花魁道中 ~其の華、露と成らん~

冬 秋

第1話 母の死

道を歩く舞う


軽やかに、それでいて重々しく。


一歩進めば人目は我に。


もう一度進めば世界吉原は我に。


高く背を伸ばす下駄は内に、打掛は派手にヒラリと振るう。


冷たき熱の篭った瞳は目前を据えて。


禿と男衆を侍らせて、ゆっくりと。


紅口白牙、羞花閉月──、花魁道中ここに進まん。



我は吉原花魁 、幻桃げんとう 雪華せつかである──!



✤✤✤


世は江戸 新吉原羅生門河岸。


下級遊女切見世女郎、楠木りん が武士との間に子を孕んだ。


遊女にとっての1番の邪魔となる、「子」をりんは出産した。

普通ならば針金を子宮に刺して胎児を殺すか、冷水に浸かり胎児を殺し、子を作らないのが遊女の常。


しかし、りんは腹に宿ったその子をとして、愛を与えるつもりでいたのだ。


下級の遊女である切見世女郎である彼女は、金銭的な貯蓄がないながらも、文字通り己の体を酷使し、我が子むすめを育てた。


幸乃ゆきの』それがその娘の名前だった。


✤✤✤


「おかえり、お母さん」


りんが、木材で作られた、家とも言えない小屋の扉を開けると、そこには今年で15歳になる娘がいた。


「ただいま、幸乃」


小屋の中は簡素な造りで、下駄脱ぎ、上がりまちの奥に5畳の部屋と布団があるだけ。


その布団の中で幸乃は通りで拾ったらしい読み物を読んでいた。


「何を読んでるんだい?」


「えっと、『犬子集』っていうの。さっき家の前で拾ったんだ」


「そうかい、それはよかったね」


幸乃は幼い頃から読み物が好きだった。この新吉原は多くの武士、大名、藩主が訪れるため、失念物落し物が多い。

その中でも特に多いものが瓦版や本などの読み物。

それを幸乃はよく拾ってくるのだ。


「母さん、夕餉ゆうげは?」


「今日は武士様から白米を頂いたんだよ」


「ホント!?久しぶりのお米だ!!」


金が無く、マトモなものを食べさせることが出来なかったが、幸乃はここまで立派に育った。


白く雪のようなきめ細かい肌。筋の通った鼻。透き通った大きな瞳。そして何より、絹のように艶やかな黒い髪。


傍から見ても、誰もが認める美女であった。


りんの、自慢の娘だった。たったひとつ。無くせないものだった。


「母さんは今日も、暮れ6ツ(18時)に家を出るからね」


「うん、お仕事がんばってね」


「ありがとうね」


18時からは夜の間の仕事。遊女たちにとってはここが稼ぎ時だ。

昼間は多くの人が女遊びではなく、観光のためにこの吉原を訪れることが多い。そのため、昼間は売上が少ない。

それに比べ夜の間は、仕事終わりの客も多く、また、そのために金を多く持っている人が訪れる。だから夜の間は、りん達のような遊女にとっては稼ぎ時なのだ。


太陽が落ち暗くなった世界でこそ、この吉原は本当の輝きを見せる。提灯や灯篭の柔らかく、温かい光が街に熱を伝え、人々の雑踏が街に活気をもたらす。そして人々の声が街に彩りをつける。


