片道2640円

@RinMC1593

第1話

私には今は思い出せない夢があった。


私の人生の扉に鍵をかけて、私を価値観という檻に閉じ込めて18年収監するこの世界が嫌いだ。


私の表現のメガホンに布をかぶせて、規律という言語でそれを上塗りするこの世界が嫌いだ。


でも、文明の結晶たる手のひらより少し大きい板を通して心を通わせられる世界だから、まだ捨てた物では無いと思っている。


雪を被った看板を揺らして、雪を落とす。

“Oveja cafe”

幾度か通ったことのある近所のカフェも、雪景色の中では見分けがつかなかった。


彼女は、日常に惑わされていることを悟り、財布を揺らした後、何も言わずその場を去っていった。


「北に行けば…あるはず」


この雪が積もらない所。高度に高架化された鉄道または道路の下。いつも通らない公園は、やけに大きく、深く目に映る。



新幹線の音も、雪を歩くために神経を張り詰めていれば聞こえない。なんの問題もない。

“少なくとも”このまま市街地まで雪を避けて歩くことは出来るだろう。


「どこまで行けばいいの…」


Googleマップに目を落とす。関東圏の南から北まで、少ない所持金でたどり着くルートは無いのだろうか。

いや、無ければここで前に進むことは出来ない。


“検索結果は見つかりませんでした”


十数文字の文字列が、その“意味”で武装して彼女の心臓を引き裂く。まだ成人していないから、車など使えない。

タクシーを使えば、もはや県を出ることは不可能だろう。では、自転車は…持っていない。


“徒歩”


持ち金を食いつなぐことにしか使えない。この辛さを改めて感じて泣き崩れる。


『本当に来るの?』


スマートフォンの通知音と共に、画面に表示された文字列。

これもまた“意味”で彼女を前に進ませた。


「もちろん…行けなければそこで死ぬ」


『えぇ』



狂ったように揺れる道の並木も、雪の重みで重低音を鳴らし始める。高架下は雪が積もっていないから、ここらで腹ごしらえをしよう。

家から持ち出した兄のバックパック。正確に言うと、私に預けられていた物。その中には、ありったけの食べ物と、家からかきあつめたモバイルバッテリーが入っていた。


「インスタントラーメン…」


袋を取り出した。バカバカしいヒヨコがこちらを見ている。


「お湯…」


あるはずがない。袋を乱雑に引きちぎると、煎餅でも齧るように乱雑に食べ始める。


袋は近所の適当なゴミ箱に捨てた。


「どうせもう来ないし…」


バックパックの中身が1つ減っても、華奢な体には重くのしかかる。寒さで歯が絶妙なリズムを刻んで先を急ごうと訴えかけた。

恐ろしいほど誰もいない高架下を、ただただ、何も考えずに歩いて行く。



通知音が鳴る


『いまどこにいるの?』


「歩いてるけど」


『だからどこって聞いてるんだよ』


「でも君静岡でしょ?私は今急いでるの」


『いや、新横浜にいる。』


風が止んだ。

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