第15話

 老いた暗殺者は大樹の根元に、衰えた身体を預けるようにして座っている。息はさほど荒くはなかったが、呼吸をすることがもう困難になりつつあった。明らかに死が近づいていた。狙った獲物の肉と骨は打ち砕かれなかったが、これで良かったのだ。本望である。あの徳川家康が震え上がったのは間違いない。薄れゆく意識の中で、夜空の月を暗雲が覆う気配を感じた。先年の大坂城でのある記憶がこちらの意志とは無関係に降りてきた。

 その夜、空は星一つ無い闇に支配されていた。杉谷善住坊は齢七十に届く自身の腕にもう自信がない旨を、後藤又兵衛や毛利勝永、真田幸村といった歴戦の強者たちへ正直に告げた。それでも蝋燭の炎に照らされた三人の強張った顔は、かつてあの織田信長を一発の銃弾で仕留めかけた老人を前にし、畏怖の目をこちらへ向けている。また豊臣を旗頭とした反幕府軍は善住坊のことを調べ尽くしていた。信長の暗殺に失敗した後も、本願寺は彼の腕を買って匿い、信長を含めた敵対する戦国大名への暗殺の切札とした。確かに今現在の暗殺技術が如何程のものか断じることはできないが、それでも実績を信じ貴重な戦力として、頼らざるを得ないのであろう。

「……善住坊殿、大御所を生かすも殺すも、その腕とその心次第」

 真田幸村の言葉には、何か以心伝心で響いてくるものがあった。善住坊は幸村の心意を汲めた。この戦に勝機は殆ど無い。だから引き金を引く時は、勝敗が決した後だと。つまり大御所に、これから始まる徳川の世に、警鐘を鳴らす為に一発お見舞いするのだ。命を奪わずに世が正せれば、それに越したことはないではないか。

 今際の際でまた、嘘偽りなくそう信じれた時、闇に覆われつつある視界に、かつて愛した女の美しい面影が浮かんだ。彼女は黄色い花弁の上で舞いながら飛翔する青い蝶を見つめつつ微笑んでいた。長い黒髪に百合色の衣が光るように映えている。彼女は彼に親愛の眼差しを向けていたが、この女が愛した男は、本願寺の要請で杉谷善住坊の身代わりに殺される運命にあった。女も男も戦国の世の地獄を終わらせるのは、阿弥陀如来の本願だと信じていた。男は犠牲となって散ったが、観音様のように慈悲深い女の行方はわからない。この世に鉄砲という武器や、この杉谷善住坊が存在しなければ、あの我が身と瓜二つの男が無実の罪で刑死することはなかった筈だ。

「観音様……」


 服部半蔵が杉谷善住坊を丘の草叢で発見した時、力尽きたその暗殺者は既に銃を捨てた死体になっていた。辺りには微かに硝煙の残り香が漂っているが、月光に照らされた死顔は、昼寝をしているようでもあり、昨秋に小屋で見た印象とさして変わるところはなかった。

 三代目服部半蔵の正就は、大坂の夏の陣で戦死した。彼は自らにそう言い聞かせ、月の光を避けるようにして雑木林の影に身を隠した。それから何処かを目指すことなく走り去った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かげぼうし 大葉奈 京庫 @ohhana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