第2話

 仲村トオル 伊達政宗

 西島秀俊 伊達成実

 沼田爆 留守

 根本はるみ 愛姫

 野村宏伸 鬼庭綱元

 羽場裕一 支倉常長

 平田満 魚住円蔵 政府高官

 吹越満 北条氏政

 


 綾瀬はるかに似た、桜は青葉城を眺めていた。慶長年間に伊達政宗が築城してから、廃藩置県・廃城令までの約270年に渡り伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁であった。二代藩主伊達忠宗の代に完成した仙台城は約2万坪で、大藩にふさわしい大規模な城であった。


 地震などによる損害を受けながらも修復を繰り返し、奥羽越列藩同盟盟主として戊辰戦争を経るも、一度も戦火を見ることなく城としての役割を終えて、明治維新を迎えた。その後は明治から大正にかけて陸軍用地となり多くの建築物が解体された。数少ない遺構であった大手門、脇櫓、巽門は国宝(旧国宝)に指定されていたが、第二次世界大戦時の仙台空襲により焼失した。現在では、宮城県知事公舎正門に転用された寅の門の部材が残るのみである。


 仙台城跡の土地の権利関係は複雑であり、仙台城跡のうち仙台市が所有している区画(青葉山公園)はごく一部である。戦前の経緯から宮城県護国神社や国立大学法人東北大学が所有している区画が多く、現在でも本丸と二の丸の中に境界が存在している。


「青葉城」という雅称を持ち、宮城県護国神社は当地を「青葉城」または「青葉城址」と呼称している。一方、青葉山公園として当地を管理している仙台市は「青葉城(青葉城址)」ではなく「仙台城跡」と呼称している。2003年に国の史跡「仙台城跡」として登録される前は「仙台城址」とも呼称され、現在でも青葉通地下道の案内等に名残がある。このため同一の城跡でありながら複数の案内表記が存在しており、両者を併記する例も見られる。


 三の丸にある仙台市博物館の周囲には堀や石垣が見られる。ここから徒歩で青葉山の山道を登っていくと、山頂に築かれた巨大な本丸の石垣が目の前に現れる。本丸からは、東方面に仙台市中心部と仙台平野、天気が良ければ太平洋まで一望することが出来る。北方面の二の丸跡地は現在は東北大学の敷地となっているが、このうち東側の東屋付近とロータリーの北東部分は同大学ではなく仙台市が所有する青葉山公園の飛び地となっている。


 仙台城は近世に伊達家が居城とした城郭である。仙台城ではないが、近世以前にも青葉山には城があったともいわれ、岩切城合戦を記した文書にある「虚空蔵城」は現在の仙台城の場所にあった山城という説もある。


 石垣の北面に入り口である詰門があり、本丸の中央に中核的な施設である本丸御殿、周囲には、詰門両脇に2基(西脇櫓・東脇櫓)、北東部には1基(艮櫓)、眺瀛閣の南に1基、計4基の3重櫓、1基の二重櫓、多門櫓などが建ち並んでいた。本丸御殿は北側に公式な御殿である大広間、南側に藩主の生活空間である奥御殿が配置されていた。430畳の大広間は金碧障の壁画で飾られ、聚楽第の大広間と類似した設計であった。大広間には藩主が座する上段の間の上に将軍専用の上々段の間があり、将軍が訪れたときにのみ開かれる御成門まで準備してあったが、最後まで訪れることはなかった。大広間の東側には清水の舞台のように崖に迫り出すように作られた懸造の眺瀛閣ちょうえいかくがあり、仙台の城下を一望できた。1639年(寛永16年)の二の丸御殿の完成後は本丸が使われることは少なかった。


 仙台城は2003年(平成15年)に国史跡となっているが、2012年(平成24年)に本丸跡の一部が国史跡に追加指定された。


 本丸北東部に位置する艮櫓を復元する計画があったが、石垣保存問題と国の史跡指定地であることなどを理由に2003年に中止となった。


 本丸に自家用車や観光バスなどで来た場合は裏側にある埋門うづみもん跡から入ることになる。


 桜は青葉山公園にやって来た。宮城県仙台市青葉区にある都市公園である。仙台市が管理している。青葉山の東端から広瀬川右岸にかけての部分を敷地とし、仙台城(青葉城)の跡地の一部やその堀である五色沼、長沼を園内に含んでいる。また、仙台市博物館や仙台国際センターといった公共施設が園内に立地している。仙台城の本丸跡からは仙台の街並みや、遠く太平洋を眺めることができる。

 鎧兜の格好をした4人の男に囲まれた。西島秀俊、沼田爆、羽場裕一、野村宏伸に似ていた。桜は時代劇の撮影かと思ったが、そうではなかった。4人は伊達政宗の重臣で、戦国時代で巨大な地震に襲われ、亀裂に落ちてこっちの世界にやって来た。

 野村宏伸に似た、鬼庭綱元は女に飢えていた。

  

 天文18年(1549年)、伊達郡小屋館(赤館)城主・鬼庭良直(左月斎)の嫡男として生まれる。


 天正3年(1575年)、父の隠居にともない家督を相続し、長井郡川井城主となる。天正13年11月(西暦では1586年1月)の人取橋の戦いで、父・左月斎は殿軍を務め主君・伊達政宗を逃がすために奮戦し討死にした。天正14年(1586年)には奉行職に任ぜられ、天正16年(1588年)には安達郡百目木城主となり所領を5,000石に加増された。


 天正18年(1590年)、奥州仕置にともなう知行再編により柴田郡沼辺城主となる。同年に発生した葛西大崎一揆を政宗が煽動していたことが露見すると、豊臣秀吉への弁明のために京に派遣され、以後秀吉との折衝役を務めることになる。


 天正19年(1591年)に政宗が岩出山に減転封されると、磐井郡赤荻城主となった。文禄元年(1592年)、文禄の役の際には肥前国名護屋に在って留守居役を務める。この時、秀吉が「鬼が庭にいるのは縁起が悪い」という理由で、姓を茂庭に改めさせたという。同年、長男・安元が病死したため、八幡氏に養子に出していた二男・良綱(良元)を呼び戻して跡取りとした。


