかってことでしょ。でも、浩美は渡しておきたいと思うんでしょ。だったら、あとは弟君に任せちゃえばいいじゃない……抗議がてら」

「……そうね、それがいいかも」

 きっと最後に付け加えた一言が効いたに違いない。

「ありがと、そうしてみるわ」

「どういたしまして、お役に立てて光栄至極」

 顔を見合わせて笑いあう。まあ、それなりの所に着地したという感じだろうか。

「話はまとまった? じゃあ、そろそろ食堂を閉めたいから片付けお願いできるかしら」

 一見朗らかな、その実やはり朗らかであって欲しい寮監の玲子さんの声。

 思わず二人して慌てて勢いよく振り返ってしまった。

「こういう時はあまり煩く言うつもりはないのだけれど、時間も時間だし、明日は授業があるでしょ。だからそろそろ御仕舞ね」

 見れば食堂内には私と浩美玲子さんの他一人しかいなかった。いつの間にかみんな部屋へ戻っていたらしい。知り合いもいた筈なんだけど、裏切り者め。

 残っているのは三月桜子先輩で、しかし、はて去年はチョコ作ってなかったような。って、私去年も浩美に手伝ってもらってたんだっけ。今更思い出したけど。

「まだ一人いらっしゃるようですが……」

「桜子さんは特別。もうすぐ終わる筈だし、事前に許可を取りに来ているから。でも、あなたたちは許可を取ってなくて、もう作業は終わっているのでしょう? だから片づけをすること」 

 もう少しだけ猶予が欲しかったのだけれど、なぜか言葉が変になりました。まだ二十半ばだというのに妙な迫力のある方ですし。

「はい」「はーい」

 と返事をして、いそいそと片づけを始める。途中浩美が抜けて、一人残った桜子先輩と何事かを話し込んでいる。

 いいわよ。片付けさせていただきますとも。私がお願いしたんだし。けど浩美自身が出した汚れ物も結構多いと思うの!!

 そんなわけで一部確執を残しながら、もちろん冗談だけど、片づけを終えた時には桜子先輩の方もほとんど片づけを終えていた。浩美が手伝ってくれていればもう少し早く終わったと思う……。

 ともかく、私は目的を達成し、浩美も悩みの一つにケリをつけ、何となくだけど、桜子先輩も一歩踏み出したという感じなのだろう。そんな訳で、ケーキを浩美に預けると私は家路に着いたのだった。めでたし、めでたし。

 で終わっても良いのだろうけれど、いくつか先の気になる事もあるだろうから、補足がてら。弟君の所には無事クッキーが送られたようである。それも段ボール箱に目一杯。後日弟君から聞いた所によれば、それも結構大きな、だったそうだ。メモ一枚も入っておらず、弟君は何の嫌がらせだと思ったそうだが、その感想は間違っていないよ、弟君、って感じだった。

 次に私の作った(作ってもらった)ケーキは結局クラスの女子みんなで食べた。はじめは適当にクラスの男子連中で食べるように誰かに渡すかするつもりだったのだけれど、里、川上コンビがあまりに喧しいので、つい「ある訳あるか!!」と叫んでしまったのだ……。浩美からは「何やってるの、あなた」と言われるし、男子の称賛は受け損ねるし散々だった。ケーキはおいしかった。確かに柑橘の風味が苦みと合っていて、おいしかったんだってばー。


 それから、これは本当に蛇足も蛇足なのだけど、あの時、桜子先輩が抱えていた事柄の内容を少なからず私が知るのは一年近く後のことで、しかもその解決には私は何の関係もない傍観者ですらない無関係者だったというのも、ぼんやりとした後悔と共に記しておこうと思う。

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