デュヴデバン
湊
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はるか昔、天と地は深い霧によって分かたれていた。
天にある天蓋の国には創造主とその僕たちが暮らしており、多くの肉なるものが生きる草花の楽園に底なしの祝福を与えていた。しかしそこに人間の姿はなく、彼らは地にある落日の街にそのほとんどが住んでいて、美徳も信仰も廃れて久しく欲望ばかりが積もっていた。
そんな愚かな人間たちに嘆いた創造主は、あるとき大いなる闇を落としてすべての光を落日の街から奪ってしまった。太陽の光、人工の光、炎の光、ありとあらゆる光を失った人間はひどく怯え、また混沌とし、いくつもの争いの果てに共存の道を選んだ。そして日がな一日頭上を覆う闇と霧に向かって祈りを捧げ、遠く届かない夜明けを待ち望んだ。しかし創造主はこれを聞き入れなかった。
そうして数百年の時が過ぎて地上の祈りが潰えたころ、ある若い僕が創造主の行いに疑問を持ち、どうにかならないものかと考えた。その者の名はスキャムウィルといった。スキャムウィルは創造主の最もお気に入りの僕であった。
ある日、スキャムウィルは創造主のところへ赴いて、その足に接吻してこう言った。「わが父よ、わたしは夢を見ました。あなた様がとても大事になされているデュヴデバンが二つに分かたれてしまい、もとに戻らなくなったのです。これは凶兆に違いありません。そしてこれは人間の仕業でございましょう。ですからわたしは地上へ行って確かめなければなりません」。すると創造主はスキャムウィルの頭を撫でて、「わが子、愛しきスキャムウィルよ。そなたは清らかな心を持っている。すなわちそなたが見た夢は正しいということだ。地上に蔓延るのはとこしえの闇のみ。ゆえに恐ろしく、そなたを失ってしまうのも、また恐ろしい」と、答えた。
創造主は優しく、しかしきっぱりとスキャムウィルが地上へ降りるのを許さなかった。スキャムウィルは、「わかりました、わが父よ」とその場では諦めたが、少しも納得していなかった。創造主はそれを見破っていたが、問い詰めることはなかった。その日の晩、スキャムウィルは天蓋の国に住む友人や肉なるものに助力を頼み、そのほとんどに断られたが、ついに二人の姉妹が答えた。それぞれエルカとラミアといった。姉であるエルカは若く、美しい瞳の持ち主で、スキャムウィルの憧れだった。一方で妹のラミアは石女であるが、物知りで、さらにエルカよりも美しい姿形をしていた。俊秀な彼女もまたスキャムウィルの憧れだった。スキャムウィルが二人になぜ自分の要求に応えてくれたのか尋ねると、二人は声を揃えて、「わたしたちは人間とともにありたいから」と言った。スキャムウィルはひどく感動し、この姉妹を深く愛そうと決めた。
翌日、スキャムウィルはエルカとラミアに夢について話した。これを聞いたラミアは「デュヴデバンが分かたれるということは、あたりまえだったなにもかもがひっくり返ってしまうということ。つまり人間とわたしたちの関係が修復されるのもあり得るでしょう」と、喜びを隠せぬ上ずった声で説を唱えた。これにエルカも加わって、「その変化を確かめるためにデュヴデバンを肌身離さず握りしめるといいでしょう」という提案をした。
早速スキャムウィルは花園の楽園へ行ってデュヴデバンを一房だけ盗んだ。しかし運悪く散歩をしていた創造主を見かけてしまい、スキャムウィルは急いで木影に身を隠した。が、創造主がその木の横を通りがかるとスキャムウィルの匂いを感じ取って、「愛しき子よ、隠れていないで出てきなさい」と命じた。スキャムウィルはしばらく黙っていたが、創造主がずっとそこにいるので仕方なくその姿を現した。創造主はスキャムウィルが手を後ろに回していたのが気になって後ろに回ろうとしたが、それに合わせてスキャムウィルも体の向きを変えたので、もうそれ以上は動かずに、「すべての物事には代償がある。そなたが夢を追うならば、いつか夢は覚めてしまう」と忠告をして去っていった。その後、エルカとラミアのもとに帰ったスキャムウィルは二人の膝の上で泣いた。
