だから、これで満足です。

 クリスマスが近くなり、駅前の商店街は中途半端なクリスマス装飾と中途半端なイルミネーションに彩られている。


 踏み固められて凍りはじめた地面を、滑らないようにゆっくりと歩いていく。


「俺は、人魚を探してるんだよ」


 フユのいた浜から離れた俺は、通り近くの公園でまたナガマキと会った。


 まるで来るのを待っていたかのように、彼はそこにいた。この男がただの学者や研究者でないことは、俺にも薄々わかってきている。けれど――だからといって何が出来るわけでもない。

「君たちが思ってる以上に、色々とあるんだ」

 コンビニで買ってきたらしい“季節限定いちごサンデー”をプラスチックスプーンで食いながら、ナガマキは俺に缶コーヒーを投げて寄越す。

「色々“あった”んじゃない。それはまだ過去形じゃない。確かに事件が起きたのは君たちが生まれる前の話だ。もう実感なんてないだろう。だが実のところ、まだ何も終わってない。ただ迷っているだけだ。この街も、日本の在り方も」

 かつ、かつ、かつ、とカップの底をスプーンですくう音。

「言っただろう? 人魚が姿を現す時は、世間に何かが起きる前触れかもしれない、と。“俺達”はその何かを誰よりも早く掴まなければいけない。だからここにいる。俺達は、人魚を探している」

 丸眼鏡の奥の瞳がぎょろりとこちらを睨む。

「トウヤくん、人魚を見つけたら、俺に教えてくれよ」


―――


 その晩、俺は夢を見た。


 二人の女の子が、雪の降るアーケード街を歩いていた。

 クリスマスプレゼントを選ぶ、仲の良い姉妹。

 街は平和だった。海の向こう、すぐそこにあるはずの危機や不穏な空気など、そんなものは何一つ無く無邪気に輝いていた。1973年でも1998年でもない、輪郭のはっきりしない場所。二人はくすくすと笑いながらショッピングを楽しんでいる。赤、緑、白。店先に置かれた古いサンタ人形。光がちらつき、ぼやけていく。今はもうないはずの、個人経営の服飾店。喫茶店。CDショップ。最近出来たばかりのケータイショップ。二人はウインドウショッピングと、ちょっとした買い食いを楽しむ。それらがゆっくりと流れていく。雪の降りしきり中でも、アーケード街の庇下は暖かかった。


 あの通りも昔は賑やかだったのよ、と母親は言っていた。

 それはかつての思い出の景色なのか、あるいは、願望だったのか。


―――


 十二月二十四日、木曜日。みぞれまじりの雨。


 そういえば今日は予備校の年内最終講習日だった。ここ一ヶ月、まるで通っていない。さすがに何かの連絡が来るだろうと思っていたが、特に何もない。そんなものだろう。最後の追い込み! 年末年始を制する者が受験を制す! そんな熱量の高いコピーが並ぶ予備校の横を通り過ぎ、俺はいつものコンビニに寄る。いつもの日常。浜の人魚に餌をやる。その繰り返しの日々。いつか来るであろうタイムリミットを余所目にやって。


 そして、今日は少し特別な日。

 パックに入ったショートケーキを二つ。フォークを二つ。それらが入った袋を持って、あの浜へと向かう。


―――


浜の真ん中に、フユが突っ伏していた。


「さすがに気怠くなってきたんで、あんまり力を使わないように寝てようかと。今、何時です?」

 時刻を伝えたところ、じゃあ丸一日寝てたんですね、とフユは言った。

 思えば――俺が家に帰って自室でゴロゴロとしている間も、フユはずっとここにいた。曇りだろうが雨だろうが雪だろうが、どんなに寒かろうが、このモノクロームの景色の中で。この境目の不確かな、日常と隔てられた場所で。

「この浜が“はじまり”の場所だったっていうのはなんとなく覚えてたんですよね。だから、特に深い意味はなかったんですけど、どうせ身投げするならここかなって」

 1ピースのショートケーキの端をフォークで切り分け、口に運ぶ。

「ここに来たら何か思い出せるかも? なんて、少しは期待してたのかもしれません」

 何か思い出して、したいことは見つかったのか、と聞くと、フユは首を横に振り、それからすぐに何かをひらめいたような顔をする。

「あ、いっこだけありました。変な話かもしれませんけど。なんか、トウヤさんを見てると、ちょっと、懐かしい気分になるんですよね」


―――


「描いてくれたあの絵、まだ持ってます?」

 大事に持っている、と答えると、フユは恥ずかしそうに笑った。


 フユはもう歩く力も残っていないようだった。“バッテリー”が切れて動かなくなっていく感覚がどういうものなのか、俺には想像もつかない。それは死なのか、また違うものなのか。かけてやる言葉も見つからないまま、俺はフユの身体を肩で支え、しばらく海を見ていた。


