風になる
中靍 水雲
風が吹いてきた
松田くんの家は、たまに動画のサブスクで見かける昭和のアニメの家に似ている。お城で見るような瓦の屋根、そしてガラガラと音をたてながら開ける玄関。昔ながらの家って感じだ。
手入れされた庭には、色んな花が咲いている。ぼくは、花の名前なんて知らないけれど、そのなかでも庭にどっしりと生えた木の名前だけは知っている。松田くんに教えてもらったから、わかる。
あれは、柿の木。松田くんが大好きな、柿の木だ。今はまだ二月だから、何にも生えていないけれど、三月ごろから芽をつけて、葉が生い茂ってくるんだって。
家の縁側では、太陽の光をこれでもかと浴びた座布団に、コトコが丸くなっていた。いや、うずくまっていた、というほうが近いかもしれない。元気がないように見えるからか、自慢のサバトラもようが、少しくすんでしまったように見える。
「コトコ、薬は?」
「飲まないんだ」
台所の餌台には、水のお皿が置いてあった。コトコの餌用のお皿はきれいに洗ってある。
松田くんは、コトコの薬が入った袋を確認する。
「餌は?」
「薬のところをきれいによけて食べるんだよ」
「器用だなあ」
三角耳を丸い頭に撫でつけてやりながら、松田くんは苦笑した。
「ゼリーとかに混ぜるわけにはいかないの? 人間みたいに」
「猫用のなんて、あるのか?」
「いや、わからないけど……」
ぼそぼそと「マジかよ」とつぶやきながら、スマホを検索しだした。
「うお、投薬専用の猫用おやつ、マジで売ってる」
「本当っ?」
「わあ、知らなかったよ。ありがとな、椎名。今頼めば、明日届けてくれるみたいだ」
「よかったなー、コトコ」
ぼくはコトコのそばに座ると、その小さな頭を包みこむようになでた。元気がなくなってしまったコトコだけれど、ふわふわの毛並みは今でも変わらない。何度もなでていると、コトコが「にゃー」とぼくの手に頭をすりよせてきた。
コトコ、もう薬が飲めるようになるからな。そうしたら、前にみたいに元気になれるから。また前みたいに猫じゃらしでいっぱい遊ぼう。
さっそく、コトコを病院に連れていく準備をする。でも、その出だしからぼくたちはつまずいていた。コトコをケージに入れないといけないのに、その本人……いや、本猫がいない。ケージを手にコトコを呼んだとたん、忍者のような速さで消えてしまった。
松田くんが困り果てたようすで、頭をポリポリかいている。
「コトコはなあ、病院に連れて行かれることをわかってるんだ。だから、いくら呼んでも出てこないぞ」
「ええ……」
ぼくがコトコを探しはじめると、松田くんが「しーっ」と声をひそめた。
「どうせあそこだ。着いてきて」
そういって、なぜか大きめの洗濯ネットを渡された。こんなの、何に使うんだろう。とりあえず手に持って、松田くんの後を静かに追いかけた。
「ゆっくり、静かに。応接間に入ってきて」
松田くんが、応接間と呼んだ部屋の引き戸を開けた。そこにはグリーンのソファや、布のかかったテーブル。おしゃれなランプなどが置かれていて、居間とはがらりと雰囲気が変わっていた。
そこに、コトコがいた。ソファの下で、丸くなっている。松田くんはそっとコトコのからだを手で包みこむ。「んなあっ」とコトコが鳴いた。あきらかに嫌がって、身を右に左によじっているけれど、松田くんは慣れているのか上手に抱き直してしまう。
「洗濯ネット、広げてー」
「えっ、ここに入れるの?」
「そう。ネットがコトコのからだに密着して、安心するんだよ。猫はせまい場所にいるのが好きだから」
だから、こんなせまいソファの下に丸まって隠れていたんだ。猫はからだが柔らかい。どんなせまい場所にも入ってしまう。そういえば前に、そんな猫の動画を見たことがあった。動物病院が嫌すぎて、棚の本と本のすきまに液体のように滑りこんだ子猫の動画。コトコも、そうとう嫌なんだろうな。
ネットに入ったコトコを抱くと、柔らかくてあたたかかった。これで少しは落ち着いたかな。ぼくも病院は嫌だけどさ、コトコが良くなるためだもん。がんばろうな。
「でもさ、二日に一回も何をしにいくの?」