まだ夜が明ける前にスキャムウィルは目を覚ました。そして今しがた見ていた夢を思い出した。真っ暗な、あるいは真っ白な世界で誰かの足音を聞いたのだ。創造主でもなければエルカでもラミアでも、他の僕たちですらない音だった。結局その誰かがわからないまま、スキャムウィルはデュヴデバンを手に寝床から出て、広大な花園を抜けたその先、すなわち天蓋の国の最果てに向かった。
道すがら、幾度となく創造主の忠告が聞こえてくるような気がして、スキャムウィルは自分の行いが正しいのか不安になった。走っては立ち止まり、引き返そうと背後を振り返っては蹲り、そうしているうちに夜が明けて、ふとスキャムウィルは眼前の景色がある地点で途切れているのに気が付いた。最果てだった。そこには既にエルカとラミアがいて、今にも泣いてしまいそうなスキャムウィルを強く抱きしめた。エルカがスキャムウィルに言うには、「あとのことはわたしたちに任せてください。心配はいりません、あなたが夢から覚めるのを恐れるのならば、夢は悠久に続くということを憶えておけばいいのです」。次にラミアが言うには、「ただし地上へ降りるときは上を向いてはなりません。霧の中でも同じです。その反対に、ここへ戻って来るときは決して下を向いてはなりません。これはわが父との約束です。もしもこれを破ってしまったのならば、二度とあなたが夢を見ることはないでしょう」。二人の言葉をよく噛みしめたスキャムウィルは、この優しき姉妹に接吻をして、天蓋の国から降りて行った。
やがて朝日は霧によって遮られた。言いつけに従って下だけを見て霧の中を進むスキャムウィルは、この分厚く方向感覚を狂わせる霧が永遠に続いているような気がして、たとえ志が盤石だったとしても、こうも霧も不変であるとおかしくなってしまいそうだった。いつしか霧にも慣れてくると物事を考える余裕ができて、スキャムウィルは、本当にこの先に人間がいるのだろうか、闇ばかりがあるのだろうか、もうとっくに人間は滅んでいるのではないだろうか、などと創造主の語る歴史に懐疑的になっていた。
上を向いても大丈夫なのでは。そう思ったそのときである。スキャムウィルの視界が暗黒に包まれたのだ。スキャムウィルはひどく狼狽えた、わっと声も上げた。それでももう地上がすぐそこだと悟り、慌てて手を広げて速度を落とし、下を向いたまま足を延ばして地面を探った。予想通り地上はすぐそこだった。まもなくスキャムウィルはどこもかしこも真っ暗な地上に降り立ったのだ。
前からも後ろからも右からも左からも人間の話し声がした。とっくに闇に慣れた人間たちはよそ者がこの地、すなわち落日の街に訪れたのを勘付いたのだ。スキャムウィルは恐怖を努めて抑えてこう叫んだ。「人間よ、わたしはそなたらの父の使いである。そしてそなたらを解す者でもある。どうか恐れるな」。繰り返してスキャムウィルは人間たちを安心させようとした。ところが誰一人として応える者はおらず、むしろ声は離れていった。やがて孤独になったスキャムウィルは、信仰を忘れた人間たちに失望し、行く当てもなく闇の中を歩いた。
