川淵廬壇は解らない
山岸マロニィ
川淵廬壇は解らない
私は
「先生は、恋愛物はお書きになりませんね」
家政婦のトミ子さんがボソッと呟いた一言が、私のプライドを深く傷付けた。
「いや、侮られては困る。この川淵盧壇に書けないものなどないのだから」
「なら、書いてみてくださいな。私、盧壇先生の恋愛物が読んでみたいですわ」
そう言いながら、執筆机に置かれた冷めた珈琲を、温かいものと交換していく。彼女は家政婦の腕も一流だが、ファンとして、作家をその気にさせる力もまた一流なのだ。温かい珈琲に角砂糖を落としながら、私は構想を練った。
主人公は高校生カップル。夏の開放的なノリで廃墟に肝試しに行く。そこで彼女が襲われゾンビに……。
「あの、先生? それは、恋愛物ではないと思いますよ」
「何を言うか、トミ子さん。例え彼女がゾンビになろうとも愛し続ければ、生死を超えた禁断の愛じゃないのかね」
「どちらかと言うとホラーですね、それは」
トミ子さんはなかなか手厳しい。
「じゃあ、こんなのはどうだ」
主人公カップルは大学生。だが、不幸にも事故に遭い、生死を彷徨う傷を負う。万にひとつの可能性に賭けて、彼の両親は彼をコールドスリープした。
三十年後、医療の発達により目覚めた彼は、彼女もまた、コールドスリープされていると知る。しかし、彼女の方がより容態が深刻で、今ではまだ治療できない。彼は彼女を目覚めさせるため、医者を目指す――。
「なかなか良いのではありませんか? ありきたりな感じはありますけど」
「ありきたりと言うのかね、トミ子さん、君は。私はね、『ありきたり』という言葉が一番嫌いなのだよ。世の中はありきたりで溢れている。だから私は、ありきたりでないものを書き世に問うのだ。それが作家としての使命だと信じている」
「だから、私は盧壇先生の書かれるお話が好きなんですよ」
トミ子さんは、小皺の目立ち始めた目元を細めて微笑むと、小首を傾げた。
「盧壇先生。逆に、先生にとっての『ありきたりな恋愛』って、何です?」
「ありきたりな、恋愛……?」
私は稲妻に打たれたような気分になった。その閃光は、私の中の空虚な部分をまざまざと私に見せ付けたのだ。
私は生まれてこのかた、恋愛らしい経験がない。
こう言うと語弊を招くかも知れないが、決して私は女性から注目されない存在である訳ではない。逆である。私の目を引こうと、余りに『ありきたり』な格好をした『ありきたり』な事ばかりを言う女ばかりが、私の周囲には集まって来るのだ。
そして、彼女らは私を理解しない。私は『ありきたり』ではないからだ。私を理解しようとしない者になど、私は興味はない。つまり、私の興味を引くに足る女が、私の前に現れなかった、ただそれだけだ。
「恋愛物を書くのに、恋愛経験など必要はない。トミ子さん、私はだね、この中、この頭の中に、宇宙を持っている。森羅万象津々浦々、全ての現象を再現できる、『想像力』という名の宇宙をね。だから、経験など気休めに過ぎないのだよ」
「なら先生。私が川淵盧壇という作家に抱いている感情を、先生はお判りになります?」
私は目を見開いた。そして、トミ子さんの年齢を感じさせる目許を食い入るように見据えた。
――解らない。
何故だ? 毎日顔を合わせる生活を四半世紀も繰り返している彼女の感情を、手の届く距離にありながら、読み取る事が出来ない。何という事だ!
私の動揺を読み切った顔で、トミ子さんはフフッと笑った。
「先生。人の感情は、人それぞれが持つ宇宙なんですよ。増してや、恋愛に関する感情は、その人だけの宇宙の、最も深いところに仕舞ってあるんです。自分でも解らないほど、奥深くに」
私は仰け反った。この時の私には、トミ子という家政婦が、文殊菩薩か何かのように見えていた。
「な、ならば、私はどうすれば、恋愛物を書けると言うのかね?」
「恋愛の当事者に取材をされるというのは如何かしら?」
「取材?」
「私の娘が高校生なんですけどね、最近、彼氏が出来たみたいで。一度、お会いになってみません?」
そして、彼女はやって来た。
膝の見えるプリーツスカートに、肩の部分に穴の開いたカットソー。今どきの女子高生という感じだ。しかし彼女らはなぜ、関節を晒そうとするのか。人体を健康に保つには、関節を冷やす事は推奨されない。真逆の行為に何の意味があるのか。
「盧壇先生、こんにちは。お久しぶりです」
言われて私は焦った。……この娘に会った事があるようだ。それは何時だ?