 秀吉が綱元を気に入り直臣として召し出そうとしているとの噂を耳にした政宗は、次第に綱元を疑うようになり、ついに文禄4年(1595年)、綱元は政宗の命により良綱に家督を譲ることを迫られ隠居に追い込まれた。この時、綱元に与えられた隠居料はわずか100石に過ぎず、加えて隠居料以外の収入を得た場合には良綱が相続した茂庭氏の本領5,000石をも没収するという条件が付けられたため、憤激した綱元は伊達家から出奔した。


 この時、本多正信を介して徳川家康から誘いを受けたものの、政宗の奉公構により破談となる。綱元の境遇にいたく同情した家康は、中白鳥毛槍・虎皮の鞍覆・紫縮緬の手綱を贈り、また当座の資金として関八州の伝馬10疋の朱印状及び永楽銭200貫文を与えた。中白鳥毛槍は現存し、昭和48年(1973年)7月1日に松山町から文化財指定を受けている。


 慶長2年(1597年)、赦免されて伊達家に復帰する。


 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、山形城主・最上義光への援軍第一陣として留守政景の指揮下に入る。綱元は政景の命により別働隊を率いて長井方面へと進攻し、9月25日に刈田郡湯原城を攻略すると、さらに二井宿峠を越え高畠城へと向けて兵を進めていたが、政宗の命令により、突如として屋代景頼らと共に福島表の兵力不足を補うために呼び戻され、10月6日に上杉家重臣の本庄繁長が籠城する福島城攻めに参加するも攻略には失敗している。


 同年末、隠居料として改めて栗原郡文字に1,100石を与えられる。慶長6年(1601年)9月に政宗が上洛する際には、すでに普請が始まっていた仙台城の留守居役を任され、さらには父・左月斎が伊達輝宗の代に務めていた評定役 に就任し、六人制の奉行職(古田重直・鈴木元信・山岡重長・津田景康・奥山兼清・大條実頼)の上に立ってこれを指導・監督した。翌慶長7年(1602年)には、政宗がかつて秀吉から賜った愛妾・香の前を下げ渡され、政宗と香の前との間に生まれた一女一男(津多・又四郎)は、綱元の子として育てられることになった。


 慶長9年(1604年)、政宗の五男・宗綱(卯松丸)が栗原郡岩ヶ崎城主になると、評定役の職に留まったままその後見役を命じられた。宗綱は仙台城下の綱元の屋敷で養育され、岩ヶ崎城下には城の管理にあたっていた綱元の家来達が住む町場(茂庭町)が置かれた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では政宗の長男・秀宗の陣に属し、翌慶長20年(1615年)2月、秀宗に伊予国宇和島10万石が与えられると、綱元は良綱と共に宇和島に赴いて宇和島藩の統治機構の立ち上げにたずさわり、同年4月の大坂夏の陣には宇和島城から出陣した。


 元和4年(1618年)に宗綱が早世すると、その菩提を弔うため入道して了庵高吽と号し、高野山成就院に赴き三年間にわたって供養を行った。帰国後、政宗より宮城郡下愛子の栗生に館を拝領すると、以後はここに居住した。寛永13年(1636年)5月24日に政宗が死去すると政務を離れ、栗生の館を五郎八姫に譲って隠居領の文字に隠棲する。翌年には同地に洞泉院を創建し、その境内に政宗のために阿弥陀堂を、宗綱のために妙覚堂を、それぞれ建立した。


 政宗の四回忌にあたる寛永17年(1640年)5月24日死去。享年92。洞泉院の石仏を以て墓石とした。隠居領は三男の実元が相続した(着坐・文字茂庭氏)。


「麗しいオナゴじゃ!胸もませろ!」と、綱元。

「はしたないぞ」と、西島秀俊に似た伊達成実が窘めた。

 成実は兜には毛虫をかたどった前立をつけていた。これは「決して後ろに退かない」という毛虫の習性にあやかったものだという。


『政宗記』によれば、人取橋の戦い後、渋川城に逗留していた折に、近習が誤って鉄砲用の火薬箱の中に火を落としてしまい、城が全焼した。この火事で成実は右手の指が全てくっついてしまうほどの大火傷を負い、生涯そのままだったという。帰参後は政宗との関係も良好であったようで、政宗から成実への「別に用はないが、この頃逢っていないから手紙を書いた」という内容の書状も残されている。


 片倉景綱に代わって亘理城(亘理要害)に入り、亘理郡のうち23か村、611貫356文(5,095石)を拝領した。


 復帰後の成実は、慶長11年(1606年)の政宗の娘・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝の婚礼の際の使者や、慶長19年から20年(1614~15年)にかけての大坂の陣参陣、元和8年(1622年)の最上氏改易にともなう野辺沢城接収など数々の大役を担う。政宗没後、第2代藩主・忠宗の下でも家中の長老として重きをなし、寛永15年(1638年)、前年に藩内で発生した洪水への対策費用として幕府から銀5,000貫を拝借した件の御礼言上のため、忠宗の名代として江戸に赴いた。この時饗応の席において奥羽での軍談を所望された成実は、仙道人取橋の合戦を物語り、御簾を隔てて聞いていた将軍・徳川家光に感銘を与えたという。


 こうした対外的役割を果たす一方で、成実は所領の開発・復興策を強力に推し進めた。農政面では灌漑設備の充実を図り、12世紀に開かれた旧来の岩地蔵用水の全面的改修に加え、伊具郡東小坂の取水口(小坂堰)から亘理郡八手庭に至る鳩原用水を新設した。また、沿岸部の耕作に適さない地域を活用するため、牡鹿郡長渡浜(現:石巻市)から技師を招き、鳥の海の周囲4か所(鳥屋崎浜・箱根田浜・長瀞浜・大畑浜)に塩田を開いた。のちに宇多郡10か村(現:新地町域)に計200貫を加増された際には新沼浦沿岸(今泉浜・今神浜)にも塩田を開いている。


 寛永21年(1644年)に行われた寛永総検地の結果を受けての知行再編において一門の所領の上限は2,000貫(20,000石)までに設定されたが、亘理領は算出された貫高が拝領時のほぼ倍額に達しており、二割出目を掛けて旧基準値の6分の5のに減らして計算してもなお2,000貫を超過したため、表面上は加増ながらも逆に知行地の一部を収公され、亘理郡のうち23か村、宇多郡のうち10か村、伊具郡のうち1か村、胆沢郡のうち2か村で計2,000貫とされた。なお、成実の代に実施されたこれらの施策によって、成実没後も新田開発はますます進み、亘理伊達氏の最終的な表高は2,435貫302文(24,353石)にまで達した。