 後ろで、ざし、と砂を踏みしめる音がして、俺は音のしたほうを振り向いた。


「陸に上がったままじゃ、人魚は生きていけない」


 黒色のコートのポケットに両手を突っ込んだまま、声の主はゆっくりと歩いてくる。丸眼鏡。表情の読めない顔。

「奴らも、ずいぶん難儀なモノを作ったもんだ」

 ナガマキは左ポケットから缶コーヒーを取り出し、俺に向かって放り投げる。寒空に冷えた掌に、コーヒー缶の熱が刺さる。そしてもう一方の右ポケットから拳銃を取り出し、銃口をフユの頭に向ける。傍らに寄り添っていたフユは後ろを向こうともせず、薄目でぼんやりと灰色の海を見続けている。


「トウヤくん。そいつが何者なのか、知りたくないか」


―――


 君にはこれからずっと監視が付く、と前置きした上で、ナガマキは話をはじめる。

「惚れた女のことくらいは知っておきたいと思うだろ。それに――民話や伝承にはオチがつきものだからな」

 突きつけた拳銃の銃口を少しもズラさず、彼はそう言ってまた口の端をつり上げた。

「人間でも魚でも、ましてや人魚でもない。それなら何なのかと言うと、はっきり言って俺達にも分からない。だから調査する必要があるのさ。“それ”は浜辺に打ち上がった貴重なサンプルなんだよ」

 俺達二人の横に腰掛け、ナガマキは煙草を取り出した。

「“北”――かつての侵攻でソ連領となったそこに、連中はいくつかの施設を作り始めた。核兵器、ガス、その他諸々。そういう研究をやるのに、あの広大な土地はうってつけだった。その中の一つにカギがある。北の玄関口として、この街と繋がるはずだった街……かつては小樽と呼ばれた場所。閉鎖都市“シリベシスク41”」

 閉鎖都市、あるいは秘密都市。特定の目的のために作られ、目的に従事する人間やその家族のための、地図にも載らない秘密の場所。まるでスパイ映画やSFの物事のようだ。

「さてどうだろう。現実かもしれないし、ただホラを言っているだけかもしれない。想像に任せよう。で、まあ詳細は省くが、その都市はある実験のために作られた。人体実験、改造。そういった類のものだ。いつまでも衰えず、固定された肉体。ボンベもなしで無限に泳ぎ続けていられる能力。こんな拳銃弾程度ではすぐに再生してしまうほどの回復能力。バッテリーさえあれば睡眠も食事もなしで動き続けるスーパーソルジャー。どこにいても違和感のない、少年少女の姿をした、本土侵攻のための秘密兵器。奴らはその都市でそういうものを作ろうとした。……そして、検体は国内外の様々な場所から集められた。それだけ言えば、後は分かるだろ」

 ナガマキは煙草を半分ほど吸い終え、砂浜に押しつける。

「奴らは人魚を作り、時には肉を食わせ、不老不死の妖怪を作ろうとした。その子は成果の一つだ。俺達もその存在は知っていたが、サンプルの確保が出来なかった。だが彼女自身の気まぐれによって、ある日この浜に打ち上がった。だから俺達はここに来た」


―――


 バッテリーの充電は出来るのか、と聞くと、ナガマキは意外そうな顔をした。

「てっきり、この子は渡さない、とばかりに気勢を張るものだと思っていたんだがな」

 出来るならそうしたい。だが、これ以上俺には何も出来ない。

「それはこれからの研究次第だ。解析が上手くいけばそのヘンテコな鉄球の秘密もわかるかもしれないし、どうにもできないかもしれない」

 そこまで言うと、ナガマキはまた口の端をつり上げた。

「人魚伝説はたいていが悲哀の物語だ。“奇跡によって苦難は乗り越えられ、そして王子様とお姫様は結ばれ、いつまでも仲良く暮らしましたとさ”――とはならないんだ」


 後ろから、砂浜を踏みしめる音が複数。ナガマキは“俺達”と言っていた。部下か、そのあたりだろう。


「間違いなく、奴らはこれから何かをやらかす。前にも言っただろう、まだ何も終わってないと。だからその前に俺達は備えをしなくちゃならない。人魚の出現が、この日本にとっての凶兆にならないように」


―――


 俺は傍らのフユに声をかけた。何が望みなのかと問いかけた。


 フユはずっと海を見ている。

 やがて青白い唇がひらき、言葉を紡ぐ。


「私、ずっとここにいたいです」


―――


 帰るでもなく、進むでもなく、死ぬでもなく、生きるでもなく、フユはずっとこの浜にいたいと――動かなくなってもなお、ここに居続けたいと望んだ。

 迷いっぱなしなんですよ、と彼女は言っていた。その結果がこれだ。これからどうしたいか、ではなく、ずっとこのままでいたい。死に損なったのならそれでいい。それがフユの希望だった。