「点滴を打ちに来てください、っていわれてるんだ」
動物病院へ、コトコのキャリーを代わりばんこに持ちながら歩く。今は、ぼくの番だった。
「点滴って、何の?」
「腎臓病の」
「そんなに打たなくちゃいけないの?」
「腎臓が悪くなると、たくさんおしっこがでるから、脱水になりやすいんだってさ。だから、水分補給のため……って、お医者さんがいってた」
ぼくたちが住む草笛町は、田舎だ。田んぼばかりの景色しかない。大きな建物といえば、ドラッグストアと、スーパー。あとは、草笛総合病院。その近くに、くさぶえ動物病院もあった。
ぼくたちは、総合病院の駐車場に沿って歩く。近所の人が育てているよく知らない植物たちがぶわりと生えている畑を通り過ぎると、いよいよ草笛総合病院が見えてきた。ここを左に曲がれば、くさぶえ動物病院だ。
「そんなに点滴しなくちゃいけないなんて、コトコ……かわいそうだな」
ぽつり、とつぶやいた。何回もからだに針を刺さなくちゃいけないことへの、素直な感想だった。
松田くんは「だよなあ」と答えた。それから、ぼくたちは黙って歩いた。キャリーのなかで、コトコはおとなくしていた。
動物病院には、犬や猫だけでなく、うさぎやハムスターも診察も来ていた。まるで動物園みたいだ。でも動物たちにとってみたら、ここは行きたくない場所なんだよね。ぼくだって、点滴なんてしたくない。早く終わるといいな、コトコ。
動物病院でも、コトコはおとなしかった。隣の大きな犬のほうが、緊張で「ワンワン」吠えていた。
しばらく待っていると、コトコの名前が呼ばれた。それからは、あっというまだった。診察室でいくつか先生とやりとりをしたあと、点滴を打って帰る。待ち時間と合わせると、三十分くらいだ。これを二日に一回か。
松田くんだけでは、大変だろうな。
帰り道、コトコのキャリーを握りながら、ぼくは何でもないことのようにいった。
「ねえ。これからもコトコの病院に付き合ってもいいかな」
一瞬、松田くんがとても嬉しそうに顔をあげた。でも、すぐにきゅ、とくちびるを引き結ぶ。
「えっと……いいのか?」
「うん」
ぼくはコトコの腎臓がすっかりよくなって、ぴょんぴょん飛び跳ねる想像をした。すっかり前みたいに元気になったコトコと、猫じゃらしで遊びたい。
理由なんて、それだけだ。
月水金は、動物病院の日だ。本当は日曜も点滴をしないといけないらしいんだけど、その日、動物病院はお休み。
病院の先生からは「点滴の道具を借りて、家でご自分で打たれる方もいますよ」といわれたらしいけれど、ハルさんが首を振ったらしい。
「コトコのからだに針を刺すなんて、わたしにはできなくてねえ」
そういってハルさんは、コトコの三角耳をていねいに畳むようにして、なでる。
今日は水曜日。ぼくが松田くんの家に通いはじめて二週間がたった。それくらいになると、ぼくひとりでもコトコを洗濯ネットに入れられるようになってきた。
コトコをキャリーに入れてやると、窓から風がふわりと吹きこんできた。五月ともなると、もう夏の日差しに変わりつつあった。今日も、日差しが強い。
しゃがんでキャリーのなかをのぞきこむと、どこかむすっとしているように見えるコトコがいた。
松田くんが、応接間に入ってきた。「行くかー」とキャリーを持ちあげようとしているところを、「ねえ」と引き留めた。
「夏になったら、こうやってコトコを運ぶの、大変だよね。車はクーラーがあるけれど、ぼくたちは歩きだし。どうしようか」
「あ、ああ……夏か……」
松田くんが、ぼくの横に座りこんだ。
「そうだよな。コトコ、暑いよな」
「うん。うちわであおぎながら行くとか。ハンカチでくるんだ保冷剤をなかに入れるとか……」
ぼくの提案に、松田くんはうなった。
「あーそれだと、保冷剤がコトコの爪に引っかかって、中身が出ることがあるかも。爪を切ってても、可能性は捨てきれからないなあ」
「そっか。なるほど」
松田くんは、ぼくよりもコトコのことをよくわかっている。そうか。人間じゃないから、そういう危険もあるんだなあ。
「コトコの具合、どう?」