 唯一の男子である小僧丸は早世していたため、正保3年(1646年)2月9日、従甥でもある養嗣子・宗実に家督を譲り、同年6月4日に死去。享年79。

 

「にしても、ここはどこじゃ?おかしなカッコをした者たちがたくさんおるぞ」と、羽場裕一に似た支倉常長が言った。コートにジャンバー、ジーパン。どれも常長が見たことがないものだ。

 支倉 常長1571年〈元亀2年〉‐ 1622年8月7日〈元和8年7月1日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての日本の武将(仙台藩伊達氏家臣)。幼名は與市、初名は六右衛門長経、キリスト教洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ・ファセクラ。

 しかし、エスパーニャやローマまで訪れた常長であったが、この時既に日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、それが欧州に伝わりつつあったこともあって通商交渉は成功することはなかった。常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国した。


 こうして遥々ローマまで往復した常長であったが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本では既に禁教令が出されていた。そして、2年後に失意のうちに死去した。棄教したとも言われたが、遣欧使節に加わっていたルイス・ソテロ神父が1624年に九州で書いた手紙では、常長は「敬虔のうちに死去」して宣教師の保護を遺言したと記している。


 常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所 ( 仙台市青葉区北山にある光明寺( 北山五山の1つ )、川崎町支倉地区の円福寺、そして大郷町の西光寺 ) 存在する。


 その後の支倉家は嫡男常頼が後を継いだが、寛永17年(1640年)、家臣がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され断絶した。しかし寛文8年(1668年)、常頼の子の常信の代にて許され家名を再興した。その後、第10代当主の代まで宮城県黒川郡大郷町に、第11代から現在の第13代支倉常隆、そして第14代支倉正隆に至るまで、宮城県仙台市に居を構え続けている。また、支倉常隆は日本国内ならびに世界各国を周って先祖の常長の功績を伝え、現在はその子正隆が引き継いでいる。大正13年(1924年)、正五位を追贈された。

 

『GTO』のじーちゃん先生を演じていた沼田爆は大学中退後、劇団四季に入団。

 四季退団後、仲間と劇グループ「仮面座」を結成して主宰を務めていた。

 その後、25歳でテレビの世界へ飛び込んだ。

 芸名は爆弾に由来するものであり「本名は平凡だから、せめて芸名はパンチを効かせたい」として名付けたという。

 代表作は『鬼平犯科帳』シリーズでの同心・村松忠之進役。役柄の影響もあり、自身も料理番組に時折出演している。

 本人の人柄からなのか「編集の際には尺が合わないと真っ先にカットを頼まれる」らしい。

 趣味はジャズ、特技はパントマイム。

 沼田爆似の武将、留守 政景は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。伊達 政景の名でも知られる。伊達氏の一門で、留守氏18代当主。居城は初め岩切城(高森城)、後に利府城。官位は従五位下・上野介。

 天文18年(1549年)、伊達晴宗の三男として誕生。永禄10年(1567年)、父・晴宗の政略によって留守顕宗の養子となり、奥州の名族・留守氏を継ぐことになった。その後、村岡氏や余目氏の反抗を鎮圧すると共に、兄・輝宗や甥・政宗を補佐し、実家の伊達氏の勢力拡大に貢献し、各地を転戦する。


 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず、所領を没収された。同年、岳父・黒川晴氏が政宗のために拘禁されると、その助命を嘆願し、許された。その後、文禄の役にて朝鮮へ渡海して出陣した。帰国後は正式に伊達氏一門に加わる。


 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、政宗の命により伊達軍総大将として、上杉景勝の攻撃を受けていた最上義光の救援に赴いた。小白川[1]に着陣し、撤退する上杉軍を率いた直江兼続と交戦。戦後の伊達政宗の書状によると伊達勢で80~100の首級を取り、一門でもある大條実頼が負傷するほどの激戦であったという(長谷堂城の戦い)。


 後に政宗より伊達姓に復することを許され、慶長9年(1604年)、一関2万石を与えられた。


 慶長12年(1607年)、死去。享年59。菩提寺は岩手県奥州市水沢の大安寺。同寺には4人の殉死者と共に描かれた、極めて珍しい肖像画が残る(慶長15年(1610年)虎哉宗乙賛)。


 長男・宗利は金ケ崎城主、その後水沢城主となり、仙台藩の一門である水沢伊達家の祖となる。


 政景は青葉城から立ち去り情報を集めた。

 自衛隊という存在を知った。戦車や戦闘機などの強力な兵器の存在を知った。また、桜は政府高官の魚住円蔵の娘だった。魚住は『蒲田行進曲』でヤスを演じた平田満に似ていた。

 政景は「可愛い娘を助けたければ戦車や銃を我らに差し出せ」と魚住を脅した。

 

 伊達成実は9mm拳銃を装備した。1982年に自衛隊が制式採用した自動式拳銃。海外ではMinebea P9とも呼ばれる。自衛隊が採用したP220は、前方が角張って後部の滑り止めの溝が幅広となったプレス製スライドの中期型である。他には、マガジンキャッチはレバー式となっている。


 使用する弾薬は9x19mmパラベラム弾(自衛隊での名称は9mm普通弾)であり、軍用であるため、ハーグ陸戦条約に準拠したフルメタルジャケット弾となる。弾頭先端は平たい形状になっている。普通弾以外にも空包やフランジブル弾が採用されている。


 ライセンス元であるP220が、アメリカへの輸出を考慮して.45ACP弾を使用可能なサイズで本体やマガジンが設計されているため、口径9mmで弾薬が一列に装填されるシングルカラムマガジンを用いる拳銃としてはグリップの前後長が大きい。.45ACP弾より全長の短い9mmパラベラム用のマガジンは、後部にU字型のインサートが溶接されている。


