短編集
織倉未然
第1話 消去雨(2023/02/12)
断捨離ブームにより需要が増えましたね、と語るのは、高圧デリート液噴射装置開発会社の社長だ。
「いかなる物質も汚れのように消し去ることができます」
小綺麗な髪型、染みひとつない肌、時折り見える白く整列した歯。スーツの下には過不足なく鍛えられた筋肉が窺える。スーツや靴、ネクタイ、腕時計やピンにいたるまで、上等だった。何か――社会的ステータスとか――を主張しているというよりは、むしろその逆で、謙虚さの塊という印象を受けた。慎ましやかな現代人のモデルとして、いつかの未来の博物館に展示されていてもおかしくない。
彼の年齢は、確か40代とか50代だったはずだが、それはあくまで経歴の話で、対面してみると間違っているんじゃないかと思われた。老成した雰囲気があり、時間とか年齢といった尺度を素直に適用できない。実は未来から来たのです、と明かされれば、驚きこそすれ、きっと納得してしまうだろう。
「もちろん、賃貸の壁には影響はありません。一方、ゴミや家具、それにまつわる思い入れや記憶まで……大抵のものは綺麗さっぱり、です」
「それを人に向けるとどうなりますか?」
「消えますね。人もモノですから」
「危ない話ですね。まさか試したわけではないでしょう」
「法律の話なら、問題はないんですよ。というよりも、問題にできません。存在から、それを証明する情報や過去、そういったものまでも消えるのですから」
そう言いながら、デスクの上の本に手を載せる。この部屋にある物の中で、唯一その本だけが歴史を感じさせた。何度も読み込んだのだろう風合いがあって、ずいぶんくたびれていた。彼の超時間的な精神を象徴しているのかもしれない。
タイトルがちらりと見えた。『1984年』。変なタイトルだ。著者の名前は分からない。いったい、その年に何があったというのだろう。
「それはご自身で書かれたので?」とぼくは尋ねた。
「いいえ」と彼は笑う。
要領を得ないので、話題を変えることにした。
「デリート液の効果の凄まじさについては分かりました。過去にまで及ぶとは驚きです」
「侵食するイメージです」
「対象が目の前にいない場合はどうでしょうか。すでにこの世にない物や、遠く離れていて液体の届かないものなんかは……」
バカなことを聞いているという自覚はあった。目の前にあるものなら、思い出も含めて消し去ることができる、というのは福音だ。しかし、本当に消し去りたいのは、目の前にすでになく、それでもずっと心を縛ってくるものではないだろうか。昔の思い出、頭の中にだけ残っているもの。
「お話を聞きましょう」
「つまらない話ですよ」と暗に拒絶しようとする。
けれども、彼はじっとぼくを見据えてきた。
真っ黒な目の向こうに宇宙が見えた。
「ただ――」と言葉が口をついてしまった。
彼はその言葉を掴むように、小さく頷いた。吸い出されるように、ぼくは口を割っていた。
「昔付き合っていた彼女に有り金を全て持ち逃げされ、その時に腹部を刺されただけです」
「なるほど、確かによくあることですね」
彼が言うならば、きっとそうなのだろうとぼくは思った。
「傷も残りましたが、それは良いんです。ただ家に帰るのが怖いだけで……」
「その記憶を消し去りたい、と」
「一番手っ取り早いのは、その彼女さんにデリート液を噴射することです」
「……できない事情があります」あるいはないのか。とにかく不可能だ。時間的にも、物理的にも。
「当社の製品は、対象とそれにまつわるエピソード、証拠などの情報を消すことはできます。ただし、どうしてもモニュメントは残ります」
「モニュメントですか?」
「ある種の、です」と彼は答えた。「賃貸の壁や、今もなお”テレビ塔”と呼ばれているあの建築物のように、誰が何のために建てたのか、記録にも残っていないが存在するもの、というものは消せないのです」
そんなパンフレットにもあるようなことを、とぼくは思う。方向が見えなかった。
「ぼくが聞きたいのは、そういうことでは……」
「ただし、それも過去の話。あなたは幸運です」
「――というと?」
「要は出力の問題ですよ」と彼は微笑む。「まだ公開はしていませんが、新型の装置なら可能です。もし、その彼女さんを象徴するようなモノがあれば、それとそれにまつわるエピソード……あなたのトラウマも消し去ることができるでしょう。傷は残りますが」