窓を見ると、ぼくのお母さんが立っていた。田舎のご近所付きあいは、家の庭に勝手に入るのが普通のことなのだ。お母さんは、仕事帰りによったらしいスーパーの袋を手にぶら下げ、「コトコー元気かー」と手を振る。キャリーのなかから「にゃー」と返事が返ってきた。
「ごはんは? 食べてる?」
「病院ですすめてもらった腎臓ケアの療養食をあげてるよ」
「ばあちゃんが〝コトコはわたしのお米よりも高級なものを食べているのよ〟って笑ってたよな」
松田くんがいうと、お母さんが大笑いした。
「スーパーでね、猫用のおもちゃが売ってたから、買っちゃった。ほら、猫じゃらし! コトコ、大好きでしょ。ハルさんが、いつもどこかになくしちゃうっていってたの、思い出してさ」
お母さんはそういって、ぼくらにスーパーの袋を渡してくれた。なかには、ピンクと黄色をした二本の猫じゃらし。それに、鈴が鳴るボールも入っていた。
「コトコ、よくなるといいね!」
そういって、お母さんはひらひらと手を振って帰って行った。ぼくは袋からピンクの猫じゃらしを取り出して、コトコの目の前でチラチラと動かす。
でも、コトコはチラッと見ただけで、狙いを定める動作すらしない。
「……ぼくのやり方が下手なのかな」
「おれがキャリー持っているときに、コトコに狩りをさせるなよ、椎名」
動物病院の予約の時間まで、あと二十分しかない。ぼくたちはコトコのキャリーをゆっくりと抱き上げると、慎重に飛び出した。
病院から帰ってきて、ハルさんにコトコのおもちゃを渡したら、とても喜んでくれた。
「わたしね、昔っからよく物を失くすのよ。それで旦那にもよく叱られたわ」
懐かしそうに黄色の猫じゃらしを取り出して、座布団に丸くなっているコトコに向けて、ゆらゆらと動かす。すると、ぴくりとコトコが反応し、すぐに狩りモードの姿勢になった。ぼくがやったときは、ちっとも反応しなかったくせにー。
「椎名のやり方が悪かったんだ」
「えー。ぼくのやり方と何が違うんだろう」
「もっと勉強しなきゃだな?」
「なんで猫じゃらしがそんなにうまいの、ハルさん」
ハルさんは、定位置の座布団で丸くなっているコトコのからだをやさしくなでながら、教えてくれた。
「旦那に教えられたのよ。猫じゃらしをするときは、猫に狩られる獲物の気持ちになれってね。コトコは子猫のころから、狩り遊びが大好きだったわ。ノラネコのころから、道端の猫じゃらしにじゃれてたんじゃないかしら」
「えっ、コトコってノラネコだったんだ」
松田くんが「あれ、いってなかったっけ」とおもちゃの袋を探っている。鈴が入ったボールがチリン、と鳴った。
「この子はねえ、子猫のころに、我が家に迷いこんできたのよ。庭の柿の木がなるころだったわ。外から、コトン、コトンて音がするから、風もないのにおかしいねえ、って外を見たの。そうしたら、この子がいたのよ。でも、いまだにあれがなんの音だったのかはわからないの。もしかしたら、あの人がわたしを呼んだのかもしれないわねえ。かわいい子が、外にいるよって」
「あの人」っていうのは、もう天国に行ってしまった、ハルさんの旦那さん、つまり松田くんのおじいさんのことだ。
ハルさんは、今年で八十八歳になる。松田くんいわく、「毎日、日記をつけるのが元気な秘訣なんだってさ」らしい。
「そうだわ。慎平ちゃんに食べてもらいたいものがあるの。陽南のおばさんから届いたのだけど、世凪ちゃんはあまり食べてくれないのよ」
ハルさんが立ち上がって台所へ歩いて行くので、松田くんもそれに着いて行った。ああ、ハルさんの大好物のあれかな。
陽南市のおばさんっていうのは、ハルさんの旦那さんのお姉さんだ。ハルさんがお店をやっていたころに、見かけたことがある。
ハルさんは、子どものころからずっとこの町に住んでいて、三年前までこの家で駄菓子屋をやっていた。お店だったところは今、自転車や古新聞、たくさんの段ボール箱が置かれている。どうやら、物置にしているみたいだ。
ぼくのお父さんたちが小さかったころは、駄菓子屋『かど屋』に何度も買いに行ったことがあるといっていた。
