Above the

田辺すみ

Above the

 とんぼ、と、思わず声に出してしまった。


 鳥が室内に入ってしまうことは偶にあるけれど、とんぼが、しかも観覧車のゴンドラの中にいるのはどうしたことだろう。


 かずらは、茜に染まった雲を見ていた視線を戻して、サッシに留まっているとんぼを見た。


 この移動遊園地の観覧車に乗り込んだのに、理由は無かった。かずらはニューカッスルで職業学校に通っている日本人留学生だ。日本で働いた経験もあるが、三十を手前にして、このままでいいのかと思った。親とは疎遠で、人付き合いが得意とは言えず、面倒は避け、同じ職場の同じメンバーで、毎日の生活に必要なだけ稼げていれば御の字だ。別に世の中の役に立てる人間になりたいなどという大それたことを望んでいるのではない。けれど、評価も給料も上がらず人間関係がギスギスして、連夜残業などになると、自分には何も無いのだと嫌ほど感じてしまう。頼られるどころか、頼れるものも無い。だから、逃げ出してきたのだ。オーストラリアに。誰も知らない大地に。


 ゴンドラは既に一番高いところへ来ていた。小さな観覧車だ。ディプロマ一年目最後の課題を出し終えて、アルバイトも入っていない、天気の良い夕方だった。遊びにいくような資金も友人もおらず、港をぶらぶらと歩いていると、移動遊園地に行き当たった。射的や輪投げ、ピンボールなどの出店、ジャンピング・キャッスル、滑り台、塗りの禿げかかったメリーゴーランド、ぎしぎし軋むティーカップ、そして小さな観覧車だけのこじんまりとした移動遊園地。今日はもうすぐ閉園時間なのだろう、人影も少なかった。


 何組かの親子連れやカップルが並んでいた観覧車に足が向いた。ティーカップやメリーゴーランドは賑やかすぎる。観覧車は一人で楽しめるはずだった。だから、四分の一ほど進んでゴンドラの向かいに座っていた老年の男性に気が付いて、驚いた。係員に招かれて、ゴンドラに足を踏み入れた時に、相乗りした人物がいたろうか思い出せない。もっとも男性は席の端で、帽子を深く被り眠っているようだった。もしかして、前周回から乗っているお客さんなのかな、とかずらは思ったが、それにしても係員にも自分にも見えていなかったのはおかしい。


 しかし、ゴンドラが上がっていくにつれて、夕暮れの景色の美しさに気を取られた。ニューカッスル港はオーストラリア最大の石炭積出港である。坂に連なる煉瓦の家々と教会、黒く聳える工場群、長く舗装された岸壁と白い砂浜、黄金きんの光を弾く波、そこを横切る大型貨物船。見惚れていたら、視界にとんぼが飛んできたのだ。


