ガール・ミーツ・フォーリズム

楠治 加布里(くすじ かふり)

ガール・ミーツ・フォーリズム

 玄関のドアを閉じ、鍵穴へと家の鍵を差し込んだ。差し込むとき、鍵の先で、大気と一緒に日常の自分を鍵穴の中に押し込んだような気がしたけれど、それはたぶん気のせい。鍵をひねれば当然、「カチャッ」と音が鳴って鍵が閉まった。その音が日常と非日常を切り替えるスイッチのように聞こえ、普段の私とそうじゃない私が入れ替わったように錯覚したけれど、それも多分気のせいだろう。私はどこまでだって私でしかなく、この一瞬、家を出て鍵を閉めただけで何かが変わるなんてことは絶対にない。けれど、夜中に家を出て、どこかへ行くというこの行為が、私にそう思わせてくる。ただ家を出るだけだ。ただそれだけで、私はこうも特別な気分を味わうことができるのだ。それはただの思い込み、若気の至りなのかもしれないけれど、今この一瞬を特別に感じていることは間違いがなかった。

 一歩、踏み出した。音を立てないよう、ゆっくりと門を開き、昼間の自分から逃げるように、足早に門から出て、普段の自分にそっと別れを告げるように、ゆっくりと、ゆっくりと、門を閉めた。

 夜が、始まった。


 さて、ここから目的地である公園のベンチまで向かわなければならない。時間としては徒歩で約15分といったところだろうか。最短ルートで進みたいが、そのまま行くと交番があるため、補導されかねない。夜中の0時を回っているのに、女子高生がうろうろしていては、確実に補導されてしまう。だから、まっすぐ向かわず、迂回する形で向かうことにした。

 この時間に出歩くのは、初めてではない。既に数回はこの夜の旅に出ている。始めは出来心だった。別に日常に不満があるわけではなかった。高校生活だって楽しいし、家族のことだって大好きだ。だから、嫌な気を起こして、夜に何かを求めたわけではない。しかし、何かが決定的に足りなかった。思春期ゆえの面持ちがそうさせるのか、思春期真っただ中の私には知る由もないけれど、普段の生活では自分の中で、何かが決定的に足りていなかった。朝起きる時も、朝ごはんを食べる時も、学校の支度をする時も、学校へ向かう時も、数え上げたらきりがないぐらい、日常のありとあらゆる場面で私はその感覚に襲われた。何かが足りない、何かが欲しい、けれど、それは分からない。そのような不満が鬱積し、私はついに行動に出た。別に、犯罪をしたり、家出をしたりしたわけではない。ただ、夜中に家を出た。それだけだ。もちろん、大人に見つかってしまえば補導されてしまうけれど、今のところは見つかっていない。家族にもばれていないし、誰にも迷惑はかけていないと思う。

 初めての夜で私を待っていたのは、、恐さだった。不審者はいないのか、不良に絡まれたらどうしよう、補導されないか、何か怪しい取引現場を目撃しまうのではないか。あることないこと想像し、おどおど彷徨っているうちに、気が付いたら家に帰っていた。こんな思いは二度としたくない。だから、もうやめておこう。そう、固く誓った。

 次の日もその次の日も、またその次の日も、夜に家を出ることはしなかった。あの恐怖は私の心に鮮明に焼き付いていたし、冷静に考えて、夜は寝た方が良いと思ったからだ。しかし、その一方で、自分の中にもう一つ残っているものがあることにも気が付いていた。それは、解放感であった。怖さは間違いなく存在した。しかし、その中で、昼とは違う、高校生や未成年といったありとあらゆるしがらみから解放された自分の存在を、確かに認知していた。

 一度知り、刺激を感じたものを忘れ去ることは難しい。恐怖におびえながらも、またあの自分に会えるんじゃないか、今度はまた違う別の自分にあえるんじゃないか、そんな期待が常によぎった。恐怖や常識という枷で抑え込もうとしても、それは留まることを知らず、溢れた。そうして私は2度目の夜へと繰り出したのである。

 そこからは、堕ちるだけだった。夜に出歩くことの恐怖は次第に薄まり、解放感だけがただ募っていった。そうなってはやめることはできず、こうして度々夜へと繰り出しているのだ。私が夜に何かを見出したのか、私が夜に魅入られたのか分からない。どっちか片方なのかもしれないし、両方なのかもしれないし、どっちでもないのかもしれない。けれど、そんなことはもうどうでもよかった。夜という空間、時間が与えてくれる新たな私という存在をひたすら待ち望み、享受することが、何よりも楽しく、欠けてしまった何かを埋めてくれると思い込んだ。