マンガ雑誌の発売日になると、「かど屋だったら一日早く売ってくれるから、買いに行こうぜ」と走ったり、遠足のおやつを買うときは「遠足だっていったら、ハルさん、こっそり駄菓子一個おまけしてくれるから、お得に買えるぞ」と、先生に内緒で駄菓子を交換しあったんだ、とお父さんがいっていた。
みんなハルさんのことが好きだったし、いつまでもかど屋は続くと思っていた。だから、閉店すると聞いたときは、町中からかど屋に通ったことのある人たちが集まった。
もちろん、ぼくもお父さんと行った。閉店当日のかど屋には、色んな年齢の人たちがたくさんいて、こういうのを老若男女っていうんだろうなと思った。いつもは子どもしかいないかど屋にさまざまな年代の人々が集まっていて、なんだか六年生を送ったときの卒業式を思い出したんだ。
ハルさんと松田くんが、台所から帰ってきた。松田くんがぼくの前に、干し柿が乗ったお皿を置いた。
陽南市は柿の名産地。ハルさんの大好物が干し柿なので、陽南のおばさんは干した柿を冷凍保存して、食べ終わることに着々、クール便で送ってくるのだ。レンジで解凍された干し柿は、触るとちょっとあたたかい。
「よっこいしょ」といいながら、座ったハルさんの膝の上に、コトコがぴょん、と飛び乗った。そのぬくもりに、ハルさんの目がふわりと細くなる。
「もうおじいちゃんなのに、この子は甘えんぼうねえ」
ハルさんは「よしよし」と、コトコのツヤがなくなった毛並みをやさしく整える。
「コトコには、干してない新鮮な柿をあげるわね。ちいさーく切ってきたから、ひとつだけ……」
コトコは、それをぺろりとたいらげた。
「この子はねえ、柿が大好きなのよ」
自分も干し柿を手にしながら、ハルさんは幸せそうにいった。
いよいよ八月。夏休みに突入だ。ぼくたちはとっくに半袖になり、コトコはスリムな夏毛になった。
しかし、コトコの調子はいっこうによくなっていない。毛並みはぼさぼさで、目はいつも眠そうだ。
動物病院に連れて行くのは一苦労だったけれど、夏の日差し対策に役立ったのが、日傘だった。日傘をさすのとささないのとでは、大きく違った。ぼくたちは日傘担当と、コトコ担当を代わりばんこにしながら、動物病院へ通った。
その日は、動物病院から帰ってくるともう十八時になっていた。宿題をやってから帰ろうと思っていたのに。家に連絡を入れなくちゃ。スマホがあれば便利なのになあ。
玄関の電話を借り、「十八時半に帰る」とお母さんに伝えた。「間違えたら、何度も見直しなさいよ」なんて小言をいわれ、それだけで疲れてしまった。
居間に戻ろうとしたとき、応接間から物音が聞こえた。そして、すすり泣くような声。松田くんだ。
声をかけていいのかどうか、迷った。励ましてあげたいけれど、なんで泣いているのかわからない。安易に想像して、声をかけるなんて、むりだ。でも、「どうして泣いてるの」なんて、聞けない。
松田くんが泣く理由は、ぼくでは想像もつかないほど、たくさんの思いがつまっているに違いなかったから。
もしかしたら、泣いているところなんて、見られなくないかもしれない。
松田くんは、サッカーのときも負けず嫌いだ。相手に一点取られたら、何が何でも一点取り返す。
仲間が取られた一点も、松田くんがすぐ取り返してくれる。
「点取られても、おれがすぐに取り返してやるから、みんな全力で攻めろ!」
そういって、いつもチームのみんなを奮いたたせてくれる存在だ。
もしも、ぼくが泣いていたら、松田くんはなんと声をかけてくれるだろう。
今、ぼくが松田くんにしてやれることはなんだろう。
考えて、考えてぬいて、ぼくは足音をたてないように、その場から離れた。
廊下に置かれた、コトコの猫トイレを見に行くと、一回分のおしっこがしてあったので、取りのぞく。砂をたいらにして、きれいにならしていく。
動物は、本来なら外でトイレをする。さらに、猫の敵から身を守るため、排せつしたものを砂で隠す習性があるらしい。でも、人間のつごうで家で飼われているから、こうやってトイレに猫砂という砂をいれるんだ。トイレをしたら、砂がかたまって、掃除しやすくなるから、それを取りのぞく。全部、松田くんに教えてもらったことだ。
