シーサイド・マーメイド・スーサイド

黒周ダイスケ

私、人魚なんです。

「私、人魚なんです」


 長い髪が風に巻き上げられる。それを手で押さえながら、彼女は笑った。


―――


 昼も夕も分からないほど低く垂れ込めた曇り空。日本海から吹き荒れる冬の海風。足下には、泡立ちながら押し寄せる濁った波。流木、海藻、そしてハングルやキリル文字の書かれたペットボトルといったゴミが流れ着く浜。

 空。海。浜。すべてが灰色の、モノクロームの景色。“あちらとこちら”の境目。


 日本海沿いの、よくある地方都市。俺の住む街。その外れ。防風林を抜けて少し歩いた先に、この浜はある。落書きだらけで朽ちた海の家の廃墟、アスファルトから雑草の伸びた空き地(かつては駐車場だったらしい)――そういうものがある、かつては海水浴場だった場所。


 “あの事件”から年月が経ち、多くの人々は既に興味を無くした。原因を追及していた団体も、いまでは主立った活動をしている様子はない。この浜も封鎖こそ解かれたものの、わざわざこんな“いわくつき”の場所で泳ごうとする人間はいなかった。そのうちに浜はゆっくりと朽ちていった。肝試しにもデートスポットにもならない海水浴場の骸。地元の人間、特に俺達くらいの世代がここに抱いている認識は、せいぜいその程度だ。


―――


 年の瀬が迫る1998年、十二月初旬。俺は今日もそこにいた。


 海岸線は遠くまで続き、山を挟んだ向こうには物々しい“発電所”がある。ここからでもあのデカい排気塔がよく見える。そこから伸びる送電線と鉄塔は白く霞み、浜はうっすらと積もった雪で汚いマーブル模様を作っている。


 もしも突然ここで俺が消えたらどうなるのか。砂浜で佇む時、たまにこんな妄想をしている。両親は嘆き、街は騒動になるだろう。べつに自殺願望があるわけではない。けれど、海の泡のように、この世からふっと消えることができたとしたら――と思ったことは何度かあった。この浜は死んでもいないが、だからといって生きてもいない。まるで“こちらとあちらの境目”だ。あの事件のことも相まって、ここにはそう思わせる何かがあった。そんな空気にこの身を曝したくて、俺はたまにここに来る。もちろん、誰にも言わずに。


 そしてこの日。まるでその“海の泡”から出てきたかのように、あのウェットスーツの女は――フユは俺の前に姿を現した。


―――


 年の頃は俺と同じ十八歳程度か。海風で湿気た長い黒髪。ウェットスーツでシルエットが強調された、小さな背丈と細い手足。化粧っ気のない無垢な顔つき。最初はただのサーファーかと思った。こんなところで波乗りをする地元民など聞いた事がないから、県外から来た人間なのだろうとも。ところが。

「あの海の向こうから来たんですよ」

 県外どころか――海から来たという。


「私、人魚なんです」


 長い髪が風に巻き上げられる。それを手で押さえながら、彼女は笑った。


 もう片方の手に、買ってきてやったばかりの鮭おにぎりを握りしめながら。


―――


 時刻は昼過ぎ。

 誰もいるはずのない浜。その真ん中に女は座っていた。座って、ただ灰色の海を見ていた。


 目を合わせなければ、放っておけば、巻き込まれることもなかっただろうか。

 だが先に気づいたのは向こうだった。女は俺を見るなり駆け寄って来て、俺に食料を買ってこいと要求した。

「突然こんなこと言っちゃってごめんなさい。お腹空いちゃって。でも私、ここから離れられないんです。海の傍でないと生きられないので」

 俺はこの女――自らをフユと名乗った――をヤバい奴だと警戒した。放って帰るのが最適解なのだろうが、次に浜に行った時に死んでいても寝覚めが悪い。俺も腹が減っていたので、結局、近くのコンビニでおにぎりを二つほど買った。鮭と昆布。フユは鮭を選ぶ。

「ありがとうございます。……これは」

 フユはしかしフィルムに包まれたままのおにぎりをじっと見つめ、何かに悩んでいた。聞けば、開け方が分からないという。適当に開けて海苔を破きはじめたので、慌てて取り返し、正しく剥いてやる。フユはたかがそれだけのことに感動したらしく、大きな瞳はキラキラと輝いた。

 ――そういえば、俺の母親もおにぎりのフィルムを上手く剥けなかった。いわく「仕組みがよくわからない」らしい。


 ともかく、このウェットスーツを来た“人魚”は、そうして渡した鮭おにぎりをあっという間に平らげてしまった。海苔がパリパリなままなのは感動的ですらあったらしい。俺はそれを見ながら、魚が魚を食うのはどうなんだろう、と、どうでも良いことを思ったりした。

「人間の社会って便利になっているんですね。おにぎりがこんなことになってるなんて」

 人間の社会、と来た。まるで本当に自分が人魚であるかのような口ぶりだ。もちろん、フユが本当に人魚だなんて信じているわけではない。頭のおかしい女。突然俺に食事をたかる、ウェットスーツの自称人魚。

