ふぅの鈴の音

とがわ

ふぅの鈴の音

 ある日、ふうから言葉がなくなった。

 言葉がなくなった、といってもすっかり言葉を忘れたのではない。声をなくした、というべきか。喋ることばかりしていた楓は突然ぱたりと言葉を出さなくなった。

 これには周囲も驚いた。原因を、クラスメートも家族も、知らなかった。

 最初はそういう遊びをしているのか、もしくは何か気に入らないことがあって口を閉ざしているのだろうと、片や優しく声を掛け、片やそっとしておいた。しかし三日経っても誰ひとりとして楓の声を聞いた者は現れない。

「どうして話してくれないの?」

 楓と仲のいいさいは、心配して声を掛け続けていた。

「何か病気とか? 突然すぎてわかんないよ……」

 楓自身はなにも突然の出来事ではなかった。前から募っていた感情が彼女をそうさせていた。

 気にしてくれていたクラスメートも段々興味を示さなくなり、次第にからかいの声や陰口も飛び交うようになった。

 楓は気にする素振りすらない。

「おはよう楓」

 それでも彩だけは声を掛け続けた。

 親は楓がそうなった事実を昨日、学校から連絡をもらってようやくしった。親は共働きで楓と話をする機会など元からないようなものだった。

 父は人に迷惑をかけるなと一喝するだけで、楓を心配することはなかった。周囲から向けられる視線だけを気にして生きるタイプの親と、楓は正反対だった。それが駄目なことはない。周囲の視線を気にすることもまた、生きるには必要なことだ。しかし。いや、楓もそうだったからこそ言葉を失くした。


 楓には言葉があった。おしゃべりが好きな元気な女の子だった。友達と喧嘩もしない、奔放な親を恨むこともない、笑顔の絶えない女の子。

 それは単に周囲からみた楓の評価に過ぎなかった。

 言葉が好きだった。言葉で誰かを幸せに彩れることも、刃と化すことも知っていた。毎日、ぐさり、ぐさりと自ら身体に傷をつけていた。

 誰かへと向けた陰口、妬み、褒める裏側に潜む蔑み、それを向けられた誰かの存在。何かを貶して一方を上げる。一方を褒めればどこかで何かが貶される。

 楓は、そんな言葉の裏側に潜むものに恐怖していた。気にしすぎかもしれない。もっと素直に受け取ればいいものを、気づいてしまったせいで意識は鋭く向いていく。

 募り続けた歪んだ思いと言葉のちくちくに辟易した。

「もう、こんなの要らない。嫌いだよ」

 言葉を失くす前に音にした言葉。楓の願いは叶った。


 最初少なからず不便だとは思ったが、自分の言葉で誰かが傷つくことはなくなるのだと、清々しい気分でもあった。四日後の今日を最後に一学期が終わるのは運が良かった。楓はホッとしたが、しかし彩はそうではなかった。

