自殺しようとしたんです。

 人魚を餌付けする日々が続く。


「色々大変なんですね。ヨビコーセーさんって」

 フユはとにかく甘かったり塩っ辛いものを好んだ。味の濃いものが好きらしい。今日はクリームパンである。

「道を決めるのって大変ですよ。どっちにしようかなって迷ったりするのって、ぜんぜんヘンなことじゃないです。トウヤさんが迷ってるように、私も迷ってるんですから」

 気づけば、俺はフユに身の上話をするようになっていた。言ったところでどうしようもない。何かが変わるわけでもない。同い年くらいの、自称人魚の変わり者に自分の話をするくらいだから、きっと俺は相当疲れている。

「今でもそうです。ここまでやっておいて、どうしてか……どうしてでしょうね。“海から出る”って決めたはずなのに、きれいにいかなくて。――あ、クリーム、偏ってますねこれ」

 ひとくち、ふたくちとパンをかじる。

「今はこうやって美味しいものを食べられてるので、それは幸いでしたけど。トウヤさんに会ったのも何かの縁。いやはや、ふしぎなものですねえ。だって――」

 フユは何かを言いかけて止める。

 

 俺は以前から思っていた疑問点をぶつけてみた。

 そもそも――なぜフユはここにいるのか?

 どこから来て、何をしているのか?


「あ、それ、言わなきゃダメです?」

 フユがわざとらしげにこちらを見た。言いたくないなら言わなくてもいいと俺は答えた。すると彼女はクリームパンの残りを口に放り込み、もぐもぐと咀嚼して飲み込み――その先の言葉を紡いだ。


「私、自殺しようとしたんです」


 自殺。俺はその一言をオウム返しにした。


―――


「ほら。私、人魚でしょう? 人間が海に身投げして自殺するみたいに、私は海から陸に“身投げ”したんです」

 手をひらひらとさせながら、フユは笑う。

「まあ結果はコレですけど。うまくいかないもんですね」

 死にたくなって身投げして、しかし生き残ってしまった。自分はそういう存在なのだという。何故? と問うことは出来なかった。彼女の顔は、どこか清々しく見えた。


 俺はここを一人で歩いていた時のことを思い出す。生きても死んでもいない場所。“こちらとあちらの境目”。この浜がもし本当にそうなのだとしたら、俺もフユも、そこにいる。

「うまくいかないなりに色々考えることはありましたけど。最近は“お腹が空いたな”としか考えなくなっちゃいました」

 食べるということは生きるということ。死ぬつもりで“身投げ”したのが事実なら、フユは食事を求めず、ただ一人で息を詰まらせて死んでいただろう。

 この世紀末の世界で、何かが変わると信じて身投げをしたのか、あるいは何も変わらないと絶望してそうしたのか。ただ、こうして死に損なって――そこで偶然、俺と会ったから――考えを改めた? そこまでは自惚れていない。彼女は一体何を考えているのか。俺には分からない。


「トウヤさん。また来て下さいね。次のご飯も期待してますから」


 それでも。明日も。次の日も、その次の日も。ここに来ようと思った。

 フユが待っているから。理由はそれだけだ。


―――


「この街は好きかい、トウヤくん」


 数日後。雪のちらつく午後。浜通りの歩道でナガマキを見た。“フィールドワーク”をしているという言葉通り、ここ最近、よくこうして会うことがある。俺は好きとも嫌いとも答えられなかった。生まれも育ちもこの街しかない。比較対象もなければ、好きかどうかなんて判断しようがない。

「戦後すぐのことだ。ここを港町として、小樽や函館――つまり“北”への玄関口にしようという計画があった。まだ日本が、いびつながらも一つにあろうと努めていた頃……だが君も知っての通り、それは叶わなかった。もし計画通りの航路で船が出たとしても、行き先はもう日本じゃない」

 歴史の授業でも聞いたことがある。ここから発つ船が、人やモノを乗せて、自由な交流や物流を果たす玄関口にしようとしていたのだと。だがそれは夢に終わった。今も変わらず、この街は中途半端に閉ざされた小さな地方都市のままだ。

「もし、港から船に乗って“北”……いや、どこでもいい。そのどこかに行けるとしたら、トウヤくん、君はここから出たいと思うかい?」

 ここではないどこか。例えば、家出でもするように一人で知らない土地に行けるのだとしたら、俺はそれを選ぶだろうか。もちろん、答えは出ない。変わりたいのか変わりたくないのか、そんなことさえ決められない。フユのほうがよほど“まし”だ。少なくとも彼女は何かを変えたくてあの浜に身投げを試みたのだから。

