自転車ファンにとっての、2月14日

飛鳥つばさ

第1話

 2月14日と言う日は、どうにも浮かれた気分にはなれない。

 いやまあ、私が非モテだからというのもあるが(苦笑)

 2004年のこの日、彼が、あまりにも悲劇的な形で私たちの手の届かない高みへと翔び立ってしまってからは特にだ。


 マルコ・パンターニ。


 1998年のダブル・ツールを成し遂げた彼の偉業を知る人は、自転車ファンなら少なからずいるだろう。

 その前年のラルプ・デュエズの、今もコース・レコードに残る力強い登坂の姿を覚えておられる方もいると思う。

 あるいは、ドーピング疑惑から復帰しての2000年のモン・ヴァントゥー、ランス・アームストロングとの一騎打ちを知る人もいるかもしれない。

 しかしそれらの姿はいずれも、私の記憶に鮮烈に焼き付いている「本来のパンターニ」の姿とは重ならないのだ。


 二度に及ぶ交通事故と、そこからの選手生命をかけたリハビリは、やはり彼の持っていた類稀なる才能に少なからぬ傷跡を残してしまった。


 当時はまだほかに真似のできるライバルたちはいなかった、ドロップハンドルの下を握っての力強いダンシング。

 一人だけエンジンを積んだバイクに乗っているような、力感あふれるパッシング。

 そんなものは、私にとっては「本来のパンターニ」ではないのである。

 それより前の姿、すなわちその天才を何の制約もなく自由に羽ばたかせていた「本来のパンターニ」の姿を知る人は、自転車ファンの中でも少ないのではないだろうか。


 1994年のツール・ド・フランスに初めてその存在のきらめきを見せた彼の姿は、天地がひっくり返るような衝撃を私に与えた。


 まるでサイクリングのようなリラックスしたフォームから、軽々と旋回するペダル。

 彼が速いというより、ライバル達が一生懸命バックしているような錯覚を覚える、力感ゼロのパッシング。

「こんなふうに坂を登る選手がいるのか?!」と、私は一目でその姿に惚れこんでしまったものである。

 あえて例えるならば、彼の周りにだけ重力が作用していないような、そんな登坂。

 そう、復帰後の姿がよく「反重力的」と形容されるならば、彼の初期の姿はまさしく「無重力的」とでも形容すべきだろう。


 もうふたつエピソードを追加しておこう。

 このころの彼は、ダウンヒルのフォームがまた独特だった。

 サドルに腹を乗せ尻はリヤタイヤと接触せんばかりの、妙ちくりん……否、はっきり言うならいかにも素人臭い腰の引けたフォーム。しかしそれで速いのだからなお不思議である。

 アタックをしかけるタイミングも、まるで時宜を得ていなかった。

 デビューしたころのパンターニは、ほんとうに山岳だけに特化した才能で、強豪ひしめくプロ・ロードの世界に割って入りこんだのである。

 そんなどこか間の抜けたところも、ますます私を虜にしてくれる彼本来の魅力だったと、今となっては思う。


 総合力と言う点においては、かのメルクスやコッピ、イノーをはじめ、彼に勝る力を持った選手は何人かいるだろう。

 しかし登り一点に特化して評価するなら、パンターニ以前に彼に勝る才能はいないと、私はあえて断言する。

 そして選手の育成とレース戦術が”冷たい“科学に支配されてしまった現在と未来においては、ますます彼に勝る才能が現れることはありえない。これもあえて断言する。


 思えば彼が主戦場としていた1990年代は、サイクルロードレースにおいても無機質な育成と戦術が進み、選手たちの「人間としての自由と個性」が急速に奪われていった時代だった。

 パンターニは、そんな時代の流れに最後まで抗い続け、そしてついには時代に押しつぶされる形でこの世に居場所を失ってしまった、生まれながらの「抵抗者レジスタンス」だったのだろう。


 彼が去ってしまってから、もう20年になろうとしている。

 今年もまた、色あせることのない悲しみのバレンタインがやってきた。

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自転車ファンにとっての、2月14日 飛鳥つばさ @Asuka_Tsubasa

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