描写ってなに?
ホラーやファンタジーを書く時、いつもレーティング表示に迷う私です。こんにちは。
実際、描写というものが、どこまでが「描写」と言うべきなのかいつも考えています。
特にエロとグロの二大分野において。
まずはカクヨムさんのレギュレーション(表現についてご留意いただきたいこと)にはこうあります。
・表現・描写などにより著しく性欲を刺激するもの
・暴力的又は陰惨な画像・表現・描写などにより興味本位に暴力行為又は残虐性を喚起・助長するもの
・自殺を誘発・助長・ほう助するもの
・犯罪行為及び刑罰法令に抵触する行為又は誘引・助長・ほう助するもの
・他者に対する差別表現、権利を侵害する行為
大切なことだと思います。
特に価値観は人それぞれで、自分が大丈夫でもそうじゃない人は当然居るわけですから。
それでも、物語の進行上、どうしても発生する事実にエロとかグロとかにカテゴライズされる事柄というのは発生します。ホラーやファンタジーでは特に。
もちろん書かないという選択肢はあります。うまく表現を駆使して意味怖的に直接表現を避けるという手も。
ただ、その手段が物語の一部として相応しいかどうかということまで考えると、絶対に書かないというわけにもいきません。
なので今回は「書く」という方向性について、書いてみたいと思います。
私が気にしているのは、どのくらいの粒度ならば描写たりえるのか、ということです。
例えば、民話に「馬方と山姥」という物語があります。
馬方が大根を山ほど馬に積んで山を越えている途中、山姥に声をかけられます。山姥が大根を所望し、馬方は大根を一つ山姥へ手渡します。山姥はそれをすぐに食べきり、もっとよこせと言ってきます。馬方は仕方なく一つずつ大根を手渡すが、山姥はすぐに食べきってしまいます。とうとう山姥は「馬の足を一本くれ」と言い出します。生命の危険を感じていた馬方は、馬の足を一本渡して馬と一緒に逃げますが、馬の足を食べきった山姥はすぐに追いかけてきて、もう一本よこせといいます。馬方はもう一本渡し……最終的には馬を置いて逃げ出します。
ここから馬方がとある小屋に隠れ、山姥に復讐するターンになるわけですが、私が着目したのは、馬の足を一本渡すシーンです。
民話ですので多くのバージョンがあり、中には馬をまるごと渡した、とするバージョンもありますが、私が最初に出会ったのは馬の足を一本ずつ渡すバージョンです。
これ、リアルに想像するとけっこうな
馬の足をどうやって切り落としたのか。それは山姥が千切ったのか、それとも馬方が持つ山刀のようなもので切り落としたのか。しかも馬はしばらくは三本足で馬方と一緒に逃げています。少しでも文字数を費やせば簡単に「残酷描写シーン」になってしまうかと思われます。
しかし、民話では「馬の足を一本渡して」という極めて描写のない、事実だけの記述をしています。表現が記号的・数学的なんですよね。「4馬足-1馬足」みたいな感じです。
この些末を省いて事実だけ記載した表現については、私は描写だとは思っていませんし、セルフレーティングもチェックする必要はないと考えています。
ただそれは私がそう考えている、というだけで、世の中の平均値はどうだろうというのが私の悩みです。
これ重要。私がそう思っていても、世間様に違うと言われたら違うんです。レーティングってそういうものじゃないですか。それを苦手な人が事前に避けられるようにっていう。アレルギー物質を事前に明記するような。
でもね。アレルギーとかなら入っているか入ってないかはっきりと分かれるものですが、表現ってのはどうにも曖昧な部分が残っちゃうと思うんです。
例えば、「踏みつけられた」という描写について、そういう趣味の方からしたらドストライクなエロシーンなわけですよ。でも、この程度で「性描写有り」のセルフレーティングって恐らくしないと思いますし、しないままでも通報されないと思うんですよ。
小学生の高学年くらいになると、辞書にエロい単語を見つけるだけで興奮する子とかいました。そういう子にとっては、もう何でもかんでもエロく感じられてしまう恐れだってあります。「子供が生まれた」という表現から「子供を作るようなことをしたんだ」と興奮する人も居るでしょうし。
なんでこんなに警戒するかというと、腐った友人たちが少なくないからです。
あいつら、名人の落語の三題噺みたいに、二つのナニカを渡すだけでそこにカップリングとストーリーを思いつきやがるんですよ。珈琲のカップとソーサーだけでももう十分にエロいんです。あいつらにとっちゃエロ過ぎるんです。
とかいうことが周囲にあったら、ダメじゃないですか。世の中の物語全てに「性描写有り」のセルフレーティングつけないとダメダメじゃないですか。
という具合なので、どこで線引きすればいいのかわからなくなってるんです。
一応、現時点での自分の中での線引きは、直接の表現じゃなければOKということにしています。
大友克洋先生の『童夢』に、「真っ赤なトマトになっちゃいな」という表現があります。これは高所から人を落とすときに使われており、それについては死体的な直接表現はありません。
当時小六だった私は、すごくお洒落だなって感じたんですよね(小六の誕生日プレゼントとして友人にいただいたのでした)。
話がちょっと逸れましたが、隠喩は芸術だと思っています。
他にも「匂わせ」というテクニックもあります。
例えば「お母さんがお父さんの料理を作りました」という文章。
いろんな解釈ができます。
お父さんの得意料理とか郷土料理とか、まあ私の場合、真っ先に思いつくのはお父さんが材料っていう思考なんですけれどね。
こういった文章は、前後の文章にそれとなく方向性を加えるだけで、匂わせ範囲を限定的に構成できます。上記の場合、「その後、お父さんはずっと行方不明のままです」みたいな。
料理ってリアルに考えると相当なスプラッタですが、これも残酷描写とは違うと考えています。読み手の解釈次第で話が変わってしまうものは。
描写は文章では行わず、読み手の中で想像するための環境を整えるだけ。読む人によっては読み手の中に描写が湧き上がる。
ただまあ、この手法って、あくまでもある程度共通の前提を共有できる読み手に対してのみ通じるものであり、普遍的ではないんですよね。普通の人は、海の近くで「引きずるような飛び跳ねるような足音」がしたくらいでその表現の先に眠る存在に怯えてくれたりはしてくれませんから。
どこまでがセーフで、どこからがアウトなのか。そして世の中の平均値がどこにあるのか。難しい問題です。
冒険の書 だんぞう @panda_bancho
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