「以前、カナがお会いしたのは、幼稚園の頃ですもんね。覚えておられないのも無理はないですわ」
トミ子さんがさらりとフォローしてくれて助かった。私は気付かれぬよう、さり気なく額の冷や汗を拭った。
「ちーっす。カナっちの彼氏のケントでえーっす」
カナの後から、ボサボサの金髪に破れかぶれの服を着た男が入ってきた。耳だけでなく、鼻や口元にもピアスを付けている。――私は直感した。私とこの男は、絶対に話が合わない。
応接テーブルを挟んで、二人と向かい合う。トミ子さんが珈琲を並べたところで、取材を始める事にした。
「まず、君たちの恋愛観を聞きたいのだが」
「恋愛観?」
二人は顔を見合わせた。
「恋愛観って何スか?」
ケントとかいう阿呆面が早速本性を露呈した。
「ならば、言い方を変えよう。お互いに、相手のどんなところに惹かれて付き合うと決めたのかね? ――まず、彼女、カナさんから」
「うーん」
カナは少し考える素振りを見せてから答えた。
「一緒に居て楽しいところ?」
「楽しい、……なるほど。では、その『楽しい』という感情は、親しい友達と一緒の時とは違うのかね?」
「友達は友達で楽しいけど、ケントはケントで楽しいよ。でも、違いがあるかって言うと、ちょっと分かんない」
「え、マジ? ときめくとか胸がキュンキュンするとか、ないの?」
ケントの言葉に、カナはキッパリと答えた。
「ない」
「…………」
――何だこの取材は。非常に興味深い。私はニヤついた口元を手で隠した。
「ではケント君、君はなぜカナさんに告白したのかね?」
「え? 告白なんてしてないんスけど」
「…………?」
「だって、アレじゃん? 告白してきたのはカナの方じゃん?」
「はあ? 私がいつ告白したの?」
「前さ、映画行った時、付き合って欲しいって」
「マジ? あれ告白だと思ったの? だって、あんなニッチなホラー映画、他に誘える人がいなかったから、仕方なくケントに『付き合って』って頼んだんだよ」
「…………」
ケントは呆然とカナを見ている。
私は何故か、このケントという阿呆面に同情の念を抱いた。いや、もっとこの男の宇宙とやらを覗きたくなった。
私はケントに促した。
「ならば、君がカナさんに寄せている感情を今ここで、打ち明けたらどうだろうか?」
ケントは呆けた表情で私を見た。
「今、ショックすぎて言葉が出ないッす」
「ならば、私が助け舟を出そう。……君がカナさんと居る時に、最も感じる感情は何かね?」
「可愛い」
――余りにスッと言葉が出て来て、私は驚いた。「可愛い」という言葉は形容詞であり、感情ではない。しかし、形容詞というのは、時に感情を表現する言葉ともなり得る。彼の言う「可愛い」という言葉に嘘はないだろう。私はケントという男を見くびり過ぎていたかもしれない。
私は足を組んで顎を撫でた。
「どういうところが?」
「顔が」
……やはり、底は浅そうだ。期待し過ぎたか。
「その可愛い彼女の顔が、君にもたらすものは何かね?」
「うーん……」
ケントはポカンと天井を見上げた後、言った。
「優越感?」
私は眉を寄せた。話の筋が繋がらない。なぜ付き合っている人の顔が良いと優越感に浸れるのだ?
「やっぱ、彼女が可愛いと、ダチに自慢できるし」
「ちょっと待って」
カナが口を挟んだ。
「じゃあ、ケントが私と一緒に遊んだりするの、友達に自慢したいから?」
「そうだよ。で、自撮りを盛ってSNSに貼ると、面白いだろ」
「嘘。信じらんない」
カナは憤慨した。
「好きって言ったじゃん。あれは嘘だったの?」
「嘘じゃないよ。恋人って、そういうモンしょ?」
「馬鹿!」
カナはケントの頭に珈琲をぶちまけて、部屋を出て行った。
「…………」
トミ子さんにタオルで拭いてもらう金髪を眺めながら、私はニヤけが止まらなかった。
お互いに恋愛感情がない、もしくは履き違えている場合にも、恋人関係というのは成立するものなのか。
ようやく落ち着いたケントに、私は尋ねてみた。
「君にとって、恋愛とは何かね?」
「前戯っスよ。……もういいスか」
ケントは不機嫌に珈琲を一気飲みし、部屋を後にした。
閉ざされた扉に向かい、私は手を叩いた。
「ブラボー、実に良かった。素晴らしい時間を私は過ごせたよ」
テーブルを片付けるトミ子さんに、私は興奮気味に語った。
「心の宇宙とは不思議なものだ。全く触れ合ってすらいないにも関わらず、互いに惹かれ合うのだから。それに、彼の最後の一言。あれこそが、生物という立場にある人間に於ける、恋愛の真実なのだろう。いやあ、私はトミ子さんに感謝をしなければならない。私の宇宙が少し広がった気分だ」
「感謝したいのは私ですわ」
カップを置いたトレイを持ち、トミ子さんが立ち上がった。
「盧壇先生にご相談すれば、何とかなる気がしたんです」
トミ子さんはそう言って、軽く私に会釈すると、部屋を出て行った。
「…………?」
トミ子さんの最後の言葉の意味が解らず、私は眉を寄せた。
私は彼女に感謝されるべき事をしただろうか?
そして、思い至り愕然とした。
トミ子さんは、娘のカナとケントとの交際に反対だったのだ。しかし、親の立場というのは微妙なもので、下手に反対をすれば、益々恋の炎に油を注いでしまうかもしれない。
そこでだ。
川淵盧壇という劇薬を、ふたつの宇宙が重なり合う寸前のところにぶつけたのだ。
すると、まるで反発する磁石のように、ふたつの宇宙はベクトルの方向を変えた。大成功だったのだ。
私は大きく息を吐き、熱々の珈琲に角砂糖を落とした。
もしかしたら、恋愛物を書いて欲しいと言い出したその時から、これが目的であったのかもしれない。
「……フッフッフッ……」
珈琲を混ぜながら、意識の外で笑いが漏れる。
心の宇宙をどんなに逞しくしたところで、文殊菩薩の手の内で転がされる宝珠の如しだ。これ程までに私の興味を惹かせた女性は、彼女以外にいない。
そして気付いた。
若い二人の未熟なすれ違いすらも恋愛と呼べるのならば、私の宇宙の奥底に芽生えた、――いや、わだかまっていた、この形のない奇妙な棘も、恋愛と呼んでいいのではなかろうか。
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