「トウヤさん、とおっしゃいましたっけ」

 名前を呼ばれ、俺は頷く。

「私、しばらくこの浜にいます。もしよければ――また、ご飯を持って、来てくれます?」


 こうして、俺の“お気に入り”の場所に、腹を空かした変な女がうろつくようになった。


 これが12月はじめのことだ。


―――


 今年の三月。大学受験に失敗して、俺はこの街に取り残された。


 俺の高校では、進学するクラスメイトの大半が東京へ出た。たとえ同じ県の大都市部にある国立大に行ける学力があるとしても、多くの人間は東京の私立大に出ることを選んだ。俺だってそうしたい……と言いたいところだったが、なんだかんだ、俺はこの街にいた。結局は実家に留まったまま地元の予備校通い。年明けの試験の結果は限りなく厳しい予測。それでも未だ危機感は薄い。

 本当は芸大に行きたかった。小さい頃からの夢だった。けれどそんなメシの食えない職業ではやっていけないと俺は自分で決めつけた。今の希望は適当な文系大学だ。この街を出て行きたいのか、それとも現状を維持したいのか。変わりたいのか、変わりたくないのか。本気で夢を追いかける気力があればこうはなっていなかったのだろうか、それともどうしようもなかったのだろうか。わからなくなるたびに、俺は時折予備校をサボり、浜をぼんやりとぶらついている。


「なるほど。ヨビコーセーさん? ですか」

 とはいえ、はっきり言われるとそれなりにキツいものがある。

「でも、いっぱい勉強できるって、いいことじゃないですか。私も、機会があれば色んなことをたくさん学びたかったなって」

 海にも学校があるなんて、はじめて聞いた。

「ええと、その。いえ、いえいえ、ありますよ。ありますとも! イルカとかラッコとか、そういうクラスメイトがいるわけです。こう言ってはなんですけど、私、けっこう人気者だったんですよ。女の子の……いえ、“人魚”って珍しいですから。――みんな、どこかに行ってしまいましたけどね」

 どこかに?

「そうです。海のガッコーが終わって、仲の良かったコも、そうじゃなかったコも、みんなバラバラになりました。どこかに。みんな、自分の役目を果たしに。私もそうですけれど」

 海風にはためく髪を押さえもせず、フユは灰色の海の向こうを見つめて呟いた。


 あれから数日。俺はまたこの浜に来ている。コンビニで、二人分の食料を買って。


―――


 夕暮れ過ぎ。


「おかえり。ずいぶん遅かったじゃない」

 扉を開けると、コーヒーの香りと共に母親が俺を迎えた。カウンターの向こうからは、しゅうしゅうとコーヒーを淹れる音がする。母親は俺が予備校をサボらず、きっちりと通っていると思っている。そのあたりを探られるのが嫌で、俺は軽く会話を交わしてから自室に戻ろうとした。

「やあトウヤくん」

 ボックス席には一人の男がいた。丸眼鏡をかけた、特徴があるともないともいえない、どこか掴み所のない顔をしたコート姿の男――ナガマキだ。現れたのは数ヶ月前。それからここの常連になったようで、二、三日に一度は来店して、必ず三時間ほどいる。そしてコーヒーを必ず三杯頼み、煙草を必ず五本吸っていく。


 店の隅には小さなブラウン管テレビがあり、夕方のニュースが流れている。

 ソ連がまたしても核実験を実施。……先月に続き核実験はこれで……本日午後の会見で……日本は遺憾の意を表し……これを非難。国連は……対策と……事実上の最高指導者である……に対し――。

「嫌ね、戦争が始まったらどうしようかしら」

 テレビのニュースはいつも物騒なことしか言わない。ナガマキはテレビを見ようともせず“四本目”の煙草に火を付ける。


 俺はそこで彼の持っていた本のタイトルに目が行き、思わず足を止めた。『人魚伝説と民俗史』。表紙にはそう書いてあった。

「ああ。これか。トウヤくん、大学の希望は確か文化人類学だと行っていたね。興味があるのかい」

 ずいぶん前に世間話をした程度だというのに、よく覚えているものだと関心する。ナガマキはどこかの学者か研究者だという肩書きで、最近はここでフィールドワークとやらをしているらしい。研究者ならそれくらいの記憶力がある、ということなのだろうか。

「この街には色々な民話があってね。実際にそういう昔話を人から聞いたりしつつ、こういう本で見識を深めながら論文を作っていく。地味なものだよ、実際のところは」

「地味でもなんでも、お仕事にされてるなら立派なものじゃないですか。トウヤにも、地に足のついた仕事をしてもらいたいんですよ」

 母親は“三杯目”のコーヒーを淹れながら俺のほうを見る。俺はなんとなく居たたまれなくなって、そそくさと自室に戻っていった。


 ――俺の家は街の外れで喫茶店を営んでいる。

 父親を早くに亡くし、今は母親と俺の二人暮らし。母親は、父の遺した喫茶店を一人で切り盛りしている。決して多いとは言えない収入で、ここまで育ててくれた恩は感じている。そして、留年していることへの引け目も。でも……それでも、どうにもならないことはある。

 自室にはしばらく使っていない画材と書きかけの風景画。もう半年も放置したままだ。“しょう来のゆめはげいじゅつ家”。そんな夢を口にしていた頃が遙か昔のことに思える。そういえば、父親は本気でそれを応援してくれていた。芸術には世界を変える力がある。そんなことも言っていた。


 1998年十二月。間もなく新しい世紀を迎え、そして夢の21世紀が来る。

 あるいは終末の時が来るとも、誰かが言っている。


 けれど、まだ世界が変わる様子はない。

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