第15話 見守る羽(後)
星の間や1階の隠れ部屋には、既に誰の姿もなかった。比較的、地上に近いところにいた彼等は、上階からする音と突然現れた苦しみに耐えられず、逃げ出したのだろう。
塔から出ると、ホイールとマジシャンが、ホバーカーを浮かせて待っていた。2人とも、顔が苦痛で歪んでいる。
「急いで乗って。離れないと危ないわ」
塔の周りには、自分たち以外に人の姿がない。フール所有のプロペラ機や、ハイエロファントたちが乗ってきた飛行機も見当たらない。
未来視を持っていたホイールと、占い師のマジシャンは、1階にいた。2人は隠れ部屋で研究員たちをやり過ごした後、こうなることを見越して先回りをしていたのかもしれない。
二手に分かれて乗り込んだホバーカーは、落ちてくるがれきの合い間を、縫うようにして走る。大きな塵の滝を抜け、視界が極めて悪い砂の霧を突き破る。
唸りを上げる2台の車は、塔から離れた丘の上で待っていたエンプレスとワンドの近くに止められた。
丘からは、塔が崩れていく様子が、よく見えた。永遠の命の呪縛から解かれた者はホバーカーの上から、影響がない自分たちは砂の上から、その光景をずっと眺めていた。
時折、塔の方から風に乗って、砂埃がやって来る。それと同時に、白い綿毛も届いた。
「羽?」
飛んできた1枚を、拾い上げてみる。鉄ばかりだと思っていたが、塔にはこんな材料まで使われていたのだろうか。
首を傾げていると、ワンドの優しい声がした。
「ジャッヂメントは、こんなことまで仕掛けていたのですね。白い鳥はね、エステス。世界平和の象徴、だそうですよ」
「白い鳥。ペンタクル・エースも、白い鳥でしたね」
恩師は、深く頷いた。
「始まりは、たった1人の人間に生きていてほしかった。ただ、それだけなんですよ」
「僕は、その気持ち、なんとなく分かるよ」
振り返ると、デビルがこちらを向いて、ほほ笑んでいた。
「僕だけじゃなくて、フールも、ランスも、ホイールも。そこの教授も、分かるよ。その人が笑っていれば自分も幸福だし、泣いていれば悲しいんだ。いつかエステスにも、分かる日が来るよ」
彼は、「その相手が、僕だと良いだけど」と小声で言った後、また笑った。これまで見たことがないような、こちらまで切なくなるような笑顔だった。
「誰しも持っている気持ちが、少し行き過ぎてしまっただけなんですよ。ハミット卿も、ハングもね」
「ワンド先生」
か細く、教授を呼ぶ声がする。自分の手ですべてを終わらせて、多くのものを失ったハイエロファントは、迷子のような頼りない顔をしていた。
「本来なら、ジャッヂメントの役目ですが。おかえりなさい、ファント。私は、これを言うために、ここまで来たのです」
どこまでも温かいワンドの声音に、兄はとうとう涙を流した。誰よりも気丈に振る舞っていたのは、実は彼だったのかもしれない。
「ワンド先生。私は、守れなかった。友も、なにも」
崩れ落ちるハイエロファントに、ワンドは、ただ優しく声を掛ける。
「いいえ。あなたは、大切なものを守ったのです。ジャッヂメントとジャスティス兄妹の意思と、あなた自身の命を。特に後者は、ジャッヂメントもハングも、1番に望んでいたことなのですよ」
代弁者の言葉に、目尻を拭う。その視界の先で、塔が砂の中へと沈んでいく。
それぞれの、大切な人を飲み込みながら。
「そろそろ帰りましょう、兄さん」
殊更、明るく聞こえるように意識して、高い声を出す。それから、右手を差しだした。
「体調不良者、続出なのよ? 手伝わない、とは、言わせないわ」
実際に、なんの障害もなく砂の上に立っている人間は少なかった。
ホイールに、マジシャン。ストレングス。先から平気そうに振る舞っているデビルでさえ、呪縛からの解放に苦しんでいる。デスにいたっては、気を失ってしまった。彼に膝枕を提供しているエンプレスも、この暑さには参っているだろう。ワンドだって、本来であれば病室の中の住人だ。
ハイエロファントは辺りを見回して状況を把握すると、しっかりと自分の手を取って、頷いた。
「そうだね。まだ、これからやる事の方が多そうだ」
兄の笑顔は、とても柔らかいものだった。
◆◆◆
「ワンド教授。もう、お体は大丈夫なんですか?」
外は、まだ残暑が厳しい。なるべく木陰を選びながら車椅子を動かしていると、背後から声を掛けられた。家族のような間柄だが、この顔を見るのは久し振りだ。
砂漠での無理が祟ったのだろう。あの後、即、緊急入院となってしまった。しばらくは面会が謝絶され、病院関係者が入れ替わり立ち替わり。周りを、随分と心配させてしまったらしい。
自分は、夢の中をさまよっていただけなので、何も知らないが。
「はい。足は後遺症が残りそうですが、他は見ての通りですよ」
怒ったソードに鏡を突きつけられた時は、自分でも驚くほど酷い顔色をしていた。今は、だいぶ血色が良くなってきている。
足に関しては、砂漠に行く、行かないに関わらず決まっていたことだから、さして気にもならない。強いて言うなら、車椅子が少し窮屈に感じるくらいだろうか。
ハイプリースティスが、安堵したように笑った。少しだけ伸びた髪が、肩に触れる。
「そちらの方は、いかがですか?」
「デスは、まだ起き上がることができません。成長痛もあるみたいで。エンプレスが診てくれています。ファント兄さんは、語学の勉強をしていますよ。というのも、デビルが兄さんに、先生代わりをしてほしい、とせがんでいて。あっ、もしかして、母さんのことが知りたかったですか?」
「はい?」
確かに、昔からの知人として気になりはするが、この話の振り方は、どうしたことだろう。
「聞きましたよ、ワンド教授。実は若い頃、母さんに気があったらしいですね」
人の悪い笑みを浮かべて見下ろしてくるハイプリースティスに、目を丸くする。いったい、いつ、そんなことを聞いたのだ。
「エステスは、ジャッヂメント似ですね」
「あら。父さんは、母さん似だって言ってましたよ」
緑玉の瞳を輝かせ、破顔した彼女は、今までに見たこともないような明るい表情をしている。今回の件を引きずるでもなく、否定するでもなく、きちんと受け止めて、彼女なりに消化した証だった。
そんな彼女を、遠くから呼ぶ声がする。ハイプリースティスは1度、呼び声がした方を確認すると、こちらに向き直って一礼した。
「それじゃ、もう行きますね。後期の授業も、楽しみにしています」
そう言うと、離れたところで待つ青年の元へ駆けていく。
すべてをおもしろがって、貪欲に知識を吸収しようとする青年と。彼を支えようと、寄り添う女性と。
そのどちらもが、とても眩しく見えた。
「あの頃に戻ったみたいですよ。ジャッヂメント」
ふと、空を見上げる。輝かしい広い世界を、白い鳥が羽ばたいていった。
砂上の塔・完
砂上の塔 朝羽岬 @toratoraneko
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