 家を出てからどれぐらい経過しただろうか。スマホは家においてきてしまったし、腕時計もしていない私は時間を確認する術を持ち合わせてはいなかった。近くに時計を探したけれど、あるのはまばらに建っている家だけで、時間が確認できるものは見当たらなかった。そんなに距離を歩いているわけではないし、多く見積もっても5分程度ではないかと思う。

 時間が気になるのは、他に気にするものが何もないからかもしれない。昼間であれば、道行く人のことだったり、見慣れた景色を何の気もなしに見たりする。そうじゃなくても、友達と話したり、スマホを見ながら歩いたり、何かしら自分の注意をひくものが身の周りに存在しているはずなのだ。しかし、この時間に限って言えば、街灯がないこの路地は暗闇に包まれ、景色を見ることはおろか、周りに人が歩いているかを判別することすら難しかった。足音は聞こえないから多分いないだろう。そもそも、この路地はそこまで人通りが多いわけではないから、こんな時間に人などいるはずもないと思う。

 この通り、周りにはよく見えず、スマホを持ち合わせていない、そして、一緒に歩く友達も寝静まったこの時間では、私ただ一人が、ここにいる。故に、私の注意をひくものは何もなく、手持無沙汰の私は時間を気にしたのだ。

 路地を抜けて突き当りを曲がると、目的地の公園に続く登り坂が見えてきた。この坂を上れば目的地なのだが、問題はこの坂だ。上るの要する時間は10分程度だが、傾斜がすさまじく、若者の私でも上るのに一苦労する。夜に公園に行くのは今回が初めてだけれど、坂を上るその辛さは、昼も夜も変わらない、普遍のものだろう。変わったのはせいぜい、時間と私の気持ちぐらいだと思う。などと、自分の気持ちに思いをはせながら、私は坂を上り始めた。

「なんで、こんなことしているの?」

 不意に、声が聞こえた。周りを確認したけれど、人影は相変わらず、なさそうだった。すると、どこからの声だろうか。

「私はこんなこと望んでないじゃない、なのに、なんでこんなことするの?。」

 ああ、分かった。いや、理解したわけではない。何となく、察しがついただけだ。これはたぶん、私の声だろう。私の、私自身の、今の私とは違う、いつもの私の声。

「こんな夜中に出歩いたら危ないよ。まだ高校生なんだから、こんな時間に歩いていたら補導されちゃう。早く引き返そう。見つかってからじゃ遅いよ。今ならまだ間に合うから、引き返そうよ。」

 私の声を、私は聞き流した。こんな制止が意味のないことは、私が一番よく分かっているというのに、私はそれでも、私を止めようとするのか。

 しばらくすると、声はやんだ。耳を貸さない私にしびれを切らしたのか、それとも、元からそんな声はしていなくて、私の思い込みだったのか、それが分かることは終ぞないけれど、とにもかくにも、声はしなくなっていた。私は構わず、足を進める。

 坂を上る途中で、視界の右側に、様々な色の光がちらちらと、こちらを照らすのを見た。私の家から少し離れたところにある市街地である。公園に着けば市街地を一望できる展望台があるのだが、坂の途中から見えるこの景色も、私に十分すぎるほどに感動を与えた。先ほどまで何の光もない、真っ暗闇を歩いていたのも相まって、市街地を照らし、私を見つめる光は、何よりも綺麗に見えた。赤、緑、黄、青と色彩に富み、その光一つ一つが私を照らし、私のためにあると思った。実際にはそんなことはなく、それぞれはただ単に、街だったり、お店だったりを照らし、そこにいる人々を照らすために、光り、輝いているのだろう。けれど、私がその光をどう思いこむかは誰にも侵されることない、私だけに許される権利であることは間違いない。だから、私のために光っている私が思えば、、それは私のために光っていることに間違いはない。これを否定することは私にしか許されないことなのである。だから、この時、この一瞬だけは、あの光は全て私のために光っているのだ。。私のこれから歩む道を、その行く末を祝福するために、光り、輝いている。