「構いません」とぼくは答えた。
・・・♪・・・
ひそひそ声が聞こえる。
「最近の若者は、墓掃除も横着しようとするんだねえ。あんなデカいモノ背負って、はんかくさいわ」
盆は過ぎたはずだが、まだ暑かった。夏は避けられない。例年通り蝉は喧しく、鳶が歌っていた。あいつらは去年もいた気がする。ちゃんと年は巡っているのか? 苛立ちを覚えた。この反応だって、毎年同じだ。
装置を背負う背中が汗でいっぱいだった。今度あの会社に行くことがあったら、通気性を改善しろと言ってやろう、などと思いながら、やっと坂を登り終えた。
目の前にあるのは、ぼくの家の墓石だ。少し前に誰かが来たらしい。数日前か、一、二週間前なのかは分からない。とにかく花は萎れていた。
几帳面に見れば違うのだろうが、墓石は、総合的にはピカピカだった。ちゃんと磨かれていて、陽の照り返しも強い。シックな色合いなはずだが、輝いて見える。誰に何を誇示しようってんだ、と思わずにいられない。バカらしかった。子どもの頃からずっとそう思っていた。
しかし、それも今日で最後だ。装置を起動する。
一度は家族になった人間の訃報が、新聞に載るだなんて、それまで想像したことがなかった。詳細は伏せられていた。関係者でなければ、事件の概略すら掴めない。怨恨、という文字が印象的だった。
普段は気にも留めない、よくある事件。そして関係者でなければ誰でも同じに見える記事が、初めてリアルに感じられた瞬間だった。
そういう意味では、書かれるということは、傷をつくるということなのだろう。ぼくの腹に残ったものと同じように。
装置はすでに目覚めている。
ぼくは長いノズルを墓石に向ける。あとはトリガーを引くだけだ。
傷は残ります、という社長の言葉が浮かぶ。
「ただし、意味は消すことができます」
あの社長はトラウマと言ったが、ぼくの見方は少し違う。どちらかと言うと、罪の意識だ。誰のものかは少し迷う。知らないうちに男を作ったか、唆されたかして、挙句ぼくを刺した彼女の罪か、それとも後日彼女を刺し返したぼくの罪か。
まあそんな悩みもこれで終わりだ。ぼくはトリガーを引いた。
まずは頭から。まるでアイスを炙るでもするように、墓石は見るみる消えていった。デリート液の効果を実際に見るのは初めてだったので、疑いもあったが、溶けていく様子に興奮を覚えた。こんな簡単に済んじゃうんだ、と拍子抜けした部分もある。体の強張りが緩んでいく感じがあった。
瞼の裏に張りついていた、路地裏に横たわる彼女の姿が朧げになっていく。肢体の輪郭は室外機の音に震え、繁華街特有の猥雑な雑踏に砕かれていく。ていうか、これっていつの話だっけ? 何かの映画で見た風景だろうか、というようなことをぼくは考える。墓石は半分もない。おれは何してるんだ? と思う。
しかしまあ、引いたトリガーは絞り続けなければならない。なぜかは知らないが、使命感のようなものだけは確かだ。
するすると墓石は溶けていく。日差しが熱い。汗をかき過ぎたのだろうか? 脚がガクガクと震えてきた。手元が震えた。墓石に当たるデリート液が、パチっと跳ねて、こちらに飛んできた。
変に煌めくものだな、とか思った時には、雫は手の甲に当たっていた。鉄板に落としたみたいにジュッと鳴る。そりゃまあこれだけ暑ければ蒸発もするか、と思ったが、違った。
デリート液は手の甲から平までを貫通し、地面に垂れた。痛みはない。しかし手に大きな穴が空いていた。どんどん広がっていく。
爆ぜるように、逃げるように、全身から汗が噴き出した。夏とは無関係の、熱く、冷たい汗だった。トリガーから指は離れない。左手の指がなくなった。手のあたりで踊っていた液体は向きを変え、手首から登ってくる。なんだよこれ、と思ったところで、腰が抜けた。ノズルは上を向く。デリート液は雨となって、降ってくる。
消えかけた誰のものとも分からない、自分の苗字と残り一文字だけが同じの墓石を見た。
転んで見上げた空で、鳶が輪を描いていた。
はじめの一雫を鼻先に受ける直前に思ったのはそれくらいのものだ。
・・・♪・・・
やがて新しい蝉の声が響きはじめた。
中途半端に溶かされた墓石と金属片だけが残った。
(了)
短編集 織倉未然 @OrikuraMizen
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