「楓! 夏祭り、いこうね?」

 放課後、帰ろうとする楓の袖を掴みながら彩はいった。

 楓は頭を振って拒否した。言葉の話せない自分と行ったところで彩は楽しめないと分かっていたからだ。しかし彩は引き下がらない。

「約束してたじゃん」

 責めるではないが、寂しさを含ませた表情とその言葉に二度目の拒否はできなかった。が、楓の頭が縦に振ることもなかった。


 その日の夜、暗くなった部屋には月灯りが差し込んでいた。その光景に心を奪われ、カーテンを開ける。

 まん丸の月から放たれる光が夜を照らしている。

 楓は彩と約束した日のことを思い出していた。

 夏になったらお祭りに行こうと、他愛ない会話の中で約束をした。紙にサインをしたわけではない。証拠や形として残らない、言葉上の約束。ただの口約束だがされど。

 ちりん、と鈴の音が響く。

 瞬きをしたほんの一瞬。ベランダの手すりに白猫が佇んでいた。驚いて後ずさりするが言葉はない。

 白猫はじっと楓の目を捉えて離さない。この生きものはただの猫ではないと直感した。

「あけて」

 声がした。女の声だ。言葉と共に猫の口が動いていた。

 楓は恐怖よりも不思議に思って行動に移せずにいた。

「あけて」

 今度は少し強めの言葉。楓は窓を開けた。瞬間白猫は部屋の中へ飛び降りた。まるでそよ風のように軽く。

 窓をしめ、白猫に視線を戻す。白い毛に、月灯りが反射してキラキラとまばゆい。背に月を背負う白猫と、対峙する。

 せっかく言葉の通じる猫が目の前にいても言葉を失った楓とは意思疎通ができない。

「驚いてる?」

 楓は混乱しつつも、二度も頷いた。

「そうだよね~」

 白猫はふふふと楽しそうに言葉を零す。白猫の首についている鈴を見て、飼い猫だろうかと考えていると白猫はまた話し出した。

「あ、飼い猫じゃないよ。まあ仕えてるんだけどね。これ、可愛いでしょ?」

 自慢げに鈴を鳴らすので楓は確かに可愛いと思い頷いてみた。

「ふふ。この声も良い感じ?」

 それに関してはとてもいい、とも思わなかった。

 曖昧に首を傾げていると白猫は笑った。

「これ、キミの声だよ」

 楓は目を丸くした。

「ボクはふぅって名前。キミの名前と一緒みたいだね。鈴が反応したのはそのせいみたい。だから、キミに興味を持った。前から人間の言葉に憧れていたんだ。キミは要らないみたいだからもらってあげた」

 ふぅという名前の白猫はいい仕事をしたとでもいうように満足気に話をした。楓の言葉が、願った翌日になくなったのはふぅの仕業だったらしい。

 楓はとうぜん面食らっていた。

 ずっと、言葉というものに辟易していた。言葉がなければ無駄に傷つくことも、傷つけることもないと思っていた。だから願った。言葉で言葉が嫌いだと言った。言葉で、言葉は要らないと願った。

「ボクは一応オスだから、この声高いなっておもうけど、でもいい声だ。気に入ってるんだ」

 ふぅは実に嬉しそうに話をした。かつての自分もこんな風に話をしていたのだろうかと楓は感じた。胸の奥が切なくなる。そんな感覚に楓は嫌悪した。

「言葉を話せる猫友って、意外と少ないんだよ。人間とも話してみたいんだけどまだ勇気がでない。だからさ、キミの友達を紹介してよ」

 楓は頭を振った。紹介できるような友人はひとりもいない。

 それでもふぅは頑固だった。結局ふぅを追い出すこともできずふたりは同じベッドで夜を明かした。



 学校はしばらく休みだからと起きたのは昼過ぎだった。当然親は家におらず、リビングにはメッセージと夕食代が一枚置かれているだけだ。

「わ! これがお金か! 薄っぺらいな」

 ふぅは強靭な足で、楓の腰あたりまである机の上に飛びあがっていた。

「えーと、なんとかはなんとかにあります? これが漢字ってやつ? さすがに読めないなぁ」

 楓は言葉がないから結果的に無視という形になるものの、言葉のせいにして無視を貫けることを有難くも思った。

 冷蔵庫の中には、昨夜揚げてくれたのであろうコロッケが入っていた。忙しい母なりの優しさだった。本当は揚げたてを食べたいとはとても言えない。本当は一緒に食べたいなど、とても言えない。そんな感情ばかりがふつふつと沸き上がってくることにやるせなくなる。

「キミのごはんはこんな冷たいのか?」

 ぐさりと、刺さる。楓は冷たいコロッケを電子レンジで温めた。

「お~! あったかい」

 休日もさほど親のルーティンは変わらない。楓にとって出来立てのご飯を家で食べた記憶など、遠いものだった。

 夜になって、ふぅは更に饒舌になっていた。昨夜から何も食べてない、食べたいなどと駄々をこね、楓を困らせた。夕飯の用意がない楓たちは置かれていた紙幣を持ってスーパーへと向かった。


 四日が経ってもふぅは楓の傍をつき纏っていた。ふぅにもわかったことがあった。

 楓の親にとって一番大切なのは楓ではないのだろうということ。楓が言葉を失っても悲しそうではないこと。それなのに、言葉と共に笑顔をも失ったのだということ。そしてこの世界が、嫌いなこと。

「楓はかわいそうな人間だね」

 ふぅがそう言った時、楓の手は一瞬動きをとめた。まずいことをいっただろうかとふぅはすぐに謝った。

 自分が言葉を失えば傷つけなくて済むのに、言葉が傍にあれば自分が傷ついていくのだと、楓は余計に苦しんだ。



 夜ご飯を買いに行くことは毎晩のルーティンだった。

 ある夜、ふぅは地域の掲示板に綺麗に彩る写真と、〝まつり〟という文字を見つけた。

「楓! まつりだって! ママたち誘ってみたら?」

 まつり、という言葉を聞いた楓は彩のことを思い出していた。足をとめ、掲示板に貼られたそのポスターをじっと見る。開催日時は明後日だった。最後に彩からもらったメールには、『お祭り、私は行くよ。暇だったら来てね』とあった。