 坂上りも終盤、もう少しで目的地の公園へ辿り着く所まで来た。思えば、この夜の旅をし始めてから、その終着点として公園を選んだのは今回が初めてであることに気が付いた。小さい頃から慣れ親しんだ公園だし、自分のお気に入りの場所でもあるから、目的地としては真っ先に思いつきそうな場所だが、この時間に公園へと向かうのは今回が初めてだ。

 ふと、今まで行ったことのある場所を思い出してみる。夜はやっていない近所のスーパー、自分が通っていた小学校、中学校、習い毎でやっていたピアノ教室、昔はよく遊んでいた、けれど、今は遊ばなくなった友達の家、行きつけの駄菓子屋があった空き地。こうして振り返ってみると、私は、私自身の記憶を遡るようにして、旅を決行していたのかもしれない。行先の順番はバラバラで、多分、思いついた順だ。けれど、行った先は間違いなく、私がかつて、何かを思い、何かを諦め、何かを願いながら、その時間を過ごしたことのある場所だった。そんな中、私が今回なぜこの場所を選んだのかは、今の私にはまだ分からない。思い出がある場所であることは間違いないが、それ以外にも、何かあるような気もする。今は分からないけれどそれはたぶん、今そうだったように、後から思い出して分かることなのかもしれない。そんなことを思いながら、坂を上った。

 やがて、公園が見えてきた。夜の冷え切った空気は、突き刺すような冷たさで私を包んだ。 

 12月の半ばにもなると、少し前までの過ごしやすい季節はどこかに行ってしまい、そこら中に寒さが募る季節が顔を出し始める。この時期にしては薄着で家を出てきてしまった私は、寒さに凍えるほかなかった。全身を白い服に身を包んでいることも、寒さを助長する気がしてならない。なぜ、こんな格好をして出てきたのだろうか。もっと着るべき服はあったろうに。  

 歩いて体が温まってきているとはいえ、四肢の先の感覚は鈍く、自分の体でないような気がした。私の体であることは間違いないのに。

 行脚も終盤、かねてより目指していた公園へと辿り着いた。古ぼけた遊具ばかりが立ち並ぶ、普通の公園だ。電気は既に消えていて、昼間の暖かそうな雰囲気は一転、誰も寄り付かない廃墟のような空気を醸し出している。

 長い距離を歩いたわけではないけれど、すさまじい高揚感と達成感、そして全能感を憶えた。今の私ならどこまでだって行けて、なんだってできる気がした。すぐ帰るのも何だか味気ないと思ったから、すぐ先にある展望台へと足を進める。街の夜景は坂を上る途中でさっきも見たけれど、展望台の方がより綺麗に見える。

 展望台へと向かう途中、屋根のついたベンチがある。昼間に来れば、子どもを遊ばせている親や、散歩で立ち寄った老人がよく座っている。そこを通りかかる時、ふと、人の気配がした。こんな時間に人がいるわけもないのに、なぜだろうか。そう思いつつも、気になった私は念のため、気配の方へとゆっくり、顔を向けた。そこに人がいるなら、それが不審者であれ真っ当な大人であれ、どちらに見つかったとしても今の私の状況は好ましい方には転ばない。襲われるか、補導されるかの二者択一である。人がいなければそのまま通り過ぎればいいし、人がいるならば、走って逃げればいいと思った。

 目が合った。しかし、そこにいたのは不審者でも真っ当な大人でもなく、私と同じくらいの男の子であった。こんな時間に同年代の誰かと会うことはないと思っていた私は、驚きのあまり、合った目を少しの間、離すことができなかった。その少年も目をそらすことはなかった。そしてなぜか、彼の私を見る目の中には、驚きなど全くなく、ただじっと、私を見ていた。

 別に、話しかけたすることはなかった。会ったこともないし、この先会うことも多分ないと思う。少年の方から何か話しかけられるということもなく、私は彼の前を素通りした。通り過ぎる際、横眼で彼の姿をもう一度確認したが、彼は遠くに広がる待ちの光を見つめ、ただベンチに腰かけていた。

 展望台へと登った。室内というわけでもなく、木で作られた簡易的なものであり、、高い位置にあるため風も強く、今にも凍り付いてしまいそうな寒さを感じた。しかし、そんな寒さなどすぐに忘れてしまうくらい、その景色は圧巻であった。展望台は、坂とは逆の方角に位置しているため、その正面から見える景色は、坂から見える街とは別の街を写す。さっき見た街の夜景との違いは全く分からないけれど、眼下に広がる光や、それらが照らす街並みが筆舌しがたいほどに美しいことには間違いがない。今すぐここから飛び出して、その光へと身を投げ出してしまいたいほど、私はその景色に胸を打たれた。