ザッザッと砂をならしていると、ハルさんが「慎平ちゃん」と歩いてきた。顔をあげると、ホッとするような笑顔を浮かべて、ぺこりと頭を下げた。
「コトコのために、ありがとうね」
「いや、ぼくなんて……そんな大したことしてないし」
あれ、どうしてこんなことをいってしまったんだろう。ハルさんに気をつかわせてしまうのに。
「慎平ちゃんは、自分が思っているよりも、すてきな人よ」
「えっ、いや、そんな」
「慎平ちゃんがいたから、みんながんばれたのよ」
「……みんな?」
「慎平ちゃんがいなかったら、世凪ちゃんはコトコのお世話、泣いてばかりだったと思う。だからコトコも、助かったと思うわ」
足にすり寄ってきたコトコを抱きあげて、ハルさんは頬ずりするように顔を近づけた。ハルさんは、松田くんが泣いている理由をいわなかった。松田くんが、恥ずかしかることをわかっていたからだ。
「コトコもほら、ありがとうって」
しっかりとぼくのほうを向いて、「みゃー」と鳴くコトコ。
コトコは人間の言葉がわかるんだ。ぼくも、コトコの言葉がわかったらよかったのに。そうしたら、なんで松田くんが泣いているのか、こっそり聞けたかもしれない。
コトコは、応接間に隠れるのが得意だから。
八月のなかば、動物病院の先生がいった。
「これから、日曜日の午前中も来れますか?」
「えっ。日曜は病院、お休みじゃ……」
松田くんが驚くと、先生は息を詰まらせるようにいった。
「あまり、容体がよくないです。点滴を増やしたほうがいいかもしれない」
「……そうしたら、コトコの調子がよくなるんですよね?」
ぼくがいうと、先生は少し黙ってから、静かに答えた。
「コトコくんは、強いですよ。こんなにがんばっている子は、たくさん褒めてあげたいですね」
日曜日の午前十時に予約して、その日は病院を出た。
帰り道、松田くんがぼそりといった。
「初めてコトコを先生に見せたとき『もう長くはないかもしれない。一ヶ月待てばすごいです』っていわれてさ」
「そうだったのっ?」
「うん、でももう三ヶ月経ってる」
「じゃあ、やっぱりよくなってるんだよ!」
ぼくはいった。松田くんは、笑った。でも、ぼくはなんとなく気づいていた。
松田くんは、もうコトコが死んでしまうときの覚悟をしているんだ。だから、ぼくがコトコが治る未来をいうたびに、困ったように笑っていたんだ。
そして、ぼくも。昨日家のパソコンで調べて、やっとわかった。腎臓は、回復することのない臓器なんだってことを。
「どうして神さまは、猫の腎臓を弱くつくったのかなあ」
「……椎名の、いうとおりだ」
松田くんがいうと、コトコが小さく鳴いたように聞こえた。それは風の音だったかもしれない。でもぼくたちは、コトコの返事だと思うことにした。
コトコは生きたがっている。そう思いたくて。
九月に入ると、コトコの症状は一気に悪くなってしまった。
ご飯はほとんど食べなくなり、水も飲まない。薬も飲もうとしない。点滴だけが、コトコの命綱だった。
家に帰ってキャリーから出してやっても、ふらふらだった。もう、歩く力も残されていないらしかった。
撫でてやると、背骨のかたちが丸わかりだった。痩せ細ってしまっている。
あのふっくらとした触り心地は見る影もなかった。
今日、先生にいわれた。
「おうちの方と、どうするかお決めになってください」
「どうするって、何を出すか……?」
「点滴を続けるか、続かないかです」
「それって……」
松田くんが、ぼくを見た。ぼくはなんといったらいいのか、わからなかった。でも、先生に何をいわれているのかはわかった。
松田くんの目が、「どうすればいいんだ」とぼくに聞いていた。そんなの、ぼくが答えられるわけがない。
コトコはふらつく足で、座っているハルさんのほうへと歩いて行く。もう自分のちからでは、膝に飛び乗ることすらできないので、抱きあげてもらっている。
「ばあちゃん。今日、先生にいわれたんだけど」
「なあに?」
「この先、コトコの点滴をどうするか決めてって……」
「世凪ちゃんと慎平ちゃんとコトコと、三人で決めてちょうだい」
ハルさんは、はっきりと答えた。
