とても素敵な偶然だったんです。

 その日は、強い風と雪の吹き荒れる午前だった。


 テレビのニュースからは、相変わらず不穏な話題ばかりが流れている。ソ連の度重なる核実験。軍事拡張。第三次大戦への危機。世界平和は未だ薄氷の上にある。どれもこれもが、テレビごしのリアリティ。地図を広げれば、それは海を越えたすぐそこにあるというのに。


 母親が広げていた新聞の記事が目にとまる。

 “あれから二十五年。行方不明者、未だ還らず”。


「もうそんな前になるのね。あっという間」

 店内には誰もいなかった。ナガマキの姿もない。さすがにこんな吹雪の日では来ないだろう。

「トウヤ、あんた、あの浜って行ったことある?」

 俺は首を横に振った。“あの浜”。この街の海水浴場はいくつかあるが、それだけで何処のことを指しているかは通じる。

「お願いだから行かないでね。絶対」

 普段は軽い母親にしては、やけに真剣な口調だった。

「あんたまで居なくなっちゃったらどうしようって。二十五年も前、こんなタイミングだからなのか――ちょうど昨日の夜、珍しくあの子が夢に出てきたの」


 あの子?


「まあ、そろそろ伝えてもいいかしらね」

 母親は新聞を畳む。

「この前うっかり言っちゃったけど。私、妹がいるのよ。あんたにとっちゃ叔母さんにあたるんだけど」

 俺は母親にきょうだいが居るということを知らない。

「正確には“いた”なんだけど。――うん、そう。二十五年前。あんたが生まれる前の話。妹は、あの浜で姿を消したの」

 すっかり聞き流してしまっていたが、俺はナガマキと人魚の話をしていた時の台詞を思い出す。そういえば“私と妹で佐渡に行ったの”と母親は言っていた。

「活発で、お人好しな妹でね。気がつくと一人で遊びにいってるような子だった」

 吹雪く窓の外を眺めながら、母親は誰に言うでもなく呟く。


「あの時はまだ、賑やかな海水浴場だったわね。あの子、遊びに行くって朝早く出かけて。まだ、あの事件が噂にもなっていなかった頃だったから」


―――


 昔、あの浜で事件が起きた。


 浜に出かけた若者が突如として行方不明になる怪事件。ここだけでなく、近隣の浜でも起きたという。その数、たった半年で合計十人あまり。当時は大きなニュースになり、全国捜査が行われ、様々な憶測も流れた。もちろん“東側”や“北”が関わっているという噂もあったし、情勢問題にもなったという。それが原因となり、間もなくあの浜は立入禁止となって閉鎖された。


 結局、その後に何年経っても、消えた人間は誰一人として帰ってこなかった。生きているのか死んでいるのかさえわからない。だから“あの浜へは行くな”とこの街に住む大人は言うわけだ。

「当時は警察だのテレビだのに囲まれたこともあったわよ。どんな顔していいかわからなくて、おとうさんとかあさんが色々対応してたわね。あの時、妹は……確か十八歳だったと思う。高校を卒業してすぐのことだから。ちょうど今のあんたと同じくらいの年」

 といっても、それも二十五年前。俺が生まれる前の話。事件そのものはその半年でぱたりと収束し、それ以降に行方不明者が出ることもなくなった。俺達くらいの世代には実感も恐怖心も無い。テレビの向こうの世界危機と同じように。

「こういうことを言うのも変だけれど」

 母親は俺に向き直り、そう前置きして言葉を続ける。

「何か後ろ暗いことがあって隠してたわけじゃないの。忘れてしまおうとしていたわけでもない。きっと心のどこかで、妹が生きているのか死んでいるのか“わからないまま”にしておきたかったのかもね。過去のことを過去として語ってしまったら、それで妹が居なくなったっていう事実に向き合わないといけない気がして」

 悲しみも諦めもないような、なんとも言えない顔。

「警察もテレビもそれからだんだん離れていったし、この街の人達もあの人も私のことを慮って合わせてくれた。なるべくその話題を出さないようにってね。で、そうしているうちにすぐおとうさんもかあさんも亡くなって、結局、あんたには言えないままになっちゃってた」

 俺は母親の顔をじっと見た。


 目、鼻、口元。

 どこかで“つい最近”見たような人相。姉と妹。二十五年前の事件。あの浜。自室の奥にしまわれたスケッチブック。そこに書かれた顔。


 俺はそれとなく、妹のことに関して訊ねてみた。

「ああ、そうね。さっきも言ったけど、とても活発な子だったわよ。だから、いつもお腹を空かせてた」


―――


 翌日。吹雪が止んで、少しだけ薄日が差した昼。


 俺はあの浜へと急いでいた。脇目もふらず、全力で駆けていた。

 フユはいるだろうか。彼女の顔が脳裏から離れない。

 コンビニから出て、大通りを抜け、走る。

 一刻も早く。早く、あの浜に行かなければ。


―――


 そして。


「……あの、めちゃくちゃゼイゼイ言ってますけど、どうしたんです?」

 全力ダッシュで来たせいか、俺はフユに心配されるくらいには息を切らしていた。ともかく急いで来たからにはすぐ渡さなければいけない。俺はコンビニ袋から、アルミ鍋タイプの容器に入った“今日のメシ”を、割り箸と一緒にフユに手渡す。