「時間が前に進み続けている以上、人間だけではなく、あらゆるものは進むべき、あるいは引くべき道を決めなければいけない」

 フユは人魚だ。動かなくなっても、ここに永遠に留まり続けることができる。

「それが望みだと?」

 気持ちはよく分かる。俺だってそうだ。高校生でも大学生でもなく、社会に行くでもなく離れるでもなく、ずっとこの“どうでもいい”毎日を過ごしていたい。なりたいものになるのが困難なら、いっそそのままでいい。それが出来る身体ならそうしたい。何を決断する必要もない。もしかしたらあり得たかもしれない希望、それが叶わないというなら――。

「永遠の命を手にした存在も、もしかしたらそう考えていたのかもしれないな。だがその子はそこ至る前にひとつの決断をした。きっと“何かを変えたくて”この浜まで逃げてきたんだろう。冬の日本海を、たった一人で、何ヶ月もかけて泳ぎ切って」


 フユは何も応えなかった。

 その“答えのない答え”を尊重しようと思った。

 だから俺は、黙って彼女の肩を引き寄せた。


「君がその子の身体を離さないというなら、それもいい。本当はその希望を叶えてやりたい。しかし俺達に時間はない。そのままでいたら、俺達ではなく、奴らが回収に来るだろう。その子が永遠に近い存在であっても、俺達は違う。君も、世界も――時間は容赦なく先に進み続ける。そうして、もうすぐ新しい世紀が来る」


―――


 どうも俺はこの後に“記憶処理”をされなければならないらしい。


 ここにきた記憶も、ナガマキも、フユのこともすべて忘れる。


 ナガマキは、ここに来る前、既に母親にも処理を施したという。つまり……母親は、本当に妹のことを忘れてしまったということだ。

「トウヤ君。君は人間だ。人魚じゃない。いつまでもそうしているわけにはいかない。身分違いの、決して実らぬ関係もある」

 ナガマキは部下達を離れさせ、傍らですっかりぬるくなった缶コーヒーを開けた。

「鮭おにぎり、梅おにぎり、ハムサンド、ティラミス、たまごサンド、チョコブレッド、クリームパン、鍋焼きうどん、ショートケーキ」

 フユは自分の食べてきたものを指折り数え、また海を見た。俺達三人はそれっきり、しばらくそうしていた。

「ずっとこのままではいられない。だが後悔のないよう、ここでしてやれることはやっておくといい。伝えられることは伝えてやるといい。あと一つだけ、それくらいの時間はある。さてどうする?」


 何が食べたい? と俺は聞いた。

「トウヤさん」

 フユはそう答えた。


 なるほど?


「出番だぞ、王子様。もしかしたら、奇跡が起こるかもしれない」


 俺はフユの青白い唇を引き寄せ、キスをした。

 陶器のように固く、冷たく、砂混じりの唇。

 血の繋がりも、その過去も、何があったかも、今はもう重要ではなかった。

 フユの希望に俺は応えた。それだけだった。


 ふ、と唇を離し、フユは俺を見つめた。

「ありがとうございました。トウヤさん」

 耳元でフユは囁き、そして笑った。

「私、お腹いっぱいです。たくさん、色んなものを貰いました。食べ物も、言葉も、思いも。だから、これで満足です」


 結局、奇跡は起こらなかった。


 こうしてフユは誰の記憶からも消えることになる。他に何かしてやれることはなかったんだろうか。後悔は残る。けれど本人が満足しているなら、きっとそれでいい。フユが笑ったのなら、それが答えなのだろう。そう思わないと、俺だってどうしようもなくなる。


 畜生。一人で、勝手に満足しやがって。


―――


 そして――人魚も、俺の思い出も、全ては海の泡と消えた。


―――


 1999年、一月初旬。


 予備校から帰ってきた俺は、自室でスケッチブックと鉛筆を取り出した。手元には撮ってきたばかりの写真がいくつか。冬の日本海。灰色の空。鉛筆の濃淡だけで、それらを模していく。進学は進学。それとして、俺は昔から趣味で絵を描き続けている。いつか芸術家になれるかもな、と亡くなった父親はそう言ってくれた。だから描いている。


 ところで、ひとつ不思議なことがある。

 風景画ばかり描いていたはずなのに、その中にひとつだけ描いた覚えのない絵がある。一枚の人物画だ。知り合いのわけでもなく、見た記憶すらない少女の絵。けれど何故か見るたびに懐かしい記憶になる絵、一体どこの誰を描いたのかわからないまま、そして誰にも見せないまま、ページはそのままにしてある。不気味といえば不気味だが、なんとなくそれは自分だけの秘密にしておきたかった。


 自室のテレビは、相変わらず世界情勢の危機を伝えていた。

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