「え……ばあちゃんは……」
「コトコのこと、今までありがとうね。あとは三人で、決めて」
そういうと、ハルさんはテーブルの干し柿を食べはじめた。いつもは幸せそうに食べるのに、今日のハルさんはどこか違った。
ぼくと松田くんは、顔を見合わせた。松田くんは、どこか知らない場所で迷子になったような不安いっぱいの顔だ。恐らく、ぼくも同じ顔をしている。
「コトコ、おいで」
「んにゃー」
弱々しく返事をしたコトコを抱きあげて、松田くんは部屋を出た。ぼくも、それに着いて行く。
応接間のソファにコトコを寝かせると、松田くんは「はあ」と息をついた。
「どうしたらいいのかわからないよ、おれ。……椎名は?」
「ぼくだって……」
そこから、沈黙してしまう。声が出てこない。こんなことを考えるのも、初めてだった。
コトコの点滴を、止めるか、止めないか、だなんて。
「ぼくだって、わからないよ……」
「そう、だよな」
松田くんが、コトコの頭をなでた。ぼくも、からだのほうをゆっくりとなでる。すべての毛並みをそろえるように、そのやわらかさを堪能するように。
コトコはされるがままになっている。症状がひどくなる前は、なでたとたんにお腹を出して、もっとなでてとアピールしてきていたのに。
「コトコ……お前は、どうしたい? おれたち、お前がしたいようにしてやりたいよ」
松田くんの問いかけに、コトコは答えない。目をうっすらと開けて、ぼくたちの手の動きにあわせて、ゆられている。
「コトコ……」
松田くんは、天井をあおいだ。どうしたらいいのかわからなくて、頭のなかがパンクしそうなんだ。わかるよ。
「コトコ、ぼくたちに身をゆだねてくれてる」
「うん。そうだなあ」
それは、ぼくたちにとって都合のいい解釈だった。コトコがぼくたちにされるがままに身をゆだねてなでられているすがたが、とても心地よさそうだったから。コトコがぼくたちに「任せるよ」といってくれているように思えた。
コトコはしゃべらない。コトコが人間の言葉をわかっても、ぼくたちは猫の言葉はわからない。だから、「任せるよ」なんて思っていないかもしれないのは、わかっていた。
それでも、ぼくたちは信じたかった。コトコが生きたいと願っていて、ハルさんのためにも長生きしたいと思っていると。
「松田くん。点滴を……続けよう」
「……うん、うん」
松田くんは、何度も何度も確かめるように、うなずいていた。
次の日、松田くんは学校を休んだ。窓の外を見ると、まん丸い雲が流れていた。あれは、コトコだろうか。それとも、柿だろうか。おいしそうな柿につられて、コトコは空に還ってしまった。
国語の授業中なのに、目からあたたかいものがあふれてきて、こっそりと肩口でむぐった。隣の席の女子が、「あくびしてたでしょ」なんてからかってきたので、ぼくは「いいじゃん」と返した。
学校が終わると、ぼくは急いで松田家へと走った。松田くんが出迎えてくれる。
コトコがよくいた応接間のソファに、赤や黄色、紫色の花がたまっていた。花たちにかこまれ、コトコは目を閉じて眠っていた。
ぼくは帰りの通学路で摘んできたぶさいくな花束を、ハルさんに手渡した。
「まあ、ヒメジョオンにあかまんま、イシミカワにツユクサ。それに、エノコログサね」
どの花がどれなのか、何ひとつわからなかったけれど、ハルさんはそれをていねいにコトコのからだの上にそなえてくれた。松田くんが猫じゃらしを見て「エノコログサは、コトコが喜ぶだろうな」といった。
コトコの顔の横に、小さな皿が置いてあった。細かく切った柿が乗せられている。
「慎平ちゃんも食べさせてあげて。今までは、小指の先ほどしかあげられなかったもの。これで、思う存分食べられると思うから……」
ハルさんは涙をぬぐいながら、いった。
柿をひとかけらつまんで、コトコの口に持っていってやる。こうすれば、いつも一瞬でたいらげるのに。コトコはぴくりとも動かない。ちょんちょん、と口もとに押しつけてみても、コトコは目を開かない。
「おーい……コトコ」
名前を呼んでも、目を覚まさない。あんなに点滴をしたのに、コトコは元気にならなかった。神さま、どうして?