「鍋焼きうどん?」

 袋が溶けるんじゃないかというくらい限界まで熱した鍋焼きうどんは、やはりここに来るまでの時間でだいぶ冷めてしまっていた。だからなるべく急いで来たのだが。

「ええと。たしかに“あったかいものが食べたい”とは言いましたけど」

 昨日は吹雪で会えなかった。それで今日だ。フユが咳き込んでいるのを見た後だから、もし倒れていたりしたらどうしようか、と気がかりなのもあった。それも足を急がせた理由だ。

 けれど、今日もフユはまったくいつも通りだった。

 二人並んで砂浜に腰掛け、海を見ながらの食事。フタを開けて湯気が出るか出ないか、ギリギリの温度。潮の香りに混じるうどんダシの匂い。フユは割り箸でシイタケをつまみ、口に入れる。

「あ、おいしい」

 フユは、どうもおいしいものは一番先に食べるクチらしい。とにかく温かいうちに食べてしまおうと、俺達は黙々とうどんをすする。うん、とか、おお、とか呻きながら食うフユを横目に、俺はダシ汁に浮かぶカマボコを見つめつつ、彼女に切り出す一言を考えていた。


―――


 俺はフユの“本名”を口にした。1973年。この浜で姿を消した少女。

 上の名前は母親の旧姓。下の名前は――母親から聞いた。


「“人魚”ってことにしておきたかったんですけどね」

 リアクションは意外と薄めだった。

「といっても、正直なところ、あんまり記憶がないんです。あの頃のこと」

 空になったアルミ鍋カップを両手で持ちながら、フユは淡々と言葉を紡いでいく。

「二十五年も経ってたこと自体も驚きましたけど。今が何年だとか、実感無くなっちゃったんですよね。こういう身体になっちゃったので。あと陸に上がってもここから動けませんし」

 二十五年前の姿をそのまま留めた、不老の存在と化した“人魚”。

「や、動こうと思えば動けるんですよ。海から離れたら生きていけない――なんてのも、たぶんそんなことはないはずで。でも、いざこうして浜に来てみたら、何処にいきたいとか何をしたいとか、どっかいっちゃったんですよね。ほら、元々は死のうと思って来たわけですから」

 けれど、腹は減っていた、と。

「不思議なものですよね。お腹が空く、なんてどれくらいぶりのことだったかと。この身体だと、別に食べなくてもなんとかなるので」

 けらけらと愉快そうに笑い、フユは指折りで今まで食べたメシを羅列していく。鮭おにぎり、梅おにぎり、ハムサンド、ティラミス、たまごサンド、チョコブレッド、クリームパン、鍋焼きうどん。

「まあでも」

 指折り終わったあとに、フユはその掌をゆっくりと開閉しはじめる。


「このままでいたら、どっちみち私の身体はもうすぐ動かなくなるみたいですけどね」


―――


 後ろを向いていてください、と言われ、視線を逸らす。


「――私は、ここじゃないところで、他の“大人達”と一緒に、あんまり詳しくは言えないこととかをやってました。そういう“モノ”として、長い間。昼も夜も季節も関係なくて、同じようなことをずっと」

 彼女はどこで何をしていたのか。誰がどうして彼女をそんな身体にしてしまったのか。そしてなぜ“身投げ”をしたのか。何もかもわからない。だが、例え聞き出せたとしても、きっと俺は何一つ理解ができないだろう。


 もういいですよ、と言われ、振り向き直る。


 海風のすさぶ寒空の下。ウェットスーツの上半身をはだけ、真っ白な素肌を晒したフユの背中。その中心あたりには、脊椎に届くまで深く埋め込まれた小さな銀色の鉄球がひとつ。

「というわけで私、人魚じゃないんですけど、人間でもないんですよね。じゃあ何かって言われるとちょっと困るわけですが」

 背中ごしにフユは言う。

「コレ、ある種のバッテリーみたいなものらしくて、どうもなんかの処置を施さないと、そのうちこの身体は動力が切れて“動かなくなる”みたいです。“あっち”にいる頃は色々メンテナンスとかやってもらってたんで、今まで意識してなかったんですけど」

 動かなくなる。それは“死ぬ”と同義なのだろうか。

「それはなんとも?」

 まるで他人事のようだ。

「身投げして死ねるかなと思ったら死ねなくて。でもまあ、結局はこのまま浜で朽ちていく。つまりそういうことです。でも――だからこそ――そこでトウヤさんに会ったのって、とても素敵な偶然だったんですよ」

 そこで言葉を区切ると、フユはこちらを向いた。晒した上半身が露わになり、その薄い胸のあたりにもう一つの鉄球が埋まっている。背中のそれとは違い、鉄球は鈍色にくすんでいた。彼女はそのままこちらに歩み寄り、自分の手を俺の腕にまわした。

 その手は、ぞっとするほど冷たかった。それは、決して気温のせいだけではない。そもそも血が通っていないようにすら思えた。

「大人達じゃない“ふつうのひと”に会うのなんて、どれくらいぶりだったか。すっかり忘れちゃいました」

 俺は、かつてのフユとどういう関係にあったかを明かしていない。血縁関係にある存在であることも。そこまでは言い出すことが出来なかった。

 フユに、街に行ってみたいか、と聞く。普通の服を着て、素肌さえみせなければ大丈夫だろうと。彼女は首を横に振った。

「記憶も不確かですし、そもそも私はもうここにいないはずの存在なんです。いろんな人がビックリしちゃうでしょうから。だから、いいです。その代わり、またご飯持ってきて下さいね」

 食べる必要もない身体。それでも、俺とフユをつなぎ止める、大事な事柄。

「しばらくは平気ですよ。トウヤさんが来てくれる限り、私はまだここにいます」


 さて、次は何を持ってこようか。


 そういえば、もうすぐクリスマスだ。

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