 しばらく景色を眺めた。どれぐらいの時間そうしていたかは分からないけれど、短くはない時間の間、景色を見ることをやめなかった。遠くを望みながら、私はふと思った。ここからあの景色に飛び込んだらどうなるのかと。もしかしたら体が宙に浮いて、箒にまたがった魔女のように、ふわふわと飛べるのではないかと思った。冷静に考えればそんなことできないことぐらい分かっている。柵を飛び出せばその下は絶壁であるため、落下して即死することは想像に難くない。しかし、深夜ゆえの理性のなさがそうさせるのか、公園にたどり着いた時の全能感が尾を引き、そうさせるのかは分からないけれど、跳べることを確信した。

 次の瞬間には私は行動に出ていた。デッキの柵へと身を乗り出し、息を深く吸い、そして吐いた。どこかで誰かから聞いた言葉が私の中のどこかで木霊した。

「今ならまだ間に合うから、引き返そうよ。」

 けれどやはり、その言葉は私を止めることはできなかった。もう一度深く呼吸した。鼓動が速くなる。あと13回、その音が聞こえたら、私は飛ぶ。

 1。2。3。

 次第にその時が近づいてくる。時が経つにつれ、速くなっていく鼓動の中で、通常時ではありえないくらいの量のことをあり得ないぐらいの速さで思考した。その思考のどれにも意味はなくて、ただの飾りなんだと悟った瞬間には、その時が間近に迫っていた。

 13の音が鳴った瞬間、私は思い切り、冷え切った大気へと繰り出した。

「ッッッッッアアアアアアアァァアァアアアァアア!!」

 考えるでもなく、声にならない叫び声が私の喉を通過した。声たちは私の喉を焼き切り、口腔を引き裂くかのようにあふれ出し、空へ舞った。身体を包む窒素、酸素、二酸化炭素諸々は私の服の隙間や指の間を通り抜け、散っていった。

 そして、数秒の静寂が私の元を訪れた。目に浮かぶ景色の一切は固まり、音は止み、空気は凪ぎ、全てが静止した。暖かな何かが私を包み、解き、ほぐした。

 次の瞬間、私は重力から解放された。私を縛り付けるものは一切なくなり、自由の身となった。初めて夜に家を出たとき、ありとあらゆるしがらみから解放されたと思った。けれど、そんなことは何でもなかったことに今やっと気づいた。本当の自由というのは今一瞬、この時のことを言うのだと確信した。

 身体のコントロールは上手く行えなかった。初めての感覚だからか、どこをどう動かせばどのようになるのか、全く分からず、ただ、成り行きに身を任せた。360度全てを一望でき、眼前には夜の街が、下を見ればもう一生辿り着くことはない地面が、上を見れば煌々ときらめく星たちが、私の解放を祝福していた。それを全身で感じながら、ゆっくりとスクロールするかのように流れる景色の中を、私は泳ぐ。

 そういえば、もうすぐクリスマスだ。街に目を凝らせば中心街には大きなモミの木が我が物顔で立っており、主役となるその日を今か今かと待っている。聖夜には星が煌めき、瞬き、老若男女関係なく、ありとあらゆる人々の願いを聞き届け、幸せを授ける。それを思い出した私は、真上に輝く星たちに、ささやかな願いを託した。ただ、私自身のために願った。私という人間がこれから進む道に少しでも多くの幸せと、少しでも多くの喜びと、少しの哀しみがありますように。

 大きな音が響いた。ぐしゃりと、何かが潰れる音がした。それが何を意味する音なのか、理解するまでには時間がかかった。今さっきまでの暖かく、ふわふわとした感覚とは一転、寒く、体は思い。共通するのは、思うように体が動かないことだけであった。目も見えず、四肢も動かず、声も上げられず、呼吸もできず、何をしていいのか分からなかない。ただ、冷ややかで、緩やかな時だけが私と共にある。やっと気が付いた。私は、落下したのだ。