「変わりたいのか変わりたくないのか。この国も似たようなことになっている。そうしているうちに二〇世紀が終わる」

 黒色のロングコートの裾が海風にはためく。ナガマキは丸眼鏡ごしに遠く灰色の海を見つめ、そう呟く。ただの研究者だ、と言っていたが、俺にはそんな風にはとても見えない。


 そういえば。

「人魚?」

 俺はこの前に彼が見ていた本について訊ねてみた。半分は、ナガマキが本当に研究者なのか探りを入れるため。もう半分は、純粋な興味。

「興味があるなら一緒に図書館にでもいくかい? と言いたいところだが――まあ、いいだろう」


―――


 家に戻るなり、母親が驚きの声を上げた。熱心とはいえない息子がみずから“ベンキョー”をしようと言うのだ、無理もない。

「漫画やらゲームやらでもよく取り上げられるから、どんなものかというのは知っているだろう。世界各地にも似たような話があって、女性ばかりでなく男性もいたりする。その形も様々だ」

 母親が“サービス”のコーヒーをナガマキの前に差し出す。ナガマキは礼を言い、煙草に火を付ける。

「女性型が多い――とは一概に言えないが。だが、そうだな。海にまつわる伝説上の存在は人魚だけじゃない。セイレーン、ローレライ、ウンディーネ。古来から人々は海と共にあった。海から得る恵み、あるいは災難。それらは、そういったものを伝えるために生み出された存在なのだとも言われる。誰だって、醜悪な怪人よりは美女のほうが“盛り上がる”だろう?」

 そう言うとナガマキは、ふ、と口の端を上げた。

「上半身が美女で下半身が魚。いわゆる典型的な“マーメイド”のイメージだが、あれは日本に元々あったものじゃなく、海外から伝えられた形がそのまま定着したものと言われている。だから外見は時代と共に大きく変わる。だが人魚伝説そのものは遙か昔からあった。海や水にまつわる吉兆と共にね。俺はそれを調べているんだ」

 そういえば、前に“人魚の肉”を食べると不老不死になれると聞いた事がある。

「ああ、八百比丘尼の伝説か。もちろん魚といえば食べるものだから、人魚の肉にまつわる話も多くある。海からもたらされた恵みとして――大抵はこの世のモノではないくらい美味だったり、それで不思議な力を手にしたり、という話に繋がる」

「ヤオビクニ?」

 横から母が口を挟んできた。

「聞いた事あるわ。小さい頃に私と妹で佐渡のおじさんのところに行った時にね、死ねなかった女の人の伝説があるって、そこにいたお年寄りの人が御伽話を聞かせてくれたの。変な名前のひとだなんて、私達は笑っていたけれど」

「興味深いお話です。後で詳しく聞かせて頂いても良いですか」

「ええ」

 二杯目のコーヒー、三本目の煙草に手を付け、ナガマキは続ける。

「伝承によってオチは色々ある。魚は人々の前に突然姿を現すものだったり、網にかかっていたり、偶然に浜に打ち上がっているところを見てしまったりする。そこで人魚は何らかのお告げをする。こうしないと災いが来るだとか、こうすれば幸せが訪れるだとか。人々はそれに従ったり、あるいは無残にも殺して食べてしまったり、だ。そもそも浜に流れ着くのを見たものの、人々は何もできず、腐っていく例なんてのもある。よく浜にクジラやイルカが打ち上げられているニュースがあったりするだろう? ああいうものとの結びつきだろうな」


 フユは――自ら望んで浜に“打ち上げられ”た。あるいは、知ってか知らずか、人間の前に姿を現すべくして来たのか。


「人魚が浜に現れる時は世の中に何らかの吉兆、凶兆が訪れる時だと言われている。――なあトウヤくん。もしこの街に“人魚”が現れたら教えてくれないか。俺は人魚を探しているんだ」

 ナガマキの丸眼鏡が、照明にあてられて反射する。冗談を言っているにしては、その顔は笑っていなかった。

「……なんてな。だが今はこんな世の中だ。そろそろ現れてもおかしくない時期かもしれないぞ」


―――


 数日後。珍しく薄曇りの昼過ぎ。


 俺はスケッチブックと鉛筆を何本か持って浜に来た。今日に限って海風が強くないのは幸いだ。

「ええと。どういうポーズすればいいんでしょう」

 フユは照れたように頬をかきながら、身体をむずむずさせている。そのへんに腰掛けるための岩でもあれば“サマ”になるのだが、あいにく何もない。仕方ないので普通に腰を下ろしてもらう。