「とんぼ」


 と、思わず出てしまった声に、男性が身じろきした。とんぼはサッシを飛び立つと、男性の肩に留まった。


「やっとかね」


 上げられた顔は、日焼けして深い皺を寄せているが、アジア人のものだった。掠れたような眠いような低い声に、かずらは途惑った。


「あの、すみません、肩にとんぼが」


 ああ、と男性は厚く着込んだ撫で肩に留まったとんぼを見た。奥光りしている目は優しそうで、悲しそうだった。


「お嬢さんはどちらの?」


 かずらに向き直っても、とんぼは男性の肩で羽をゆらゆらと揺らしたままだ。かずらは、夢でも見ているような気分になった。


「日本から来て、TAFEで学んでいます」

「いいね。学業は大切だ」

「あの、貴方は」

「私は鉱夫だよ」


 ニューカッスル周辺には炭鉱が多い。こっそり視線を下ろすと、男性の硬そうな手指は黒く煤けていた。夕日を受けて皺の濃く見える頬を緩めて、男性は微笑んだ。


「友人に会うために、ここまで来たんだ」


 とんぼがふわりと舞い上がる。目を細めてその様子を追いながら、男性は続けた。


「石炭を掘るのはなかなか骨が折れるがね、仲間がいるからね」


 ガラスを震わせて汽笛が鳴り、かずらは不意を突かれて眼下を見た。大型貨物船が、港に入ってくる。山のように大きい船体が、こちらからでも分かった。


「オーストラリアはいいね。働くだけ儲かる。あいつは故郷に仕送りしてたんだ。私はほとんど打っちまったんだが、偉い奴さ」


 耳の中で、汽笛がごうごうとなっている。いや、汽笛ではない。何か重いものがレールの上を走る音だ。そのせいか車に酔ったような気分になり、視界が暗澹に狭まってくる。


「前夜に酒を飲みすぎてね、俺は現場に出られなかった。そしたら、どうだ、その日に事故があるなんて……」


 これは、石炭を運ぶトロッコの音だ。怒号や大勢の足音がそれに被さって聞こえる。振動が頭に響く、男性の声が耳の奥で明滅するようで、かずらは息を詰めた。ツルハシやスコップを用いての掘削は、今の時世オーストラリアでは、安全性の上からも効率性の上からもあまり無いことだ。男性は一体、いつの話をしているのだろう。ガタリ、とゴンドラが揺れた。


「お嬢さん、知っているかね? とんぼっていうのは、仏さんの使いなんだ」


 ゴンドラは、頂上から降りていくところだった。おかしい、さっき、頂上に差し掛かったところで、とんぼを見たはずなのに。男性の声が、静かに、鐘の音のように、耳朶をくすぐった。


「あちらへ導いてくれるんだ。……長かったな、やっとだ」


 ここは輪廻の輪。一人だけ惨事から免れてしまった罪悪感と、厳しい労働環境、貧苦と望郷に余生を生きて、私はこの輪に捕えられてしまった。いつの間にか日は完全に水平の向こうへ沈み、薄墨を流したような空の下、街に灯りが点り始める。一つ、また一つと、他のゴンドラにも、蓮華の花が綻んだような光が浮かんだ。かずらは息を呑み、男性に振り向くと、彼の隣にもう一人の影が佇んでいた。


なあ、俺たちの掘っている石炭は、いろんなところで明かりと熱をつくっているんだぞ。それは誇らしいことだ。誰かが暖かい、とか幸せだ、って思うことと、俺たちは繋がっているんだ。この高みからなら、見えるだろう、リー。


お前はいつもそう言っていた、阿南。だけど御免な、俺たちの鉱山はもう閉じる。掘り尽くしてしまったんだ。


いいんだ、時代は変わる。お前がそうやって思うから、あの山から逃れられないから、こちらへ来られなかったんだ。やっと会えた。会って、お前は悪くないって言ってやりたかったのに。


 とんぼが、蓮の香りに戯れるように、かずらの髪先にふわふわと飛んでいる。二人の姿は、まるで引く波の底の砂のように、淡く瞬きながら遠くなりつつあった。会えてよかった、と男性の声が宵空に消えた。


「はい、降りてくださーい」


 かずらは目を瞬かせた。いつの間にかゴンドラはタラップに着いていた。慌てて対面の席を見ても、そこには誰も居なかった。


「あの、一緒に乗っていた人は」

「そのゴンドラにはお客さん一人ですよお、はい、降りてくださーい。閉園時間です」


 明るい色の髪をした学生アルバイトであろう係員は、テキパキとゴンドラから残った乗客たちを降ろすと、機械に走っていって観覧車を止める。草地に放り出された乗客たちは、それぞれ止まった観覧車を見上げていた。黄昏の最後の一筋が、雲の合間から果ての海面に轟いた。そこに駆け上がるのは、鉱夫たちの燃える魂をまとってひるがえる竜。とんぼ、とかずらは漏れそうになる声を堪えた。とんぼ《dragonfly》だ。


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