 多分、最初から飛んでなどいなかったのだ。浮いた気がしたのは気のせいで、温かく感じたのも気のせいだったのだろう。止まった時間なんてなくて、ゆっくりと景色が流れたのは、死に瀕すると時間がゆっくり流れるというあれだろう。響いた音は私が地面に叩きつけられた音で、その後にした気持ちの悪い、耳障りな音はたぶん、私の骨がひしゃげ、筋肉がちぎれ、身体がもげた音だ。死ぬ寸前、最後に残るのは聴覚だと聞いた事がある。それを知っていたからかは知らないけれど、確かに聴覚は残っていた。

 さっきまで急いで鳴ってていた鼓動はその役目を終えたかのようにゆっくりと、ゆっくりと、その感覚を広げていった。痛みはもうない。身体が動かず、どっと疲れがたまったような感覚がする。

 だんだん、音が遠のいてきた。騒ぎ声は全くしないし、周りには誰もいないのだろう。騒ぎになったら面倒だから、このまま誰も来ないといいな。

 音がしなくなった。これで今日の旅は終わった。それと同時に、私という人間の旅もここで潰えた。やりたいことはまだたくさんあったけれど、もうそれもかなわないのだと思うと、少し寂しかった。でも今は、この滑らかな時間に身を任せようと思う。

 何も感じなくなった。今こうして思考できていることは何なのだろう。脳は多分、道にぶちまけられているだろうから、考えることはできないはずだ。でも、そんなことはどうでもいい。紆余曲折あったが、これでやっと自由になったのだ。今はもう少しこのよく分からない、けれど、幸せな時間を謳歌しようと思う。

 そうして私は、ゆっくりと、鮮やかに、この世界へ溶けていった。


 目が覚めた。体は少し重い。時計を見ると、24時に近かった。

(学校終わってから疲れて寝ちゃったのか)

 部屋で一人の私はそんなことを思った。

(明日の予習は学校で済ませたし、もうやることもないか。と、なると・・・)

 私は服を着替え、外に出る用意をした。適当に箪笥から服を引っ張り出し、身に付けた。

(今日はどこに行こうかな)

 最近の私には、夜中にやることがある。毎日ではないけれど、こうして夜中に気が向いた時にだけ、私は外出する。

(中学校は少し前に行ったし、ピアノ教室にもこの前行ったっけ)

 外出と言っても何かするわけでもなく、毎回目的地を定めて、そこに行って帰ってくるだけではある。ただそれだけなのに、私はそれがやめられなかった。

(んー。そうだ、坂の上の公園にしよっと)

 目的地には理由があるわけではない。毎回、思いついたところに適当に足を運ぶ。

(すぐ帰ってくるし、携帯はいいかな)

 荷物なども特にはなく、準備することもない。そうして私は部屋を出て、階段を下りた。家族は寝ているから、起こさないようにそっと歩いた。

(見つかったら怒られちゃうもんね)

 私は高校生である。そんな年齢の子どもがこんな時間に外を出ていくことは、常識的に考えれば危なく、易々と見逃せるものでもない。故に、家族には見つからないように、玄関へと向かった。

 お気に入りのスニーカーを履き、靴紐を結ぶ。学校にはいていく方ではない、少し派手目の方を履くのが、この旅をより楽しいものとするためのちょっとしたコツだったりする。

(家の鍵は持ったね)

 音がしないよう、ゆっくりとドアを開けた。

「行ってきます。」

 外に出る時、誰に言うでもなく、多分私に向かって、小声でそう告げた。そして、気付かれないよう静かに、玄関のドアを閉じた。

 玄関のドアを閉じ、鍵穴へと家の鍵を差し込んだ。差し込むとき、鍵の先で、大気と一緒に日常の自分を鍵穴の中に押し込んだような気がしたけれど、それはたぶん気のせい。鍵をひねれば当然、「カチャッ」と音が鳴って鍵が閉まった。その音が日常と非日常を切り替えるスイッチのように聞こえ、普段の私とそうじゃない私が入れ替わったように錯覚したけれど、それも多分気のせいだろう。

 

 時刻は24時過ぎ。11月の半ばともなると寒さは少し厳しくなり、薄着だと身じろぎしてしまうぐらいには、外の空気は冷たかった。

 僕はただ一人、公園のベンチに腰掛け、眼下に広がる夜景を眺めていた。

 こんな時間に、高校生である僕が、こんな場所に一人でいることに、理由なんてものは特にない。ただ、気が向いてここに来ただけだ。今日は全く眠れず、ベッドの上にてもただ退屈だった僕は、何となく、家を出てきた。夜中に家を出るなんてのは今回が初めてで、家を出た瞬間こそドキドキしたけれど、少し時間が経ってしまえば、昼と何も違わないことに気が付いて、結局普通に歩いていた。そうして歩いているうちにここにたどり着き、少し疲れたからベンチに腰掛け、今に至る。

