高黄森哉

 午後の太陽は奇怪に池を照らしている。


 亀だ。亀がいる。万が一、池に落ちても、教科書がぬれてしまわないように、ランドセルは道路に投げ出しておいた。また、靴もしかりだ。裸足に石が食い込んで痛気持ちい。


 フェンスをよじ登る。足の指のあいだで器用に鉄線を挟み込みながら。それも、痛かった。足を刺激しすぎて、ほくろが出来てしまわないか心配だ。噂だが、足の裏の皮膚は角に刺激を受けると、ほくろが出来て、それが癌化してしまうという。


 しまった。


 頂上で、バランスを崩してひっくり返った。柵の向こう側に仰向けに落っこちる。落下の途中、柵の下のコンクリートに膝を強打した。また、池の擁壁が微妙に傾斜しているので、底でも、全身を打撲した。


 ぱしーんとスリッパを全身で叩かれたような衝撃。水面はコンクリート、とまでは言わなくとも、体育マットくらいの固さを持って、僕を受け止めた。鉄の味が舌に溢れ、口内は乾燥している。


 水が次に襲ってきた。身投げした直後にあった身体の正面の空気は、押し寄せる水の壁に挟まれてぴったりと閉じた。乾いた反響は、水中では、くぐもった音に変性していた。


 泡に包まれながら、空をうっすらと見ていると、息苦しさがやって来て、酸素は無限ではないことを教えた。もがきながら水面を目指す。空気だ、酸素が必要なんだ。死ぬ、死ぬ。


 水面に顔が出た。大慌てで空気を吸い込まんとす。しかし、水上に飛び出した身体は、反動で同じだけ沈み込んだ。タイミング悪く水を飲んでしまう。もう一回、もう一回。それで、やっとまともに酸素を補給することができた。


 僕は、自分が泳げるようになっていることに気が付く。人間死ぬ気ですればなんでもできるものだ。じゃあ幸せだね、さてと、オチもついたし終わろうか、とはならない。なぜならば、家に帰るまでが遠足だからだ。


 冷静になってから、周囲を見渡す。当然だが池がある。そして、池の中央には謎の器械が妙な駆動音を立てながらゆっくりと回転している。近くには水鳥がいる。池の四方はコンクリートで滑らかに固められている。


 それにしても、あの回る機械は、なんのために回っているのだろう。ぼんやりと興味が思った。蠅の群体が奏でる羽音のような駆動音を発生させ続けている。まるで、自分が死体になって蠅に群がられている、そんな嫌な気分だ。


 梯子はどこだ、梯子はどこにあるんだ。梯子はどこにもなかった。そうだ、この池は人が落ちることを想定していなかったのである。僕は絶望した。溺れ死ぬという懸念が現実味を帯び出している。


 取り敢えず泳いで排水パイプの穴まで行き、そこに手を突っ込む。これなら、泳ぐよりも、はるかに体力が持ちそうだ。穴の中はヌメヌメしていて、なんだか臭かった。また、小さな穴の中は真っ暗で、巨大な蜘蛛とかが潜んで入そうだ。


 潜んで入そう、と言えば池のなかだってそうだ。足元に巨大な魚や蛇がいたらどうしよう。僕を発見するなり口を開けると、凄い轟音を立てて吸い込んでしまうんだ。足元には無限の深みがあり、吸い込まれそうな感覚もした。


 助けてください。と叫ぶ。通りには何台も車が通っている。彼らはきっちり窓を閉めているので、危機的な状況にある僕に気が付いていない。助けてください、助けてください。


 亀がやってきた。僕があれだけ欲しかった亀が。だけどもういらない。いらないから、僕を元の場所に戻してください。だけど、この世界は寓話じゃなかった。また、童話でもなかった。僕は相変わらず池のなかだ。


 涙が沢山伝って来た。でも、泣くと体力を消耗するだろうから、泣くことは出来なかった。タスケテと叫ぶことも辞めてしまった。車しか通らないからだ。それも、窓をぴったりと閉めた。


 僕はまだあきらめてはいない。どこかに脱出口があるはずだ。探そう。そうだ、あれはどうだろう。と目指したのは、池の角だった。手足を突っ張りのようにして登っていく計画だ。


 駄目だ。よじ登ろうにも、コケがぬるぬるしすぎている。指先が、荒いコンクリートの目に、やすり掛けされてしまった。ジンジンする。人差し指だけ、血がうっすらと滲んでいた。


 そんな些細な傷でも、致命的に思えた。ここは、工場の近くの人工池だから、小さな傷から有害物質が侵入するかもしれない。そうじゃなくても、池に住む人食いバクテリアが今まさに指先から侵入しているのかもしれない。気が遠のきそうだ。


 僕はまた小さな小さな排水溝に指をかけた。


 家ではお母さんが待っているだろうな。今日はパンケーキをリクエストしたから、だから、本来的には今くらいの時間には、甘い甘いパンケーキに蜂蜜をかけているはずだった。なのに、なんて馬鹿なのだろう。