しばらくすると、スキャムウィルは背後に綺麗な鈴の音を聞いた。そしてその持ち主は人間の子供だった。その子供がスキャムウィルに、「失礼ですが、あなた様は本当に天の使いなのですか」と問うた。スキャムウィルが答えて言うには、「いかにも、わたしはわが父の命より地上に参ったスキャムウィルである。そなたの名はなんと言う」。これに少年は、「ぼくはヨセフです」と名乗った。このとき彼は地に伏していたのだが、スキャムウィルがそれを知ることはなかった。「鳴らした鈴はなんだ」とスキャムウィルが尋ねると、ヨセフが答えて言うには、「これはぼくだけの鈴の音です。みんな鈴を持っていて、それぞれ違う音色をしています。これでどこに誰がいるのかを知るのです」。
ヨセフはスキャムウィルのように清らかな心の持ち主だった。彼は自らのすべてを詳らかに語った。彼の家は貧しく、母親も早くに世を去り、さらには十六人兄弟の末っ子であったが、彼のみがいまだ創造主を崇めていたことが原因で縁を切られていた。今は耄碌した父と二人で暮らしていた。
ふと、スキャムウィルがヨセフに触れると骨の感触があり痩せさらばえていて、憐憫の情を抱かずにはいられなかった。涙を飲んで、「生活はどうしているのか」と尋ねると、ヨセフは、「ぼくは人の夢を解いてあげられます。それでわずかながらお恵みを頂いているのです」と答えた。これにスキャムウィルはたいへん興味を抱き、ヨセフに願った。「ならばわたしの夢を解いてはくれないだろうか。というのも、わたしはわが父が大切にしているデュヴデバンが二つに分かたれるしまう夢を見たのだ。これを確かめるために、わたしはここへ参ったのだ」。また、「もしもこの夢を解いてくれたのならば、わたしはそなたの末裔までともにあると誓おう」とも付け足した。ヨセフはこの祝福を遠慮しようとしたが、敬虔な信徒であった彼は断りの言葉を口にするのがたまらなくつらく、震えた声で、「ここは寒いですから、さあ、ぼくの家に来てください」と言ってスキャムウィルの手を引いた。
闇の中で枯れ枝のようなヨセフの手を握るスキャムウィルは、この素晴らしい少年の姿を想像していた。その種類は数千にも及んだが、ヨセフの手に顔を近づけて見てもなにも見えず、結局のところ闇の前では妄想の域を出なかった。すぐそこにあるものに届かない現実がスキャムウィルにとって屈辱的であった。
ヨセフは家にスキャムウィルを招き入れると、まずはパンの半分と葡萄酒を与えた。口にするまで正体がわからぬゆえスキャムウィルはこれを不味いと思わなかったが、これらは饐えていた。また、ヨセフもこの味しか知らなかった。
さて、この食事が終わるとスキャムウィルは再び夢をヨセフに語った。「親愛なるヨセフよ。わたしはかつてわが父がとても大事になされているデュヴデバンが横二つに分かたれてしまう夢を見たのだ。わたしはこれを人間の仕業だと考えているのだが、その一方でわたしはなにか別の未来を示唆しているのではないかとも考えている」。やや沈黙があってからヨセフが恐る恐る、「あなた様、デュヴデバンとは一体なんなのですか」と尋ねた。デュヴデバンという言葉を初めて耳にしたときからヨセフはこの疑問を抱いていたが、幼気ゆえ拙い知識に含まれていないだけなのではないかと不安になっていたのだ。これにスキャムウィルはしまったと恥じ、今なお手の中にある実物をヨセフの手のひらに置いた。ヨセフはそれを触り、デュヴデバンが細い棒のようなものに縦に繋がれた二つの丸いものであることをようやく知った。ヨセフは明るい声で、「これがデュヴデバンなのですね。小さくて、可愛らしい形をしています」と感想を述べた。スキャムウィルは機嫌がよくなったのでヨセフからデュヴデバンを受け取ると、「そなたも食べてみよ」と言ってデュヴデバンの片割れを彼に差し出した。ヨセフは喜んでこれを頂き、その味を堪能した。「ああ、甘い。けど、酸っぱくもあります。こんなにも不思議なものが創造主様の地にはあるのですね」。たった一粒だけでここまで感動するヨセフの声を聞いて、スキャムウィルは胸が苦しくなった。