男は遊び、快楽に笑う。女は売り、快楽に苦しむ。


そうしてこの吉原遊郭は成り立ってきた。


「それじゃあ、いってくるよ」


「うん!いってらっしゃい」


駆け寄ってくる幸乃の頭を撫でてから、家を出た。


運命は、ここで変わった。



✤✤✤



「お客さん、私とどうだい?」


りんは、自らが勤める女郎屋である『田村屋』の前を通り過ぎた青年に声をかけた。


「あんた──、本当に切見世きりみせか?」


「はい、私は切見世でごさいます」


青年──、中級武士だろうか。その男の問いに余裕を持って答えた。

男が驚くのも仕方なかった。

なぜなら、最下級遊女である切見世女郎と言うには、あまりにもその女りんが美しかったのだ。


「なぜ、あんたみたいな人が切見世に?」


「ありがたいことに、よく言われます。私の父親が借金を持ったまま死んでしまいまして」


「訳ありか」


「左様でございます」


「失礼をした。いくらだ」


「2500円でございます」


「そうか、では──」



快楽に、堕ちた。


屏風のみで隣の遊女と仕切られた部屋でりんは快楽に溺れる。

男は己が欲求のはたらくままに、体を動かす。

礼儀も作法もない。ただ自らがしたいままに。


「お客さん……っ、上手だねぇ……」


「そう、か……、それはよい言葉を頂いた」


何度繰り返しても、この快楽を、心地よいと思うのだ。しかし、しかしだからこそ、



こんなにも



悲しい。




✤✤✤



今夜は時間的にも体力的にも、もう1人の相手を出来そうだ。


「お客さん、少しどうだい」


通りを行く男に声をかけるが、手を上げるだけで過ぎていく。


遊女という仕事に誇りを持ったことは1度もない。愛する人とは結ばれず、ただ遊ばれる。金で買われる。

永遠に続く快楽は、やがては地獄の苦しみとなる。

性病で死ぬ危険すらある。

もし死んだら、切見世などという下級の遊女はドブに捨てられて終わりだ。

りんが死んだら、幸乃を育てる人もいない。

そしたら彼女はどうなるのか、考えたくもなかった。


「お兄さん、ちょっと寄っていかないかい」


切見世テッポウか。いくら美人でも食えん」


だから、この仕事を幸乃だけにはさせたくない。

稼いだお金も、幸乃の小袖や飯代、学のために使った。『遊女の娘』ではなく『普通の女の子』として生きて欲しいからだ。


遊女という仕事は自分の代で終わらせる。りんはそう考えていたのだ。


いつの間にか人通りが1番盛んになる時間になっていた。

黄色く淡い光が、女郎屋の通りを照らす。


「お前か、切見世田村屋のべっぴんな遊女とは」


突然、声をかけられてりんは驚いた。

切見世女郎にわざわざ声をかける人間など稀有な存在でしかない。

普通ならばこちらから声を掛けても、軽蔑の視線を向けられるか、無視されることが多い。客が着くこと自体がとても珍しいのだ。


「そんな大層なものではごいまざせん、訳ありの遊女でごさいます」


それに加え、その男は、切見世女郎下級遊女ではなく、もっと上の遊女を相手にするべき容貌をしていた。豪華な着物には、天という文字の下に一という字が入った家紋、そして腰に携えた刀。正真正銘、上級の武士だった。


「いくらだ」


「2500円でごさいます」


そうして、りんと上級武士の男は、女郎屋に入っていった。

蝋燭ロウソクの火が揺れる薄暗い部屋の中。

仕切られた屏風の奥。


そこが、下級遊女楠木りん、そしてその娘、楠木幸乃の運命を変える場所である。



✤✤✤



「お母さん、帰ってきてないの?」


雀の声で目を覚ました幸乃は、母のりんが家にいないことを不思議に思った。


普段なら深夜の仕事を終えたりんは帰宅し、幸乃が寝ている布団の中に一緒に入り、朝に同時に目を覚ますのだ。しかし今朝は母の姿が見当たらない。


覚めぬ目のまま草履を履いて、外に出て母の勤める女郎屋の田村屋に向かう。


春の澄んだ空とは裏腹に幸乃の心を焦燥感が黒く染めていく。

何が起こっているかは分からないけど、鼓動は早くなるばかり。嫌な予感しかしなかった。


家を出てから5分。田村屋に到着した。営業時間外の女郎屋は人気がなく、シンとしていた。


扉の鍵はかかっていなかった。


軋む音を立てながら引き戸を開く。


どくん。


仕切られた屏風。その付近の畳に、紅くどす黒い液体が染みていた。


どくんどくん。


手が冷たかった。息ができなかった。喉が渇いていた。


それでも足はゆっくりと進む。静かに、ゆったりと。


どくんどくんどくん。


そこにあったのは。



✤✤✤



その娘楠木幸乃にとっても、りんという存在は何よりも大切なものであった。


15歳になる幸乃には、母親がどんな仕事をして、どんな労苦の末に自分を育ててくれたかを理解していた。


自らの体を使い、安い金で自分を売る。


そこで稼いだ雀の涙ほどの金を、幸乃のために使ってくれた。


小袖、食、学。幸乃を普通の女の子にするために。


それを、全て理解していた。


そんな母は尊敬する存在で、たったひとつの無くせないものだった。


毎日頭を撫でてくれた。


それだけで嬉しかった。


自分の、たった1人のお母さんだから。



✤✤✤



そこにあったのは


胸を刀で貫かれた、母だった。


「お、お母さん──!!!」


胸に耳を当てても、脈を触っても、生きている気配がなかった。


畳に染み付いた血液は固まった部分と液体として残っている部分が混在して、出血から時間が経過したことを示していた。


しかし、幸乃にそんなことを考える余裕はなかった。


「お母さん、お母さん!お母さん!!」


母を触る手のひらに血液がべっとりと絡みつく。


「起きてよ!お母さん!お母さん!!」


視界が滲んできた。

頬を涙が伝う。


。その言葉だけが脳ミソに刻まれる。


「ああ、なんで、なんでぇ……うっ、ううっああ、」


視界が歪んで、何も見えない。


幸乃の声を聞いて、開店準備のために向かっていた女郎屋の主人が、駆け寄ってくる。


「幸乃ちゃん、どうしたんだ……これは……っ、見るな、幸乃ちゃん」


そう言って幸乃の視界を塞いだ。


そこからは何が起きたかは覚えていない。


けど、一つだけ、確かなのは──




下級遊女 楠木りん 新吉原羅生門河岸 女郎屋 田村屋にて、胸を刀に貫かれ死亡。犯人不明。



確かなのは。


幸乃という娘に、復讐の冷たい炎が揺らめいたことだ。

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