「楓?」

 忙しい親を誘う気は毛頭ない。しかし。

 スーパーから帰ると、楓の様子は少しばかり変化していた。言葉や世界に対しての思いは変わらないようだが妙に落ち着きがない。ふぅのおしゃべりに目もくれずにスマホばかりを見ていた。言葉は喋らずとも、たまに耳を傾けてくれていた楓の態度が消え気に食わずスマホの中身を覗いた。

 ふぅには読めない文字ばかりだった。

 翌日も楓はぼうっとしていた。言葉を失ってから行動を起こそうとしないのは変わりないが、別の何かに気を取られているようであった。

「ねぇ楓、どこかに行かない?」

 ふぅは暇になり楓を外出に誘った。どこにも行きたくないというよりはどこに行くのだという目をしている。

「散歩、しようよ。綺麗なところ連れてってあげる」

 いつまでも考えが堂々巡りをして決断などできないのだから、たまには出掛けるのもいいかと思い、昼食を終えると楓たちは外にでた。天気はさほど良くもないが夏としては過ごしやすい気温だ。

「ほら、明るいと元気になれるよ!」

 ふぅが楓を元気づけようとしているのを、楓はようやく気がついた。

 楓と出逢った頃、人間と話してみたいと言っていたふぅは今も人間が近くにいる所では言葉を発さなかった。楓が異例なだけで、恐らく他人からはふぅのような存在は煙たがられる。本来あるべき姿ではないのだ、ふぅは。

 大きな公園に差しかかった。遊具などがあるわけではなく、芝生が一面に茂りベンチがぽつぽつとあるだけの広場だが、人はここをよく歩くしよく屯う。楓も彩とよくここで駄弁っていた。

 広い分、人との距離は遠く、ふぅは柔らかく言葉を零した。

「ここはいつきても気持ちいいね。そうそう、ここボクの住処に似てるんだ」

 ふぅに住処があるのかと楓は思った。興味を示したのを察したふぅは話を続ける。

「賑やかではないけれど、ほのぼのとしてていいところなんだ。今度、ボクの住処においでよ!」

 楓はそれもいいなと小さく頷いた。

 吹く風は心地いい。夏特有の、重たくじめついた風ではない。ぬるいとも違う。柔らかく頬を撫でる穏やかな風。ふぅの白い毛並みがふわりと逆撫でされる。

 楓は初めて、ふぅの身体に触れた。ふわふわとした毛、しかしじんわりと伝うぬくもりに心を奪われる。ふぅにはその心が伝った。しかしそんなことよりも、撫でられ心地よく、鳴いた。

「あれ、楓じゃん?」

 穏やかな時間が壊される瞬間。ふぅに伝っていた優しい楓の心が一瞬にして張り詰めた。手が離れていく。

 楓に話しかけてきたのは別クラスの二人組の女の子だった。

「何してんの。喋れるようになった?」

 その言葉は、決して心配を含んだものではなかった。揶揄する言葉。楓に降りかかる刃。

「あーんなうるさいくらい喋ってたのにだんまりとかウケるな」

「いい加減話しなよ。そういう態度取られる身にもなりな?」

 ぎゃははと可愛げのない笑いをしながら彼女らは去っていった。ふぅは、楓に降りかかる刃を初めて目の当たりにした。言葉がないと楓は馬鹿にされるのだろうか。楓に、自ら触れてみる。

 楓の言葉をもらったからか、楓に触れると楓の思いが流れ込んでくる。楓は悲しんでいた。悔しんでいた。怒っていた。そして、安堵していた。

「楓、だいじょうぶ?」

 楓は泣いていた。

 別のクラスで、ほとんど楓と関りのない人にまで喋らなくなった事実が広がっていたことに呆れていた。言葉があるから噂は広がって、言葉があるから誰かを罵れる。傷ついていた。しかし、楓も知らず知らずのうちに誰かを傷つけていたんだろうと、それならば誰も気に留めなくなるまで耐え続けるべきだと考えていた。