ところでヨセフがスキャムウィルの夢の解き明かしを行うと、このような結果となった。「デュヴデバンは二つあってこそデュヴデバンなはずです。しかしそれが分かたれてしまうとなると、もうそれはデュヴデバンではなくなるということです。その二つは確かに存在するけれど、再び繋がることはできない」。ヨセフにも限界があった。というのも、生まれ落ちてから闇とともにあったがために、夢を解くといっても光が関係するものは彼には不可能だったのだ。そしてスキャムウィルの夢には光が関わっていた。ゆえにヨセフは曖昧な回答しか出せず、ただならぬ罪悪感を憶えた。スキャムウィルは手探りでヨセフの頭を撫でてやると、「そなたはそれでも善き人だ」そう慰めて彼を抱きしめた。まるで樫の木を抱いてるような感触であった。ヨセフはスキャムウィルの胸の中で泣いた。
約束通り、スキャムウィルはヨセフとその父親に祝福をもたらした。長らく寝たきりだった父親はスキャムウィルが触れた途端にまともになり、鈴を鳴らしてヨセフに酒と食事を求めた。スキャムウィルはこの父親に呆れ果てたが、どたどたと家の中を駆け回るヨセフの足音を聞いて頬を緩ませた。スキャムウィルはヨセフのところへ行って、「わたしのことは誰にも話すでない。そなたの父親にもだ」と言った。
スキャムウィルは闇の中でヨセフとその父親の会話を静かに聞いていた。最近のあれこれや、これからの色々を話し合っており、ふとスキャムウィルは人間の生命力は自分たちよりもはるかに強いことに気が付いた。というのも、光を奪われ幾星霜、とっくに滅びる運命にあった種族がこうも適応して闇や音とともにあったからだ。スキャムウィルは創造主がいなくなってしまった天蓋の国を想像してみたが、そのとき自分がどのようになってしまうのか見当もつかなかった。
こうしてスキャムウィルはヨセフのもとを離れたが、天蓋の国に帰ろうとした瞬間にヨセフの鈴の音がして思わず帰国を躊躇ってしまった。我慢ならず闇の中でスキャムウィルはヨセフを探した。他の鈴の音も聞こえてきた。ほとんど同じように思えたが、わずかに高さや長さが違った。
しばらくして、ヨセフの声が闇の中で響いた。というのも、ヨセフはスキャムウィルが持つデュヴデバンの匂いを憶えていたのだ。視覚を失った身ゆえ、聴覚や嗅覚は特別に優れていたのだ。ヨセフが息を切らして言うには、「どうしてぼくを置いて行ってしまったのですか。まだ別れを惜しんですらいないのに」。スキャムウィルは苦しそうに言葉を詰まらせた。ヨセフとともにいたい、それがスキャムウィルの望みだったが、立場も寿命もなにもかもが異なるので願ってはならない願いだった。ようやくスキャムウィルは、「さようならはいつかの再会のため。だからわたしはそなたにそれを告げることはできない。これからわたしたちの距離はどんどん開いていくだろう。だが、わたしはいつでもそなたとともにあると誓った。たとえ遠く離れていても、必ずそなたの側にわたしはいる。恐れることはない、悲しんではならない。そなたはそなたの道を生きよ。ふえかつ増して地に満ちよ」と叫んだ。するとヨセフも叫んで、「ならば、この鈴を持っていてください。さようならがそうであるように、この鈴の音はいつかの再会のためです」。そうして鈴の音が三度鳴った。スキャムウィルがそちらの方向へ進んでみると、地面に転がる硬いものが足の先に当たった。まさしくそれは鎖に繋がれたヨセフの鈴であった。ヨセフの声はもうなかった。