(寒いし、そろそろ帰ろうかなぁ)

 昼でさえ少し寒いため、夜中になってしまえばその寒さは留まることを知らず、辺りはより一層冷え込んでいた。こんな寒い中、何もせずにいるのは少ししんどい。結構歩いたし、家に帰る頃には疲れてるだろうから、そろそろ帰ろうと思った。

 そこへ、一人の女の子がやってきた。少女は全身白い服に身を包んでいて、見るだけで少し、寒そうだった。風貌を見るにおそらく、僕と同い年ぐらいだと思う。こんな時間に人が来るなんて考えもせず、ましてや同い年ぐらいの誰かと会うなんて思いもしなかった僕は驚いてしまい、彼女と会った目を逸らすことができなかった。

(何か、話しかけた方が良いのかな)

 そう思ったけれど、彼女は展望台の方へと向かっていってしまったため、その思惑が実行されることはなかった。

(何だったんだろう)

 見たことがない人だったから多分、自分とは違う高校の人なのだろうか。そんなことを考えながら、展望台の方を見やる。少女は目を輝かせ、夜景を見ていた。あそこから見える景色はここから眺める景色とは違うのだろうか。そんな疑問を持った僕は、展望台へと足を進めた。夜景に惹かれたのか、少女に惹かれたのかは分からないけれど、なんにせよ僕は、展望台の方へと向かったのである。展望台へと向かう途中、彼女が柵へ手をかけるのを見た。身を乗り出して見てしまうほど、綺麗な夜景なのだろうか。興味がわいた僕は少し足早に、彼女の元へと向かった。しかし、次の瞬間、彼女は策を飛び越え、その奥へと飛んだ。

「へ?」

 思わず、頓狂な声が出た。展望台の柵を飛び越えた先にはすぐ下に地面があるわけでもなく、絶壁だ。地面までの距離は数十メートルあり、綺麗に着地するなんて体操選手でも厳しい。何が起こったか理解できなかった僕は一瞬固まった後、事の重大さに気付き、急いで駆け寄った。駆け寄る相手はもうそこにはいないのに。

 下を見やると、少女がいた。小さくて見にくいけれど、先ほどまでとは違う姿、形になっていることは明確であった。この距離を落下して耐えられるほど、人類の体は頑丈ではない。有体に言えば、人の形を崩していた。目測だが、腕は変な方向に曲がり、ぬらぬらとした赤い液体を街灯が照らしているのが何となくわかった。僕は唖然として、しばらく何もできなかった。

 思考が戻ってきて、僕は不可解な点に気付く。通行人が、誰も何も言わないのだ。まばらではあるが、人通りがかすかに確認できる。しかし、そこを通った彼らは特に何もせず、そこを素通りしていく。人が死んでいるというのに。

 全く理解できなかった。少女がそこで倒れ、死んでいるというのに、通行人は少女がまるでそこにいないかのように、通り過ぎていく。あり得るはずのないその光景を、僕は何もできず見ていた。

 しばらくして、冷静になった僕は誰か助けを呼ぼうと思った。警察か、救急か。もう手遅れであることは分かっていたが、呼ばずにはいられなかった。スマホを取り出し、助けを呼ぼうとした次の瞬間、僕は更に信じられない光景を目にした。

 少女が、ゆっくりと立ち上がったのである。

 少女は立ち上がり、何事もなかったかのようにゆっくりと歩き出した。少女をよく見れば、先ほどまで崩れていた人の形は再生し、何事もなかったかのように、人の形を保っていた。真っ赤に染まった服は嘘みたいに白くなり、出会った時の状態に戻っていた。

 そこから僕は、恐くなって逃げた。全速力で走り、家に帰った。そして布団の中でただ震えながら、眠ることもできず、夜を明かした。この日のことを何度も忘れようとしたけれど、網膜に刻まれ、脳裏に焼き付いたあの光景は、それを許さなかった。

 

 しばらくして、僕は再び、夜にあの公園に向かった。あれは全て夢だったんじゃないか、そう期待しながら、行ったところでどうしようもないのに、公園へと向かった。あの日と同じく、ベンチに腰掛け、ただ時間が過ぎていくのを感じた。