 綱元はSIG MPXを武装した。シグ・ザウエル&ゾーン社のアメリカ合衆国現地法人SIG SAUER社が設計した短機関銃である。

 9x19mmパラベラム弾仕様のサブマシンガンであり、AR-15とH&K MP5の中間のようなデザインをしているのが特徴。


 作動方式はH&K HK416のようなロータリング式ガスピストン機構とクローズド・ボルトであり、 発射速度は毎分850発になっている。


 常長はMK3手榴弾を手に入れた。アメリカ合衆国で開発された攻撃手榴弾。アメリカ軍や陸上自衛隊で採用されている。

 MK3は、M67のような破片手榴弾(防御手榴弾)ではなく、攻撃手榴弾として設計されている。すなわち、TNT爆薬の爆発により発生した衝撃波によって敵兵の無力化(殺傷)もしくは制圧を狙った設計になっている。金属片を広範囲にばら撒く破片手榴弾よりも危害半径が小さく、接近戦でも友軍を巻き込む危険性が低い。水中で炸裂させても水圧によって兵士を殺傷することができ、いわば超小型の爆雷として機能するため、水中工作員(フロッグマン)などを殺傷ないし退散させるためにも使用されている。


 また、建物の破壊などの発破作業にも使用される。

 基本型のMK3とその改良型のMK3A1、MK3A2の3種類が存在している。外殻はいずれも金属製ではなく、MK3ではボール紙、MK3A1では防水積層紙、MK3A2では防水ファイバーで作られている。


 政景は戦闘防弾チョッキを手に入れていた。1992年に自衛隊で初めて本格的に導入されたボディアーマーである。戦闘装着セットの1つとして採用された装備で、アメリカ軍のPASGTをモデルとしているが、デザインは大きく異なる。

 生地に迷彩2型を採用しており、正面には89式5.56mm小銃の30発弾倉用のポケットが4つ(2本用と1本用が2つずつ)直接縫い付けられている。さらに、肩や首周りのアーマーが大型化され、背中上部に擬装用、下部に装具取り付け用のループが付くなど、自衛隊独自の改良が施されている。弾帯に装着する装備はすべて取り付けられるように工夫された設計だが、部隊では防弾チョッキの下や上からサスペンダーと弾帯をつけることが多く、防弾チョッキの弾倉収納ポケットやループはあまり使用されていない。


 小銃を構えた際、肩付け部に干渉しないように、右肩のパットだけ胸部まで大きくなっている。


 陸上自衛隊だけでなく、航空自衛隊も高射隊や基地警備隊用に採用している。また、派生型としてセラミックプレートを追加したタイプも存在し、第1空挺団で一時期使用していたほか、航空自衛隊のイラク派遣部隊も使用していた。


 価格は一着10万円前後といわれている。


 襟筋付近には専用のカバーが存在し、汚れた際に脱着し洗濯が可能。また、本体も基本的に水洗いは推奨されていないが、検閲や訓練などで泥汚れが付着した場合は水洗いしたうえで洗濯機による脱水を行う場合もある。


 さらに伊達軍は74式戦車を手に入れていた。陸上自衛隊が61式戦車の後継として開発、配備された国産二代目の主力戦車である。部隊内での愛称は「ナナヨン」。

 74式戦車は61式戦車の後継として開発された、第2.5世代主力戦車に分類される戦車。三菱重工業が開発を担当した。


 105mmライフル砲を装備し、油気圧サスペンションにより車体を前後左右に傾ける姿勢制御機能を備え、射撃管制装置にレーザー測距儀や弾道計算コンピューターを搭載するなど、61式の開発された時点では実現できなかった内部機器の電子化も行われている。軽量化のため内部容積を減らして小型化している。配備開始から装甲増加などの大幅な改修は行われていないが、新たな砲弾への対応能力が付与され戦闘力を向上させている。


 後継車輌として第3世代主力戦車である90式戦車が開発・生産されたが、こちらは北部方面隊以外では富士教導団など教育部隊にしか配備されていないため、全国的に配備された74式が数の上では主力であった。それでも年40輌程度の早さで退役が進んでおり、74式の更新をも考慮した10式戦車の採用や、同じ口径の砲をもつ16式機動戦闘車の採用など代替がすすんでいる。


 主砲にはイギリスのロイヤル・オードナンス社の51口径105 mmライフル砲L7A1を日本製鋼所がライセンス生産した物を装備しており、105 mmライフル砲用の砲弾は当初APDSとHEPを使用していたが、現在ではAPFSDS(93式105 mm装弾筒付翼安定徹甲弾)とHEAT-MP(91式105 mm多目的対戦車榴弾)を使用している。ほかに、演習用徹甲弾として00式105 mm戦車砲用演習弾と、空砲射撃用の77式105 mm戦車砲空包がある。砲は車体が傾いても砲自体は水平を保つ安定化装置を備えている。量産型には途中から、発砲の熱によるたわみを防ぐ目的で砲身にサーマルジャケットが着用された。


 旧防衛庁『仮制式要綱 74式戦車 XD9002』によれば、砲塔及び戦車砲の動力制御の最高速度は砲塔の旋回速度が約24度/秒、戦車砲の仰俯角速度が約4度/秒となっている。戦車砲の発射速度は初弾が概略照準後(レーザー測距による照準を完了した状態)3秒、次弾は初弾発射後4秒となっている。


 射撃の際はルビーレーザーによるレーザー測距儀とアナログ式弾道計算コンピューターを用いる。また、STB-1にはパッシブ式暗視装置が装備されていたが、コスト面からSTB-2以降では廃止され、アクティブ近赤外線式の暗視装置を備えることで、夜間射撃を可能としている。


 副武装として、12.7mm重機関銃M2を砲塔左側に、74式車載7.62mm機関銃を主砲同軸に各1丁装備する(12.7mm重機関銃M2は陸上自衛隊をはじめ、西側諸国で地上用、車両用、対空用を問わず広く用いられている重機関銃である)。STB-1ではリモコン可動式で、車長席に機銃用ペリスコープが装備されていたが、ペリスコープからの狭い視界からは精密射撃が期待できないため、STB-2以降は通常の手動操作に戻された(74式車載7.62mm機関銃は、本車のために62式7.62mm機関銃を元に開発された新型機関銃である)。M2用の12.7x99mm NATO弾は660発、74式機関銃用の7.62x51mm NATO弾は4,500発を車内に格納する。


 この他、乗員用に11.4mm短機関銃(弾薬150発)を2挺、64式7.62mm小銃(弾薬200発)を1挺、21.5mm信号けん銃(弾薬10発)を1挺、手榴弾(8発)を搭載する。