天蓋の国に戻ったスキャムウィルは、まもなく眩い太陽の光に頭をやられて気を失ってしまった。それから三日三晩、エルカとラミアが付きっきりで看病した。しかしいついかなるときでもスキャムウィルは鈴とデュヴデバンを手放すことはなかった。スキャムウィルが眠っている間、創造主が様子を伺いに訪れた。そこで創造主がエルカに言うには、「わが愛しき子スキャムウィルは、そなたの瞳に憧れていた。そなたが望むのであれば、その瞳をスキャムウィルに与えてやれる」。エルカは少し考え、代償が大きすぎると判断してこの提案を拒んだ。次に創造主がラミアに言うには、「わが愛しき子スキャムウィルは、そなたの智慧に憧れていた。そなたが望むのであれば、その智慧をスキャムウィルに与えてやれる」。ラミアは深く考え、「半分だけならば構いません」と言った。
翌日、スキャムウィルが目を覚ますと暗闇の中にいた。失明してしまったのだ。スキャムウィルはひどく嘆き、これからどうするべきかわからなくなった。エルカやラミア、創造主を呼んだが誰も応えず、孤独を感じたスキャムウィルはひたすら泣いた。するとどこかから鈴の音がして、それが今自分の手の中にあるのを知った。スキャムウィルは、「ヨセフ。ああ、ヨセフ」と言って鈴に接吻をした。
光がなくても鈴の音がよすがとなったスキャムウィルは充分に幸せだった。時折りエルカとラミアが見舞いに来て、よくスキャムウィルを可愛がったが、その度にエルカの方はなにもしてやれなかった過去の自分の愚かさに憤りを感じていた。ついにエルカは、「あなたはわたしのようになってはいけませんよ」とだけ言い残し、どこかへと行ってしまった。
ラミアはいっそうスキャムウィルに優しく接した。ありとあらゆる智慧を与え、楽園に咲く草花の種類のすべてを熟知するまでに至った。が、創造主との契約によりラミアの智慧の半分がスキャムウィルにも備わっていたので、教えられたほとんどがスキャムウィルにとっては既知であった。
ある日、盲目にも慣れて楽園を散歩していたスキャムウィルは偶然ある噂を耳にした。それは落日の街が地上から消滅したというものだった。スキャムウィルは恐怖した。この真実を確かめるべくラミアに尋ねると、しかしラミアは回答を拒んだ。というのも、ラミアもなにも知らなかったのだ。そこでスキャムウィルは創造主のもとへ何度も転んで体を痛めながらも赴き、慌ただしく問い詰めた。「わが父よ、お答えください。つい先ほどわたしは落日の街が滅んだ噂を耳にしました。これは本当なのですか」。創造主が答えて言うには、「愛しき子スキャムウィルよ。言ったはずだ、夢を追えば、いつか夢は覚めると。今がそのときだ。そなたが地上に降りた結果、そなたは光りを失った。そなたが地上に降りた結果、そなたは堕落してしまったのだ。もうこれ以上そなたを失うのは耐えられない。ゆえに我は大いなる闇を再び落とし、二度とそなたが地上へ降られぬよう深淵に沈めたのだ」。スキャムウィルは啞然とした。創造主に言い返そうとしたが、ここで争ったところでなにも変わらないのを悟り、「わかりました、わが父よ」と言って引き下がった。
朝も昼も夜もスキャムウィルは最果てで鈴を鳴らしていた。こうしていればこの音が地上に届いてヨセフが来てくれるかもしれないと、そう思ったのである。ろくに食事も睡眠も摂らずにそうしていたものだからスキャムウィルはみるみるうちにやつれていって、皮肉なことにヨセフのような痩せこけた見てくれになった。スキャムウィルに同情する者は大勢いたが、ただ口々に憐れむだけでみな傍観者の枠にとどまるのみだった。