こんなにも、からだにずっしりとした重みを感じたのは、生まれてはじめてだった。
斎場から帰ってくると、松田くんのお父さんはすぐに仕事へ戻って行った。あわただしかったけれど、お父さんといっしょに手をあわせることができて、松田くんもハルさんもホッとしたようすだった。
松田くんのお父さんがコトコのために持ってきた花は「フジバカマ」。赤紫の小さな花をたくさんつけている。花言葉は「優しい思い出」というらしい。ハルさんはフジバカマを玄関の花瓶に生けた。他の花たちも小さな花瓶やお皿に生け、それぞれに手を合わせていた。
「四年生のとき、クラスで飼っていたモンシロチョウの幼虫のこと、覚えてるか?」
フジバカマの花の前で松田くんがいった。どうして今、そんなことをいうのかわからなくて、ぼくは「なんとなく」と答えた。
「虫なんて気持ち悪いって、みんな近寄らなかったんだ。特に女子たち。そしたら椎名が、〝幼虫の名前を考えよう〟っていったんだよな」
「そうだっけ」
「するとさ、それまで幼虫を怖がっていた女子たちが、真剣に考えはじめて。幼虫の名前が決まるころには、みんながモンシロチョウに還るころを想像して、盛りあがってた。しまいには女子たち、かわいいなんていいだしてさ。椎名、すげえって思ったんだよ」
ぼくでさえ忘れていた、モンシロチョウのことを松田くんはずっと覚えててくれたんだ。
「それから、椎名ともっと仲よくしたいと思った。家が近いからじゃなくて、中学にあがってからも、親友でいたいなって。だから、コトコのことに付きあってくれて、本当に嬉しかった。お前がいなかったら、おれ、へこたれてたと思うから」
松田くんは、ようやく泣いた。ハルさんの前でも、お父さんの前でも、松田くんは泣かなかった。ガマンしているんだと思った。
フジバカマの花の前で、松田くんは涙をゴシゴシとぬぐい、ぼくの肩をぐいっと抱いた。
「コトコ、がんばったよな。生きたいって、思ってたよな」
「うん。ぜったいそうだ。ぼくたちの言葉が、わかっていたはずだから」
松田くんは、大きくうなずいた。
するとハルさんが、大きな箱を持ってきた。近所の和菓子屋の名前が書いてある。
「ふたりとも、動物病院のお医者さまに菓子折りを持っていって」
あそこに行くのもこれが、最後だと思うと、なんだかさみしかった。
ぼくたちは同時に「競争だ」といった。松田くんが菓子折りの箱を両手で抱いて、駆けだした。ぼくもそれを追いかける。
その時、ぬるい風が吹いた。あたたかい風だ。もう九月なのに。
手の感触に、覚えがあった。コトコをなでたときと、同じ温度の風だ。
ぼくの胸に、熱いものがこみあげる。
「いっしょに走ろう」
ぼくは松田くんを追いかけ、玄関を飛びだした。
おわり
風になる 中靍 水雲 @iwashiwaiwai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。