 伊達軍は遥か遠い小田原を目指した。

 天正17年11月、後北条氏が真田領へ侵攻した事により、豊臣氏により征伐が行われる事になった。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたという。

 

 11月、秀吉は関東の領主たちに「氏政の11月中の上洛がない時は来春に北条討伐を行う」ことを通知した。


 また、11月21日付で真田昌幸にも書状を送り、「今後北条氏が出仕したとしても、城を乗っ取った者を成敗するまでは北条氏を赦免しない」「来春(年頭)に出兵する」旨を記している。


 11月24日には北条氏との手切れ書を北条氏や諸大名に配布した。同日の秀吉から家康への書状では、来春の出陣決定と陣触れを出したことを伝え、軍事の相談のため家康の上洛を要請した。また津田盛月・富田一白を派遣して家康領内の駿河国沼津の三枚橋城に在番させ、軍事・兵站拠点地としての用意をさせること、北条からの使者石巻康敬は北条氏の返事次第では国境で処刑すること、も要請した。このように家康に対しても北条討伐の意向を言明し、どちらかといえば北条氏と懇意であった家康の動向が注目されたが、秀吉と北条氏の仲介を断念した家康は12月10日に上洛し、秀吉に同意の意向を伝えるとともに自身も対北条戦の準備を開始した。12月25日には上杉景勝が上洛している。


 また、同日付で秀吉は北条氏に対し、5ヶ条の宣戦布告とされる書状を送った。この書状は12月5日に三枚橋城に着いた津田と富田により、北条氏へ届けられた。


 秀吉は小田原征伐を前に、各大名に書状を発した。その書状中に「氏直天道の正理に背き、帝都に対して奸謀を企つ。何ぞ天罰を蒙らざらんや・・・・・・。所詮、普天下、勅命に逆ふ輩は早く誅伐を加へざるべからず」と記し、すなわち「天道に背き、帝都に対して悪だくみを企て、勅命に逆らう氏直に誅伐を加えることにした」と述べている。


 氏直は12月17日、北条領国内の家臣・他国衆に対して、小田原への翌年1月15日の参陣を命じた。


 北条氏は小田原で籠城することを決定し、1月に軍事動員令を出している。徳川家康は三男の長丸(後の秀忠)を事実上の人質として上洛させて、名実ともに秀吉傘下として北条氏と断交する姿勢を示すとともに、先鋒部隊を出陣させた。この人質は即座に送り返され、秀吉は徳川に対し領内の軍勢通過の際の便と、領内の諸城の使用を要求している。徳川は2月中にかけて、大軍勢の領内駐留・通過の便宜を図るべく、領内の城や舟橋、茶屋の整備を行った。


 2月1日に先鋒が出立し、同月中に豊臣秀次、徳川家康、前田利家、織田信雄ら各大名が出陣し、24日に国許から出立した徳川軍三万が長久保城に着陣した。この長久保城は北条方の山中城と10kmも離れていない位置関係である。24日に織田信雄が三枚橋城に到着し、25日に徳川が着陣。3月3日に豊臣秀次、蒲生氏郷の軍勢が到着。


 2月10日、毛利輝元の水軍が安芸国厳島を発ち、20日には播磨国兵庫港に着いた。志摩国に九鬼嘉隆、来島通総、脇坂安治、加藤嘉明、長宗我部元親、その他宇喜多氏・毛利氏らの1千隻を超える豊臣方の水軍が集結し、出航。2月27日に駿河国清水港へ到着した。軍船だけではなく輸送としての任務もあり、大軍勢による長期の合戦が想定されたため、清水港には20万石を越える兵糧が運び込まれていた。3月に入ると、水軍は秀吉の到達を待たずに伊豆長浜城を攻略。以降、西伊豆の防御が手薄と見た徳川水軍は小浜景隆が土肥高谷城、八木沢丸山城を占拠し、向井正綱と本多重次は安良里城と田子城を、と西伊豆の諸城と重要港を落としながら伊豆半島を南下した。北条方は伊豆の南端の下田城を防衛ラインとして水軍を集結させており、西伊豆の諸城砦には少数の陸戦部隊しか配置していなかった。


 3月1日、秀吉は後陽成天皇から北条氏の討伐を名目として節刀を賜り、聚楽第から大軍を率いて東国に下向した。


 北方(中仙道)からはいわゆる北国勢(前田利家・上杉景勝・真田昌幸・依田康国)らが3月15日に碓氷峠へ進軍。


 近江八幡、柏原宿、大垣城、清州城、三河吉田城を経て、3月19日に秀吉が駿府城に入り徳川がこれを迎えた。27日、秀吉が最前線の三枚橋城に到着。翌28日、秀吉は徳川と共に北条方の拠点である山中城と韮山城を遠目に視察して、長久保城に入った。その他、出羽国の戸沢盛安や陸奥国の津軽為信ら国・東北の諸勢力も秀吉の下に参陣し、所領安堵を受けている。


 翌28日、北方では松井田城攻めが開始された。29日には箱根で山中城が攻められ、こちらは一日で陥落した。

 これが史実だ。


 小田原城の近くにやってきた時、タイムクェイクが起きて伊達軍は戦車ごと亀裂の中に落ちて、元の時代に戻ってきた。

 政宗が直に出迎えた。

「お主ら死んだかと思うたぞ」

 江戸時代に仙台藩第4代藩主・伊達綱村(政宗の曾孫)が作らせた『伊達治家記録』には、小田原参陣前に兄の最上義光にそそのかされた義姫によって毒殺されそうになり、義姫を成敗する代わりに弟の伊達小次郎を斬殺したため義姫は実家に逃走したと書かれており、これが通説となっていた。しかし実際には義姫はその後も伊達家にとどまっており、政宗の朝鮮出兵の頃から母子は親しく手紙のやりとりをしている。義姫が実家の山形城へ突如出奔したのはこの4年後であることが一次史料からすでに明らかになっている。この「毒殺未遂事件」の正体は、反政宗派一掃のための狂言説もある。

 

 後北条氏側は関東諸豪制圧の頃から秀吉の影を感じ始めていたと言われ、その頃から万が一の時に備えて15歳から70歳の男子を対象にした徴兵や、大砲鋳造のために寺の鐘を供出させたりするなど戦闘体制を整えていた。また、ある程度豊臣軍の展開や戦略を予測しており、それに対応して小田原城の拡大修築や八王子城、山中城、韮山城などの築城を進めた。また、それらにつながる城砦の整備も箱根山方面を中心に進んでいった。