「楓……」

 唯一常に傍にいてくれるふぅ。自分の声。自分で自分を励ましているようで可笑しい。

「せっかくだから、ボクの住処いかない?」

 こんな世界、嫌いだ。流れ込んでくる楓の鋭い痛み。ふぅはそんな世界から連れ出したい一心だった。

 ふぅは楓を連れて歩き出した。行ったことのない路地裏に迷い込む猫、という光景。建物と建物の、狭い空間をふぅは進んでいく。楓は置いていかれないようついていく。ちりんと優しい音を奏でる鈴をつける、白い毛のふぅを、追う。

「ついたよ」

 そこは、彩から誘われている祭りの会場の神社だと楓はすぐにわかった。

「静かでいいところでしょう?」

 木々にへばりついているのであろう蝉の音がうるさいほどで、静かとは遠いがひとけのないという意味では心落ち着く場所だった。

 しかしなぜここが住処なのだろうと疑問に思う楓を見兼ねて、階段で少しあがった先にある賽銭箱の前にふぅが座ったと思えば話を始めた。

「ここには猫の神様が祀られているんだ。ボクは、その神様に仕えてる。しもべはボクだけじゃないけどね」

 話の途中で、ちりん、と音が響いた。ふぅの鈴と音が違うことを感じ取る。

「あ、ニック!」

 ふぅがそう呼んだ先に黒猫がいた。その猫の首には、ふぅと同じ鈴がついていた。

 ふぅとその黒猫は、人間の言葉ではないが何か意思疎通を始めた。時折楓に視線が向く。

 しばらくして話がひと段落したようで、ふぅから言葉が零れる。

「こいつはニック。しもべの一匹だよ。人間の言葉はない」

 楓はそうかと頷きながら聞いた。

「夜になると暇なしもべはここに戻ってくるんだ。神様のお傍が一番安心するからね」

 そうはいってもふぅは長らく神様から離れていた。

 黒猫はじっと楓を見つめ、ふぅに話しかけているようだった。

 ふぅは複雑そうな面持ちになっている。

 楓は、ふぅの鈴に手を伸ばした。その時、ニックが楓を睨み毛を逆立てた。それに慄き楓の手が引っ込まれていく。ニックはふぅに睨まれた。

「ごめんね、楓。怖くないよ。優しい奴なんだ。警戒してるだけ」とふぅは弁明する。楓は頷いた。

「この鈴はね、神様がくれたものなんだ。願いを叶える鈴。なんでもってわけじゃないよ。思いが通じた時、叶うんだ」

 ニックはもう構うことに飽きたのか、横にずれた所で座り込んで欠伸をしていた。

 蝉の音が止まない夏の夕暮れ。休むニックと、楓に触れにいくふぅと、ふぅに触れられる楓。たまにちりんとなる鈴の音だけは、蝉の音に負けず境内に響いた。

 猫の神様といえど神様。高い場所にある神社から見渡せる小さな街の一角。撫でられてご機嫌なふぅに対して、楓はそんな小さな世界を眺めた。

 喧嘩ばかりをする親が取った共働きの日々。少しでも一緒にいないようにと休日もどこかに出掛ける親。残されるたったひとりの娘。なんでもなさそうな小言が、軽口が募って傷を深くする日々。自分もそうしているのだろうと言葉を呪った。……果たして、そうだっただろうか。

 言葉があるから、だけではないことに気づいていた。感情が言葉を作り出している。それならば、感情ごと不要なもの。悲しいも寂しいも苦しいも悔しいも妬みも怒りも要らない。温かい心も、知らなければ知らないままだ。

 触れているふぅに、楓の感情が流れ込む。楓の顔が、髪の毛に隠れて見えない。水が、流れ落ちる。西日にそれが反応して光る。

 しばらくしてニックが起き上がりふぅに話しかけた。楓にその内容などわかるはずもなく、猫相手にも疎外感を覚えることにまたダメージを食らった。

「楓」

 会話が終わると神妙な面持ちでふぅが話しかける。ニックも楓を見ていた。睨んではいない。

「楓は、感情が要らない?」

 ふぅには、恐らく楓よりも楓の感情が分かっていた。

 ふぅの言葉に楓はドキリとした後、少し曖昧気に小さく頷いた。

「あのね、ニックがね、楓の感情を奪ってあげるって、言っててね」

 ふぅは自信なさげに言葉を紡いだ。

 ニックには、楓が自身を嫌がっていることが伝わったらしい。ふぅよりも長く人間を観察してきたのだろうか。感情を奪う、というには強引のようだがニックにとっては退屈凌ぎの思いつきだった。ふぅはそんな提案をされ、楓が解放されて幸せになるのならいいな、と思った。しかし、楓から流れ込んでくる裏にある表せない感情に対して抗っていいのか決断できずにいた。