 すると、そこに少女が現れた。少女は真っ白な服を着ていて、僕と同い年ぐらいであった。確認するまでもなく、あの時の少女であることが分かった。

 驚きで言葉が出なかった。

「君、なんで!?」

 そんな訳の分からないことを思わず口走った。

「あの時、飛び降りたよね!?」

 少女の目はこちらを向いているが、訳も分からないという感じでこちらを一瞥しただけで、僕の前を横切っていった。

 もう何がなんだかよくわからない僕は、ただ立ち尽くすしかなかった。そして、なぜか少女が何をするか分かっているかのように、彼女の行く末をただ見た。

 こんな予想はずれてほしかったけれど、僕の予想通り、少女は再び、展望台から飛び降りた。そしてやはり、飛び降りた先で崩れていた。そこを通りかかった人々は、誰もそれに気が付くことはなく、素通りしていった。そして、少女は立ち上がり、歩いて行った。

 それから僕は、夜中にあの公園に行くことが日課になった。何をするでもない。ただベンチに座り、街を眺める。すると、少女がやってきて、目が合う。少女は展望台へと足を進め、景色に見入り、やがて飛び降りる。それには誰も気が付かず、少女は次第に立ち上がり、歩いていく。僕はただそれを見ていた。

 いつからか、あることに気が付いた。公園で会うその少女は、いつも同じ格好、同じ時間にやってくる。そしていつも同じ行動を繰り返す。しかし、一つだけ、常に変わり続けているものがあった。それは、目があった時の印象である。

 別に見た目が変化しているわけではないし、反応が違うわけでもない。いつも必ず、目が合い、何も言わず去っていくだけである。しかし、なぜかその仕草ひとつに、違いがあることは明確であった。毎回目が合う度、全く別の人が来たのではないかと思ってしまうほど、彼女から受ける印象は変わり続けた。

 僕は僕なりに、この行動の意味を考え続けた。彼女はなぜ、死に続けるのか。それを考えることが、最初に彼女にあった時、彼女のことを止められなかった僕に与えられた使命のように感じた。しかし、そんなことはなかった。

 あれこれ考えるうちに、様々な方法で、彼女を止めようとした。しかし、幾度となく、どんな方法を試したとしても、彼女の行動が変わることは一つもなかった。何か少しでも変化があれば希望を持つことができたのだが、何をしたって、彼女は一貫して、同じ行動をとり続けた。

 いつしか僕は、考えることすらやめ、ただ彼女に会いに行くだけになった。彼女に合いに行き、彼女の死を見届け、彼女の再生を確認し、家に帰る。それだけするようになった。


 12月も半ばになり、クリスマスが近づいてきた。気温はさらに低くなり、夜中の寒さは厳しさを増した。僕は今日もベンチに座り、街の夜景を眺める。すると、そこへ少女がやってきた。少女は全身白い服に身を包んでおり、見るだけで寒くなった。

 少女と目が合った。少女はこちらを見て驚いたような目をしていた。しかし、僕は驚くことがなかった。君と会うのはもう何度目かは分からない。君はこれからそこの展望台に向かい、夜景を楽しんだ後、そこから飛び降り、自殺を図る。彼女の行く末をすでに知っているにもかかわらず、それをどうすることもできない僕は、彼女にどんな目を向けたらいいか分からず、ただひたすらに、彼女の目を見つめることしかできなかった。

 少女が僕の目の前を通り過ぎた。僕は再び、街へと視線を戻し、夜景を眺めた。しばらく眺めて、彼女が飛び降りたのが、遠目で分かった。展望台へと向かい、彼女が死んだことを確認し、彼女が再生したのを見届けた。

 僕はどうすればいいのだろうか。何を試しても無駄だった。ここに来るのをやめてしまえばいいのだろうけれど、それは、なぜかできなかった。

 彼女は多分、自分を殺し続けている。自分の中に生まれた新しい自分を、一度は享受し、気持ち悪くなって、身を投げ出して、殺すことで否定する。こんな想像に意味はないけれど、僕はそう思った。彼女がいつか、ありのままの自分を受け入れ、日々変わっていく自分と向き合い、それを許すことができることができれば良いと思う。

 

 今日も少女がやってきた。今日の少女の目は少し明るく、希望に満ちているかのような目をしていた。彼女のこれから歩み道が、少しでもいいものになればいいと思った。 

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