 一方、豊臣側では傘下諸大名の領地石高に対応した人的負担を決定(分担や割合などは諸説ある)。また、陣触れ直後に長束正家に命じて米雑穀20万石あまりを徴発し、天正大判1万枚で馬畜や穀物などを集めた。長宗我部元親や宇喜多秀家、九鬼嘉隆らに命じて水軍を出動させ、徴発した米などの輸送にあてがわせた。毛利輝元には水軍を供出させたが、輝元当人には京都守護を命じて、後顧の憂いを絶った。豊臣軍は大きく2つの軍勢で構成されていた。東海道を進む豊臣本隊や徳川勢の主力20万と、東山道から進む前田・上杉・真田勢からなる北方隊3万5千である。これに秀吉に恭順した佐竹氏、真壁氏、結城氏、宇都宮氏、大田原氏、大関氏、里見氏らの関東諸侯勢1万8千が加わった。


 桜は解放され、宮城にいる残間や呂宋のところにやってきた。

「伊達の軍勢は小田原に向かった」

 桜から詳細を聞かされた残間と呂宋はヘリで小田原に向かった。🚁

「呂宋さんって『信長の野望』やったことあります?」

 唐突に残間が呂宋に尋ねてきた。

「あんまりゲームはやらんからな〜」

「特にファミコンの群雄割拠編がおすすめですよ」

 戦国大名を選び、全ての国を攻め取り、全国統一を目指すゲームである。


 プレーヤーは戦略コマンドと戦争コマンドを選択してゲームを進めていく。


 戦略コマンドには「移動」「開発」「取引」「情報」「人事」「外交」「謀略」「軍事」「機能」がある。


 戦争コマンドには、「移動」「攻撃」「待機」「退却」「情報」「伝令」がある。


 前作からの改良点は第一に、後のシリーズでは標準ルールとなる、配下武将の概念ができた。全国で約400人の実在武将が各地で大名の下に配置され、各武将の行動力パラメーターが規定値に達すると、各武将に何回でもコマンドを実行させることが出来る。ただし、行動力の回復は毎月武将の政治力の30%ずつ(最高200)なので武将の政治力の高さは重要である。次に、戦闘の野戦に「朝、昼、夜」の概念ができ、夜には敵部隊に夜襲を仕掛けることもできるようになった。さらには篭城戦も登場した。


 また、前作同様、歴史イベントとして「本能寺の変」を発生させることができた。隠しイベントであり、本能寺の変イベントはその後のシリーズにも収録される定番イベントの一種になった。また、強大な勢力を持った大名に幕府より追討令が発せられることもある。


 前作に比べてBGMの数も増えており、織田信長専用のBGM(通常時、戦闘時とも)も用意されている。一般大名のメインテーマや機能コマンドのテーマなど、その後のシリーズでもアレンジされて繰り返し使用されている曲もある。


 内政のコマンドも幅が増え、戦闘に徹して領土拡張するか、内政をじっくりやるかプレイヤーの自由度は大きくなった。このようにシリーズ初となった要素が多かった今作だが、登場する舞台が関東から中国・四国地方までになっており、東北や九州が省略されているために伊達氏や島津氏などは登場していない(ただしFC版以降に発売された機種では、伊達氏出身の伊達成実が浪人として登場している)。


 地鳴りが響き渡り、ビルや家が崩れ落ち、あちこちで火の手が上がった。

「東京で地震があったばかりじゃねーか」

 呂宋が顔を顰めた。

 戦車が地割れの中に消えていくのが見えた。

 残間は歴史に詳しい菜奈に小田原合戦がいつ起きたかLINEで尋ねた。

《天正18年(1590年)2月だよ😁》

 残間はタイムベルトのボタンを1・5・9・0・0・2・0・1と押した。

 呂宋は残間が閃光とともに消えるのを目の当たりにした。

 残間はこっちに来る前に、博士になっていた硴塚龍臣から透明になれるジャケットをもらっていた。

 小田原に着いたその日、小田原城へ向かい北条氏政と面談した。『ニュースの女』でbreakした吹越満に似ていた。家族思いの人物であったらしく、有能な弟達と常に良好な関係を維持していた。愛妻家でもあり、正妻の黄梅院とは武田の駿河侵攻を機に離婚させられているが、氏政本人は最後まで離婚を渋っており、氏康の死の直後に武田と和睦した際には真っ先に妻の遺骨を貰い受け手厚く葬っている。ただし、離婚の話そのものが1970年代に史料の誤読から作られた話で他の同時代史料からは確認できず、実際には黄梅院は最後まで氏政と一緒に暮らしていたとする説も出されている。


 北条氏滅亡時の実権者とはいえ、父である氏康の時代以上に勢力を拡大したその治世や、良好な関係の兄弟と協力し合い、良き臣下に支えられて、合戦でも武功を挙げている点など、決して無能な武将というわけではない。秀吉に徹底抗戦したことについては、これまでは氏政が無能であり、時流、及び秀吉との圧倒的な国力の差を把握できていないことが原因という、氏政の暗愚な資質に原因を求める評価が主流であった。一方で、東国の武家は源頼朝以来中央政権から自立するような志向が強く、そうした、「東国武家社会の伝統性」を、徹底抗戦の根拠とする見解もある。また、最初から秀吉は北条氏を殲滅させるつもりであった、という見解もある。


 氏政の有名な逸話として二度汁かけの逸話がある。食事の際に氏政が汁を一度、飯にかけたが、汁が少なかったのでもう一度汁をかけ足した。これを見た父の氏康が「毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も量れんとは。北条家もわしの代で終わりか」と嘆息したという逸話である(汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来る訳がない、の意)。同様の内容は毛利氏の元就と輝元の間の話としても伝えられている。氏政を暗愚とする評価は、18世紀半ばの『関八州古戦録』(巻十七)(人物往来社刊)あたりが古い。