 人物描写なんて、どれくらいぶりだろうか。


 フユと出会って二週間。きっかけは彼女の一言だった。本当は美術系に進みたかった、なんて身の上話をしてしまったのが事の始まりだ。

「私のこと、描いてくれませんか?」

 どうせ暇ですし、と余計な一言をくわえて、フユはそう言った。事実、俺達は暇だった。死に損ないの人魚と、予備校をサボる俺。時間はいくらでもあるように思えた。

「なんか緊張しますねこういうの。で、本当は、脱いだほうがいいんですよね?」

 フユは何かを勘違いしていた。

「ああその、恥ずかしいとかそういうのじゃなくて、いやそりゃ恥ずかしいですけど」

 モデルと言えば脱ぐもの、と思っているらしい。

「でも、私、コレ、脱げないんです。だから、ちょっと、その。ごめんなさい」

 なぜウェットスーツを脱げないのかが気になったが、彼女は口をつぐんだ。そうまでして理由を追求するものでもないので、それ以上は何も言わなかった。

 真珠の首飾りも貝殻の水着もない。ただ寒々しい色のウェットスーツをまとった人魚。

 改めてフユの顔をじっと見る。化粧っ気のない顔は年下のようにも年上のようにも見え、その白い肌にはシミ一つもなく、潤いをたたえている。大きめの瞳。小さな鼻と口。


 波音だけを聞きながら、俺は鉛筆を走らせていく。


―――


 ――人魚といえばこんな話もあったな。熊本あたりの話なんだが。


 俺はナガマキから聞いたひとつの話題を思い出していた。曰く、世の中に吉兆や凶兆が起きる前、それは海から現れ、こんなお告げを伝えるのだという。“自分の姿を絵に描き、それを世の中に広めよ”と。


 ――それほどメジャーな話ではないし、瓦版か何かの製作者が作った創作ネタじゃないかって話だがな。


 描いた絵を広めてどうなるのかと聞くと、ナガマキは笑って言った。


 ――それが、特に何が起きるとは書いてないんだよ。


―――


 描き始めてからしばらくして、俺は妙な既視感にとらわれていた。まったくの他人のはずなのに、目元、顔立ち、そのどれもが“何かに似ている”。まるで見たことのある顔を描くように、鉛筆の先は滑らかにその形を紡いでいく。既視感の正体は分からない。けれども、まじまじとフユの顔を見ていると、誰かを思い出すような感覚がある。


 これは。

「トウヤさん?」

 ふと顔を上げると、不安げにこちらを見るフユの顔があった。

 そうだ、その顔だ。何かに似ている。

「大丈夫です? なんか、目が少し怖いように思えて」

 俺は大丈夫だと返して、再びスケッチブックに目を落とす。


 それから数十分。久しぶりに描いたとは思えないくらい、絵は素早く描けた。それは時間を忘れるくらいに――気づけばあたりは暗くなり、海風も再び強さを増してきた。


―――


「あはは。こんな顔してたんですね、私」

 スケッチブックを見ながら、フユはけらけらと笑った。

「だいぶ美人に描いたつもりです?」

 似顔絵を描いたわけじゃない。元々は風景画ばかり描いてきた。だから、今回も見たままに描いただけだ。そう言うと、フユはもう一度、じっくりと絵を見て、今度はどこか懐かしそうな顔をした。

「自分の顔って、久しぶりに見たような気がします」

 渡そうか? と言うと、フユは首を横に振った。

「いえ、私が持っててもどうにかなるものでもないですし、あとやっぱりちょっと恥ずかしいですし。これ、トウヤさんが持ってて下さいよ」

 一度日が落ちれば暗くなるのも早い。そろそろ帰るよ、と言いかけた瞬間、フユは突然その場にうずくまり、激しく咳き込んだ。荒く不規則な呼吸を繰り返し、胸元あたりを押さえている。大丈夫か、と背中に触れた時、指先に硬いものがあたる感触があった。ちょうど背骨の、脊椎のあたり。骨ではない――これは――鉄球?


「だっ、大丈夫……大丈夫です」

 身をよじらせて、フユはそこから退く。

「ちょっと……その、海風が染みただけというかなんというか……そんな理由です。心配かけちゃってごめんなさい」

 本当に大丈夫なのだろうか。

「特に、病気とかじゃないです。噎せただけなんで。本当、大丈夫なので。だから」

 心配なのは確かだが、同時にどうしようも出来ないことも分かっている。

「また来て下さいね。私、次のごは……じゃなかった、トウヤさんのこと、ずっと待ってますから」

 俺は頷く。そして次は何が食いたいか、と訊ねる。


「あったかいものがいいです。でも、こんな天気じゃ、すぐ冷えちゃいますよね」


 夜の闇はより濃くなっていく。

 灰色の景色は暗闇に染まり、海岸線の先に見える発電所の排気塔が航空灯の赤い光を瞬かせていた。

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