 それなら、いちいち何かに、思いを馳せなくて楽そうだ。そんな楓の思いが、伝う。

「本当に?」

 ふぅは危惧した。

 ふぅはニックに考えさせてほしいと言い残し、楓のズボンを噛んで帰ろうと引っ張った。楓は重たい腰を上げて、沈んだ太陽を追うように階段を下りた。


 ふぅは危惧した。感情すらなくなれば、きっと言葉が必要な場面すらなくなり今日のように罵り言葉が楓を傷つけることはなくなる。悲しいも寂しいも怒りも、消えていく。支配され続ける感情から解放されたら楓は楽になる。感情がなくなれば。きっと、幸せと思える感情すらも、楓から消えてしまうのではないか。しかし、楓から幸せな感情は一切流れ込まない。楓にとってやはり感情は不要なものなのだろうかと、悩んだ。

「ねぇ楓、まつり、明日だね」

 楓の過去までは伝わってこない。しかし楓と過ごした短い時間で唯一感情が揺れていたまつりのポスターを思い出し話題にだした。思った通りだった。光のない瞳に一つ何か灯る。楓は途端、布団を頭から被って眠りについた。ふぅもベッドに飛び乗って、ほんの少し楓の肌に触れた。

 楓は、揺れる感情そのものにもついに辟易した。確かに揺れていた。天秤にかかる思い。感情なんて――。その後に続く言葉はない。


 欠けても尚眩しい月灯りが部屋に差し込む夜中、ちりんと鈴が鳴った。眠れずにいた楓はそれがふぅのものではないことに気づきながらも音のする窓に目をやった。動いた楓に気づきふぅは目を覚まし、外にニックがいることを感じ取った。

 ふぅとニックが話をするのを楓は寝転びながら見ていた。その光景はまるで幻のようで、この日常ごとすべて泡沫の夢なのではないかと言うように、朦朧とした曖昧な脳が儚く今を映す。

 しばらくしてふぅが戻り、明日のまつりに向けて会合があるようで一度住処に戻ると言った。楓はあっさり承諾したが、ベッドはとても冷たくなっていて、次第に身体は震え眠ることはやはり、できなかった。

 ふぅが帰ってきたのは夕方ごろだった。ふぅの鈴の音、ふわりとした白い毛、ふぅの言葉を聞いて楓は安堵した。

「そういえば、さっき家の前に女の子がいたんだ。変だよね?」

 それを聞き、楓はハッとした。

「まつり、ボクらは木の上から見守ることになったよ。だから行くんだけど、楓は?」

 楓は迷った末、いざとなったら帰ればいいなどと回避方法を探し言い聞かせ、ゆっくりと立ち上がり、外に出る準備をした。ふぅはその姿をみてぴょんぴょんと跳ねた。


 まつりでにぎわう人々が目に映る。様々な音が広がる。それはほとんどが人の言葉だ。言葉から感情が溢れ出る。感情が、言葉を作り出す。その空間に、彩はいた。まるで誰かを待っているかのように階段を上らずに立っていた。

