川淵慮壇は眠れない
「盧壇先生、本当は怖い話、苦手なんじゃないです?」
家政婦のトミ子さんが、冷めた珈琲を熱いものと交換しながら言った一言が、私の自尊心を痛く刺した。
私は背もたれに身を預け、彼女の年齢を重ねた目元を見上げた。
「何を言うのかねトミ子さん。知っての通り、私・
「だって、盧壇先生の書くお話は、必ずスッキリする結末が用意されてるんですもの」
「ほう。それで私が、怖い話の苦手な小心者だと?」
「小心者だなんて。キレの良い読後感を読者に提供する、盧壇先生の優しさだと思いますよ」
言われながらも腑に落ちず、私は熱い珈琲を喉に流し込んだ。
「私は常々言っているがね、トミ子さん。私は全ての宇宙をこの脳内に再現できるのだよ。想像力という力でね。だから未知のものなど、全く怖いと思わないのだよ」
「でも、先生は私の心は分からない。そうでしょ?」
トミ子さんはニコリと目を細め、言葉に詰む私を見返した。
「想像力の外側にある『実話』も、果たして怖くないのかしら」
その挑発に、私はゴクリと喉を鳴らした。そして珈琲カップを机に戻し、身を乗り出した。
「ほう、私を試そうというのかね、トミ子さん。ならば聞かせてもらおうか。君の中の『実話』という名の恐怖を」
トミ子さんはフフッと笑い、語り出した。
――それは、彼女が幼い頃の話。
正月と盆には、必ず母方の祖母の家に帰省した。親戚一同が集まり、広間で寿司桶を囲む。大人たちは酒が入り話に夢中で、幼い彼女は、食事を終えれば暇になる。そこで彼女は、一人で屋敷の探検をするのが常だった。
祖母の家は、古めかしいが広く立派な屋敷だった。床の間のある茶室、箪笥の置かれた客間、長持の置かれた納戸。
そんな彼女も、避けていた場所がある。
屋敷の最奥の、薄暗い一角。廊下の突き当たりにある板戸。
「ここは開けてはいけないよ」
そう母に言われていた。
好奇心旺盛な彼女は、気になって仕方がなかった。そしてある時、自分に言い聞かせた。
――開けなければいいのよ。
彼女は人目がない事を確認し、足音を忍ばせ、戸の隙間に目を当てた。
向こう側は真っ暗だった。しかし、目が慣れてくると次第に中の様子が伺えた。
そして気付いた。
向こう側からこちらを覗き見る目が、すぐ前にある。
彼女は声も出せずに後退りした。その肩に置かれた手。
「キャー!」
叫んだ彼女が振り向いた先には、祖母がいた。
祖母は見た事のない険しい顔で彼女に言った。
「開けてはいけないよ」
それから怖くなり、彼女は祖母の家に行かなくなった。しかし、祖母が亡くなった時には、行かざるを得なかった。
十年ぶりに訪れる屋敷。大人たちは、通夜の準備で慌ただしい。彼女も手伝っているうち、気付くと、あの木戸の前にいた。
時が経つにつれ、あの時の体験は夢か勘違いではないかと、彼女は思うようになっていた。そのモヤモヤを確かめるため、彼女は木戸に手を掛けた。そして、そろそろと戸を開いた。
その向こうは、薄暗いだけの、何もない部屋だった。
やっぱり夢だったのだろう。ホッと息をついた彼女の肩に手が置かれ、彼女は悲鳴を上げた。
手の主は母だった。
母は開かれた木戸の向こうに目をやったまま呟いた。
「
「…………」
私は手で口元を押さえて俯き、表情を悟られまいとした。今さらながら、『実話』というのに弱い事を、私は思い知らされていた。
私は想像力が人一倍逞しい。そのため、体験談を聞くと、まるで我が身に起こったかのように共感してしまうのだ。
想像力の敗北である。
どんなに否定をしても、トミ子さんは私の弱点を見抜いていたのだ。
「どうでした?」
私の心を見透かしたように、トミ子さんは微笑んだ。
「……いや、なかなか興味深かったよ。――もう一杯、珈琲をもらえないか? 濃いやつを」
「眠れなくなりません?」
そう言いながら、トミ子さんは部屋を出て行った。
閉まった扉を見て、私はふぅと息を吐く。……眠れない理由を、珈琲のせいにしたいのだ。
「事実は小説よりも奇なり、か……」
ブルッと身震いした瞬間、扉が開いて、私は飛び上がらんばかりに驚いた。
「と、トミ子さん、珈琲を淹れてきたにしては早すぎやしないか?」
トレイに湯気の立つカップを載せたトミ子さんは、不可解な顔をした。
「何をおっしゃいます? いつも通り、豆を挽いてドリップしましたよ」
「えっ……」
目を見開く私の前を通り、トミ子さんは机の珈琲を熱々のものと交換しようとして手を止めた。
「あら? カップがまだ熱いわね」
「――――!」
ならば、私に奇妙な体験談をしたのは、一体……。
今晩は、眠れそうにない。
川淵廬壇は解らない 山岸マロニィ @maroney
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