あるときスキャムウィルは気付きを得た。天と地を隔絶する濃霧、ここを抜けて地上へ降りるのであれば決して下を向いてはいけないし、反対に天へ昇るのならば上を向いてはいけない。ラミアに言われたこの規則の意味をぼんやりと理解したのである。スキャムウィルが思うに、「ヨセフからすれば落日の街が現実で、わたしたちからすれば天蓋の国こそが現実。つまりあの霧の役割は二つの現実が存在するのを保つこと。ならば逆らって上を向きながら降りれば現実ではなく過去へと繋がっているのではないか」。この仮説に辿り着くと、スキャムウィルはすぐさま上を向いて降りようとした。するとそこへ創造主がやってきて言うには、「そなたは罪を犯そうとしている。運命を捻じ曲げてしまえば、そなたの夢は真に終わってしまうだろう」。スキャムウィルは創造主の前で跪いて、「人間は大切なものを奪われても、それでも生きていく信念と情熱があります。わたしは地上へ降り立ってそのことを学びました。わが父よ、わたしもそうありたいのです」と迷いなく伝えた。スキャムウィルにとって初めての反抗だった。創造主は止めようと手を伸ばしたが、いざスキャムウィルの腕を掴んでみると嬉しくもなり、「愚かな愛しきわが子よ、悲劇と試練を望むか」と言って強く抱きしめた。創造主はこのまま時が止まってくれと願ったが、実際にそうすることもできたのだが、スキャムウィルの成長だけは止めることが出来なかった。
やがてスキャムウィルは最果てから降りて行った。なにも見えなかったが、顔だけはずっと上を向いていた。もちろん手には鈴とデュヴデバンの片割れが握られていた。風に吹かれて鈴の音が無限に響き、その他一切の音がスキャムウィルには聞こえていなかった。スキャムウィルは願った、「どうかもう一度だけ、彼とともにありたい」。
いつのまにか地に足が着いていた。天蓋の国とは違う匂い、喧騒、スキャムウィルは自分が離れた当時の落日の街に戻れたことを歓喜した。
スキャムウィルは鈴の音を鳴らして、「ヨセフ、ヨセフ」と名を呼んだ。どれだけ遠くにいたとしても、この鈴の音がある限り彼は必ずやって来る。そう信じてひたむきに叫んだ。スキャムウィルは当てもなく落日の街をさまよった。何回も人間にぶつかり、悲鳴を上げられ、時には連れて行かれそうになったが、ヨセフの名だけは忘れなかった。明くる日も明くる日もスキャムウィルは叫び続けてヨセフを探し、だが見つからず、ついに道半ばにして疲労により倒れてしまった。スキャムウィルはひどく弱っていたのだ。
ふと、駆けてくる足音があった。その者は、「大丈夫ですか」と言ってスキャムウィルに肩を貸した。間違いない、ヨセフの声だ。スキャムウィルはヨセフを抱きしめて言った、「ヨセフ。ああ、ヨセフなのですね」。これにヨセフは不思議そうに答えた、「あなた様がぼくの名を呼んでいるとお聞きいたしまして、現れました。しかしぼくはあなた様を知りません。果たしてどのような用件でぼくをお呼びになったのでしょう」と。スキャムウィルはたいへんな絶望に打ちひしがれた。始めは冗談を言っているのだと思っていたが、ヨセフは本当にスキャムウィルを知らなかった。
スキャムウィルが涙を堪えて尋ねた、「この鈴の音に憶えはないのですか。わたしを憶えていないのですか」。ヨセフが答えて言うには、「いえ、ぼくとあなた様は初めてお会いしたはずです」。さらにスキャムウィルは続けて、「わたしの夢を解いたことを憶えていないのですか」。ヨセフは申し訳なさそうに、「たしかにぼくは人の夢を解きますが、あなた様の夢を解いたことはありません」と言った。
こうしてようやくスキャムウィルは、ここは自分が訪れた落日の街よりも昔の時代であると悟った。冷静になってみると天蓋の国ではあたりまえの太陽の熱が降り注いでいるのに気が付いたのだ。ヨセフの肩を借りて往来を行くスキャムウィルは悲しみに溺れながらもこれから起こる厄災を語った、「さあ、もうわたしのことは気にしないでいいですから、そなたは命がけでこの街から逃げなさい。まもなくわが父が大いなる闇を落としてすべての光を街から奪い去ってしまうのです」。この忠告を聞いた上でのヨセフの答えは、「あなた様は疲れておられる。ぼくの家に来て今晩はゆっくりお休みになられてください」という気遣いであった。スキャムウィルはこれを拒んで脱出を促したが、蓄積した疲労はいまだ回復していなかったので一晩だけ休ませてもらうことにした。たとえ記憶がなくてもともにありたかったのだ。