「余の見立てでは政宗は十中八九、猿に味方する。鉄の兵器に叶うはずがない、平成から成実たちがやってくる前に政宗の首を取るのじゃ!」


 残間は馬を手に入れると宮城を目指した。🐎途中、吹雪に見舞われ大変な思いをした。


 様々な趣味を持ち、太平の世になるとこれらに傾倒し晩年は1日たりとも無駄に過ごすことがない程だったことから、後世では文化人としても評価されている。


 当初は兵糧開発が主眼であり、岩出山名物の凍り豆腐と納豆ずんだは政宗の研究の末に開発されたものであった。仙台城の築城に際し味噌を製造するため城内に『御塩噌蔵ごえんそぐら』を建て、筑紫国から職人を呼び寄せたのが仙台味噌の始まりとされる。


 戦国の世が終わると兵糧の需要は少なくなったが、美食を極めることに目的を変えて料理研究を続けた。


『政宗公御名語集』には「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」という政宗の料理観が残されている。今日の仙台名物が政宗の考案によるものだとする説がある。


 酒も大変好んでおり、柳生宗矩に紹介された職人を招き仙台城に酒の醸造所(御酒屋)を建てるなどしたが、本人は酒が強くなかったらしく、二代将軍秀忠との面会の約束を二日酔いが原因で反故にした(当人は仮病を装った)、将軍・徳川家光の御前で酩酊し眠りこけたなど、酒に纏わる失敗談が多い。

 

 この時代は政宗は米沢城に住んでいた。天正18年(1590年)〜天正19年(1591年)。

 当初は青葉城にいると思っていたこともあり、随分到着するまで時間がかかった。

 城は米沢市街地のほぼ中心に位置する。戦国時代後期には伊達氏の本拠地が置かれ、伊達政宗の出生した城でもある。江戸時代には米沢藩の藩庁が置かれて上杉景勝・上杉鷹山などの歴代藩主が居住した。

 残間は城の近くで透明ジャケットを装着した。

 平城で、本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式縄張りの城である。10基の櫓と17棟の門が開かれた。上杉氏による築城(大改修)当時は30万石の大名の居城であって、石垣は少なく、土塁を多用し、天守は構えられず、本丸に東北隅と西北隅に2基の三階櫓を建てて天守の代用(御三階)としていた。他に二層櫓が複数あり。


 現在、本丸跡は上杉神社の境内となっており、また、二の丸跡には米沢市上杉記念館(旧・上杉伯爵邸)がある。

 本丸中央部に藩主の住居が建ち、東南隅の堤上に上杉謙信の祀る御堂を建て、天守の代わりに東北と西北に三層の隅櫓(御三階)を2基置いた。他に二層櫓が複数設置された。


 二の丸には藩の役所、世子御殿、御堂に近侍する法音寺・大乗寺など御堂に交替で勤仕する真言宗の二一ヶ寺を置いたのが特色である。 三の丸には上級・中級家臣の屋敷で占められ、町人町は郭外に置かれた町家郭外形の典型的な城下町プランに属する。


 石垣は少なく、土塁を多用し、全体的に質素な城となった。これは、米沢城が敵に侵入されたり落城した経験がないことや、120万石時代の家臣をほとんど削減しなかったため、財政が逼迫していたという説もあるが、上杉景勝が会津で建設を目指していた神指城も米沢城と同様の縄張で、土塁を多用した造りである。これは春日山城の麓にあった関東管領邸である御館にも共通した特徴であり、上杉氏の本拠地としての伝統的な城館建築の造りである。

 

 伊達政宗は仲村トオル、妻の愛姫はイエローキャブの根本はるみに似ていた。

 残間は『ビー・バップ・ハイスクール』にドはまりした。ツッパリ留年高校生コンビのヒロシとトオルがケンカや恋に明け暮れる姿を描いた、いわゆる「ヤンキーもの」の代表的な作品。主人公2人はケンカにめっぽう強いものの、必ずしも無敵の存在ではない点や、不良高校生の日常風景をリアルに伝える初期の描写が当時の中高生を中心に受けた。

 トオルが喫茶店でのケンカの最中に『イリコ食ってんだよぉ!』って叫ぶのをよく真似したりした。

 残間はアパッチピストルで政宗を殺そうとした。

 アパッチ・ピストルはピンファイア式のペッパーボックスピストルである。グリップ部分となる折畳み可能なナックルダスターと合体している。また、一体化された稚拙な折り込み式のダガー(短剣)が付属している、白兵戦にも対応可能な複合武器である。ただし、実用性はあまり高くない。


 ダブルアクションで作動するため、撃鉄は無鶏頭で指かけはない。引き金はトリガーガードを欠くため危険で、前方に展開するダガーは回転して収納可能だが、固定用のフックに引っかけるだけなので外れ易かった。ソリッドフレームで装填は回転軸を抜いてシリンダーそのものを外して行うので、素早いリロードは期待出来ない。


 特徴として本銃の全ての主要な部品を弾倉の方へ向けて内側に折り畳むことができ、容易にポケットの中へ隠匿可能だった。しかし、折り畳んで携帯するにしてもピンファイア実包の雷管はシリンダーから飛び出していて、服地などに引っかかって雷管が叩かれ、暴発する危険はあった(当然、ナックルダスターを使用した場合も、殴って握り込んだ拍子に暴発の危険性がある)。通常、回転式銃器でトリガーガードや安全装置の付かないこの種の兵器をバッグやポケット内に忍ばせる際には、撃鉄の下りている薬室から弾薬を抜いておき、暴発を予防するが、ピンファイアなので撃鉄が下りている先の実包を抜いていても、残りの雷管は無頓着にシリンダーから突き出ているので、暴発を防ぐためには全ての薬室から実包を抜くしか方法はなかった。


 性能的にはシリンダー内にライフリングが施されていたのかは不明なうえ、銃身の欠如から、このペッパーボックスの有効射程は非常に限定された。照星と照門を欠き、正確に狙いをつけることは出来ず、また拳銃の口径から非常に限られた火力しか持たなかった。使用弾薬の7×27mm弾は銃身が付いた火器から射出されていても、威力は低かった。この限定された性能にもかかわらず、この銃は至近距離では致死性を証明した。


 類似品として同様にピンファイア実包を使用する、フランスの「DELHAXHE」(デリハクシェ)と呼ばれたナックルダスターピストル。「DD(E)3313」の名称で知られるセンターファイア実包を用いるペッパーボックス拳銃が、イギリスの特殊作戦執行部により第二次世界大戦中に試作された。しかし、本銃との直接的な関連性はない。

 