「彩だ! 来たんだね。誰と?」

 クラスメートに話しかけられている。楓たちは少し離れた茂みに隠れて彩を見ていた。

「うん、楓と」

 か弱い声だった。楓の名前を出した途端、クラスメートの表情は渋くなる。

「彩、いい加減やめたら? 彩がかわいそうー」

 茂みの中、ふぅを抱きしめる楓の腕に途端、力がこもった。

 ――言葉が、欲しい。

 ふぅの鈴が、ちりんと、夜に響く。ふぅは楓の腕から抜けて階段を駆け上がっていく。

 楓はあとを追いかけようと茂みから姿を現した。彩とクラスメートの視線が楓に集まる。

「楓!」

 彩が嬉しそうに近寄る。楓は戸惑った。

「来てくれたんだね、よかった!」

 ふぅの姿が人混みに消えていく。楓は胸の前で両てのひらを広げて近寄る彩に向けてなんとか口を動かす。言葉は出ない。

 楓は走り出した。広々とした境内ともいえない広さに人は密集した。人をかけ分けるように前へ進んでいく。

 賽銭箱の前、ちょこんと背を向けて座る白い毛の猫。呼吸を整えた楓はしゃがんで、ゆっくりとふぅに触れた。優しく撫でていく。

 ちりんと鈴を鳴らしてふぅは振り返る。

「楓。楓からもらったこの言葉、楓が望めば返せるよ」

 撫でる手が止まる。

「楓、さっき言葉がほしいって思ってたよね? 楓には言葉も感情も必要ないものじゃないと思う」

 葛藤している。

 楓は言葉が嫌いだった。簡単に人を傷つけられる言葉、それを簡単に使う世界が怖くて、嫌いだった。しかし言葉がないとそれを慰めることも救うこともできない。傷つく彩に言葉をかけてやれないことに気づいた。感情がなければそんなことも気にかからない。しかし彩はそうではない。感情が世界からなくなることはない。

「昨日の夜、楓と離れてみて寂しいって感じたんだ。楓の傍が心地よくて楽しくて幸せだから思った。楓もね、そう思ってくれてたらいいのにって思ったよ」

 楓から涙が流れた。三日前にここで流した涙と違うものだった。世界は、妥協しなければならないことばかりだ。

「楓に、言葉を返したい。楓は何を望む?」

 望むもの。すぐには浮かばない。しかしきっと、自分にはもう少し言葉が必要なのだと、楓は思った。

 人々はまつりに夢中だ。雑踏の中響く楽しそうな声色。ふぅは言葉を、楓のためにかける。

「いいんだよ。もとからボクに言葉は似合わない。ただの使い猫に戻るだけ。楓も、戻るだけ」

 楓は言葉を失くしてからできるだけ感情を殺していた。悲しいなど思わない、嬉しいなども思わない。しかしふぅとの時間は穏やかで、ゆったりとしていて。楓にとって忘れてはならないものな気がした。ただもとに戻るだけじゃない。言葉がなければ巡り合わなかったし、感情があるからふぅとの思い出が感情に乗って残る。

「だいじょうぶ、言葉以上に繋がれるものもあるよ」

 楓は願った。まつりの音を遠くに、ふぅの鈴が、ちりんちりんと二度鳴る。


「楓!」

 楓の後ろに彩が立った。ふぅは自慢の脚力で社の影に飛び込んだ。

「彩……」

 楓の喉から言葉が溢れる。自分の言葉なのに、一度ふぅを通したからふぅの言葉も含んだようで優しい思いになった。

「声治ったんだね、よかった!」

 彩が嬉しそうに笑った。楓はやはり驚いた。

 彩も例外ではなく、何の気なしに彩の言葉に勝手に自分から傷つく自分がいた。けれど彩はそれでも言葉を選んでいたと思う。それなのに勝手に気にする自分が本当は一番嫌いだった。彩にそれを、本音を伝えたことはあっただろうか。一度でも、裏切ってしまった自分になぜそうも寄り添ってくれるのだろう。溢れ出る思いが言葉になって次から次へと零れていく。

「彩、ありがとう」

 思いがあって、言葉が生まれる。言葉で誰かを幸せに彩れることも、刃と化すことも知っている。傷つけて傷つけられる。しかし言葉がなければ伝えられないものがある。

 楓はふぅにもう一度会わなければならない。

 他人からどう思われようと楓に向き合った彩に伝えたようにふぅにも。


 まつりが終わった後の神社にはまつりがあったことを知らせる何かなど何も残さず、いや一層静けさを増して日常がただ流れていくだけだった。

「ふぅ、いる?」

 楓の声に反応して白い毛の猫が神社の裏から現れた。その姿を見つけ一目散にふぅに近づいた。

 ふぅにはもう人間の言葉がわからなかった。楓が何を話しているのか、音だけが流れていく。これが当たり前の習わしだ。ふぅは必死に理解しようと耳を立てる。しばらくして楓はふぅを両手で包み込むように撫であげた。

 言葉はない。しかし温かな思いがふぅに伝わり、反応するように鈴が鳴った。

 残らないものがある。形にならないものがある。もう交わらない言葉。しかし思い出が残る。楓と過ごした日々が、その温度で伝わる。

 ふぅの鈴が、ちりんちりんと、何度でも鳴る。それはいつまでも思い出をノックしていく。

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