ヨセフから説明を受けた父親は焼き立てのパンと上等な葡萄酒を用意したが、スキャムウィルが盲目であることを知って親子二人は深く恥じた。その日の晩、まだ床に就かぬうちに家の外が騒がしくなった。よそ者であるスキャムウィルを捉えようと蹶起した街の住人たちが集まっていたのだ。彼らが口を揃えて言うには、「おい、中にいる者を我々に寄こすんだ。気味が悪くていても立ってもいられない」。スキャムウィルはどうしてそこまで怒っているのか理解できなかったが、ヨセフとその父親は薄々わかっていた。というのも、信仰を忘れて久しいこの街では天より舞い降りたスキャムウィルは目の上のたんこぶでしかないからだ。ヨセフの父親が外へ出て行って言うには、「どうしたんだい兄弟たち。ここには老いぼれと子どもしかおらんよ。金目の物なんてない、あるのはわずかな食料だけだ。それでいいのなら好きなだけ持っていくといい」。これに街の者たちはかんかんに怒って、「とぼけたことを言いやがる! さあ退くんだ、そこにいるんだろう。とっ捕まえてやる!」と言って父親もろとも力ずくで戸口を破らんばかりにした。
中にいたヨセフはすかさずスキャムウィルの手を引いて裏口から出た。しかしスキャムウィルがヨセフの走る速度に追いつけそうになかったので、彼はスキャムウィルを背負ってやった。息を切らしてヨセフが言うには、「父のことなら心配ありません。それよりもどこまで逃げればいいのでしょう。どうしてだかぼくはあなたを助けたいのです」。スキャムウィルが答えて言うには、「街が見えなくなるまで走りなさい。山を越えるのがいいでしょう」。ヨセフはスキャムウィルの助言通りに山を目指した。
冷たい空が白くなってくると、ヨセフは徐々に背中が軽くなるのを感じた。一晩中走り続けたものだから感覚が麻痺したのかと思ったが、実際はスキャムウィルの体が消えかけていただけだった。ヨセフは慌ててスキャムウィルを下ろし、その手を握った。綿のように握れても儚いものだった。夢の終わりだ。
惑うヨセフにスキャムウィルは鈴とデュヴデバンを渡してこう告げた、「この鈴はそなたであり、このデュヴデバンはわたしである。そなたは鈴を肌身離さず身に着けて、デュヴデバンの種をそなたの地に蒔きなさい。そなたがこの鈴の音とデュヴデバンの味を知る限り、わたしはそなたとともにあろう。惜しむらくは、せめてそなたの顔を一目見たかった」。ヨセフはかぶりを振って、「いかないでください。まだ話したいことがたくさんあります」と嘆いた。その目には涙が浮かんでおり、スキャムウィルの閉じた瞳にも涙が浮かんでいた。二人はそこで抱き合って、一人になるまで動くことはなかった。
かくして落日の街は闇に沈み、すべての光は奪われた。けれどもヨセフは生き延びて、遠く離れた安住の地を見出していた。そこでヨセフと名乗って妻を娶り、子宝を授かったが、まもなく放浪の旅に出た。というのも、いまだ決まらぬ子の名前を探すためである。子供は美しい顔立ちの女児だった。ゆえに名は幼少期に出会ったあのうら若き天使と同じにしようと思ったのだ。
そんなヨセフの懐には、いつも、錆びついた鈴とチェリーの種が入っていた。
〈了〉
デュヴデバン 湊 @Hokora
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