 殺害直前、無線が鳴った。相手は北条氏政だ。

《伊達軍の敵は儂ではなく、猿の方だったようじゃ。政宗殺害は中止じゃ》

 あとちょっとタイミングがずれてたら残間は切腹を命令されていたかも知れない。  

 仕方なく残間は引き上げることにした。

 政宗は愛姫と激しく交わった。

「さあさ、指で弄るなり、ちんぽをさすなり

ご自由にしてくんなまし」

 愛姫は普段は濡れない性分だ。

 だが、今宵の愛姫のアソコはトロトロであった。

「では、お前の女陰ほとを味見させてもらおう」

 政宗は愛姫の内ももに手を添えて、ぐっと左右に押し開いた。

 その手際の良さに愛姫は驚いた。

 女陰を目の当たりにしても政宗は落ち着いていた。

 愛姫の膝を舐め、内ももに接吻をしながら

少しずつ女陰に近づいてくる。

 久しぶりに愛姫のアソコは、政宗のちんぽを待ちわびて、ヒクヒクと蠢いていた。

 女陰に近づいてくる政宗の舌を待ちわびながら、愛姫は前帯を解いて全裸になった。

 政宗もまた愛姫の内ももに吸い付きながら、帯を解いて脱ぎ捨て褌一丁になった。

 政宗は、すでに激しく勃起していた。


 🐵豊臣側の主だった将兵

主力:豊臣秀吉、徳川家康、織田信雄、織田信包、蒲生氏郷、黒田孝高、豊臣秀次、豊臣秀勝、宇喜多秀家、細川忠興、小早川隆景、吉川広家、宮部継潤、堀秀政、池田輝政、浅野長政、石田三成、長束正家、立花宗茂、大谷吉継、石川数正、増田長盛、高山右近、筒井定次、蜂須賀家政、大友義統、加藤清正(兵のみ)、福島正則、長谷川秀一、滝川雄利、丹羽長重、金森長近、金森可重、京極高次。約17万。


水軍:長宗我部元親、加藤嘉明、九鬼嘉隆、脇坂安治、菅達長、毛利水軍。約1万。

北方隊:前田利家、上杉景勝、真田昌幸、小笠原貞慶、依田康国(松平康国)、毛利秀頼、佐野房綱。約3万5千。

関東勢:佐竹義宣、佐竹義重、宇都宮国綱、結城晴朝、多賀谷重経、里見義康。1万8千。

推定総計約21万。


 🐶後北条側の主だった将

 小田原城:北条氏直、北条氏政、北条氏照、太田氏房、千葉直重、佐野氏忠、北条氏光、北条氏隆、北条直定、伊勢貞運、垪和康忠、松田憲秀、松田康郷、笠原政晴、笠原政尭、大道寺直繁、上田憲定、南條重長、山角定勝、山角康定、鈴木成脩(大学)、伊東政世、梶原景宗、由良国繁、長尾顕長、成田氏長、成田泰親、成田長忠、清水政勝、壬生義雄、吉良氏朝(喜多見勝忠)、千葉重胤、酒井康治、酒井政辰、内藤直行(内藤綱秀息)、和田信業、小幡信貞、北条康種、北条氏資、三浦浄心、潮田資忠、富岡秀長、高城胤則、高城胤知、相馬治胤、高井胤永、小笠原康広、小笠原長房、佐久間安政、佐久間勝之、大胡高繁、井田是政、白倉重家

その他の城:松田康長(山中城)、成田泰季(忍城)、北条氏規、江川英吉(韮山城)、大道寺政繁(松井田城)、北条氏邦(鉢形城)、垪和康忠(厩橋城)、清水康英(下田城)


 豊臣側の基本的戦略としては、北方隊で牽制をかけながら主力は小田原への道を阻む山中、韮山、足柄の三城を武力で突破し、同時に水軍は伊豆半島を巡って小田原冲に展開させ海上輸送を封鎖する方針であった。 一方、兵力で劣るとは言いながらも後北条氏側も、支配下の諸将に小田原籠城を命じ、5万余の兵力を小田原城に集め、そこから精兵を抽出して山中、韮山、足柄の三城に配置した。主力を小田原に引き抜かれた各城の留守居部隊には、普段は兵力に想定しない徴兵した老壮年の男などを宛てたが、守備し切れることを想定されてはいない。佐江戸城などは城が空になったため、豊臣方に無抵抗で接収されている。各方面から豊臣側が押し寄せてくるのは想定されていたが、それ以上に主力は東海道を進撃するのが明らかだったため、箱根山中での迎撃持久戦を想定した戦略を推し進めることになった。氏邦、氏照、伊勢貞運らは野戦を主張したが、氏規や松田憲秀らは籠城策を主張した。氏邦は領内ではなく駿河国に大きく打って出て、富士川などで会戦を行いたいと主張したが却下された。氏邦はこの野戦策が入れられないことに不満を持ち、手勢を率いて居城の鉢形城に帰り、単独で籠城戦を行った。ともあれ、こうして最終的に小田原籠城戦略が採られる事となった。 松井田城には大道寺政繁が率いる数千の兵が、さらに館林城などにも同程度の兵が割り振られていた事を考えると、小田原・箱根西方だけではなくその他の諸拠点、特に北方からの侵入軍を迎え撃つ城にもある程度の備えは配置されていたといえる。


 蒲生氏郷が戦車のライフル砲で撃ち殺された。

 躍起になった大谷吉継が、留守政景を刺そうと刀を鞘から抜いて襲いかかってきた。政景は腹を刺された。防弾ベストのお陰もあり無傷だったが痛そうな演技をした。

 刺されたはずの政景が吉継の首を跳ねたので、豊臣勢は唖然としている。

「こりゃまずい。皆のもの引くぞ!」

 秀吉は顔を真っ赤にして叫んだ。

 

 豊臣勢が逃走中、竹藪の中から伊達成実が9mm拳銃を撃った。浅野長政が肩を被弾した。それでも果敢に馬を走らせたが、綱元のSIG MPXに蜂の巣にされた。

 長谷川秀一の前に常長が立ちはだかった。常長はMK3手榴弾のピンを食いちぎって、秀一目掛けて投げた。💥ボーン!!秀一は爆死した。

 豊臣軍は大敗を喫した。

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闇に叫べ! 19  catastrophe〜大惨事〜 鷹山トシキ @1982

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