 帰りに友達の家に寄ることがあるから、親は帰ってこなくても、なにかあったな、と気付いてくれないだろうな。また、ここは寄り道だから、仮に異常を感知しても、僕は発見されることはないのだろう。


 やり直したい。池に飛び込む前に時間を戻してください。ああ、なんであんな愚かな、なんの得にもならないことをしたんだろう。亀なんて幾らでも居るのに。ホームセンターで買うことだってできる。生きてさえいれば。


 そう思うと亀に怒りが湧いて来た。排水溝の中にいた子亀を掴み、力任せに壁に叩きつけた。そう、池の壁に向けてだ。甲羅は割れ、中の内臓が飛び散った。その内臓が飛び、鮮やかに壁に染みを作った。


 呪われる。僕はなんてことをしてしまったんだ。お天道様が見てるというのに。もしかしたら、賽の河原式にまさに救ってくれようとしていた可能性がある。だけど、僕はこんなことをした。お終いだ。もう神様は僕を助けてくれない。


 おい、っと声がした。上を見上げると小学生の軍団だった。僕は彼らのことを知らない。助かると思って涙が出てきた。助けてくれーと叫ぶ。だけど、彼らの目は冷たく、僕を見下していた。侮りを目に宿らせながら。


 おまえ、亀を殺しただろ。ぞっとするような意地悪な子供の声だった。僕も彼らと三年くらいしか違わないだろうけど、その幼稚な残酷さを含んだ笑みに震えた。やめろ、やったろどうなるかわかるんだろうな。


 やーい、お前は死ぬんだ。亀殺し。亀殺し。シュプレッヒコール大合唱団だ。僕は泣きながら睨んだ。お前等が死にそうになってても、助けてやるもんか。歯ぎしりが耳朶に響く。


 逃げるように去っていく少年少女の笑い声。殺してやる。ここを出たら復讐してやる。ぼこぼこにしてやる。鉛筆を眼球に刺して、そして笑ってやる。ハサミでちんこを切断してやる。ぷっくりと膨れた胸をつぶしてやる。必ず、必ず。


  日は傾いて、光は暖かな色彩に代わり始めた。


 そろそろ、本当に助からないということもあるんじゃないか、と思い始めた。本当にお終いなんじゃないか。もう、何時間も縁につかまり続けて限界だ。今まで、助かるぞ、と考えていた僕の思考は甘かった。


 助けてください。僕はひとりっ子なんです。親は悲しむだろうな。それがいやだった。兄弟が居たらよかったのに。あとはそうだ、僕はもう二度と、パンケーキを食べることが出来ないんだ。


 殺されたと思うだろうか。だって、いつも通らない道の、フェンスが張り巡らされた池で泳ぐなんて、そんな突飛な行動はとらない主義なのに。怪しいだろう。警察だって殺人で捜査するに違いない。


 親は他殺を疑うに違いない。遺書を書いとこうか。しまった、ランドセルを通りに置いて来た。こんなことになると分かっていたら、ランドセルを持って池に飛び込んだのに。いや、そもそも飛び込まないか。


 じゃあ、自殺だと思うだろうな。違う、違う、これは事故なんだよ。能動的な事故なんだ。自殺する理由なんてない。自殺する理由は、この池に飛び込んでしまった愚かさ以外に、考えることは取り敢えず出来ない。


 夕方で、世界はピンクで、烏が鳴いていて、さっきまで通勤ラッシュだったが、今はもう車が通らない。電線がいつもよりも存在感を増していた。電柱だってそうだ。世界が変化する中で変わらないからだ。昼が終わる。


 六時の時報は、うさぎ~おいし~かのやま~、だった。よい子は家に帰る時間帯だ。僕は急かされてる気分だった。でも、無理だ。叫びに叫んで喉がガラガラだった。人は結局、あの小学生以外通らなかった。そして、彼らは僕を忘れたようだ。


 さらに暗くなると、池の近くの家に照明がともった。カレーの匂いがする。今日の夕食はなんだろうな。カレーって言ってたっけ。僕が大好きなカレー。もう食べられない。ごめんなさい。謝ったって無駄、なら、謝り損だ。


 羨ましい。羨ましいよう。やり直したいよう。さめざめと泣いた。助けてくれよう。助けてくれよう。池の真ん中の機械が唐突に仕事を終えた。今まで賑やかだった蠅の羽音に似た環境音は消え、静寂がやって来る。


 大きな人工池、インクを垂らしたような黒々とした水面がのっぺりと揺れている。辺りは暗く、通りに人はいない。電灯はここら辺にはない。だから、池は真っ暗だ。僕は、自分がどこにいるかさえ分からない。


 つるりと滑った。引っかけてあった手が僕の意志に反して外れたのだ。僕は呼吸しようとした。しかしそこはまだ水中だった。上を目指す。暗すぎてどちらが上下。上はこっちか。早く、早く、時間がない。酸素がない。


 そっちは上か、こっちが下か。苦しい。わああ!! 早く速く。死ぬ、本当に死ぬ。これは冗談じゃない。だから! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。ああああああ!!!!! あ。ぐ、ぐぶぶぶ。ず、ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶっぶぶぶぶぶ。


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高黄森哉 @kamikawa2001

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