Cistus albidus
汐海有真(白木犀)
Cistus albidus
恋愛感情というものは、時折耐え難いほどの残酷さを孕むのだろう。
幼馴染の
柔らかな春の気配が、淡く残り続けている頃の季節。僕は亜莉沙の部屋で、白色のクッションに座っていた。亜莉沙は僕の隣で桜色のクッションに腰を下ろしながら、目の前のローテーブルに置かれたショートケーキを食べている。金色のフォークを使って口に運んで、そっと目を細めた。
「んー、おいしいです」
「よかったね」
僕はそう返しながら、自分の分のショートケーキを一口食べた。昔から変わらない味わいは、子どもの頃は大好きだったはずなのに、高校二年生になった今では少し甘すぎる。
亜莉沙の姿を見た。羽織っている長袖のパーカーは、雪のように白い。
「そういえばそういえば、
「どうかした?」
「葉月君は、彼女とかできましたか?」
彼女はほのかに首を傾げながら、微笑んで尋ねた。その質問をされることで、心が
「いないよ、彼女なんて。そもそも僕にできると思う?」
「えー、思いますよ? だって葉月君は顔立ちも整っていますし、クールで優しいですし。モテそうな要素が色々あるじゃないですか?」
「そう言ってくれんのはお前くらいだよ。クラスメイトから見たら、僕はただの陰キャなんで」
「ふーん、そうなんですね。葉月君のかっこよさがわからないなんて、見る目のない連中ですね?」
亜莉沙はくすくすと笑いながら、またショートケーキを頬張った。彼女の言葉に喜んでしまいそうになるけれど、それは勘違いだ。そう自分に言い聞かせるように、一つの質問を口にする。
「お前こそどうなの? 亜莉沙の噂……もう、僕たちの学年まで届いてるんだけど」
「えー、はやあっ! 皆さん、優れた情報網をお持ちなんですね?」
亜莉沙は口角を上げながら、楽しそうに笑った。それから微かに上を向いて、開いた右手の指を一本ずつ折っていく。
「一、二、三、四、五……ちょうど五人ですね、現在のわたしのコイビト。同学年が三人、一つ先輩が一人、二つ先輩が一人」
彼女の述べた事実に、息が詰まった。僕の同級生の誰かも、亜莉沙と関係を持っている……でも暗い感情を表に出すことはせずに、僕は面倒くさそうに笑ってみせた。
「うわあ、やばいね」
「もう、うわあとか言わないでくださいよー、葉月君!」
亜莉沙はぷくっと頬を膨らませて、僕の肩を左手で軽く叩く。どきりとした。柔らかそうで、それでいて
「だって……何というか、すごくない、五人もいるって」
「えー、そうですか? まあ、わたしの言うコイビトは、世間一般の恋人とはちょっと違いますから」
「それ時々言ってるけどさ、よくわかんないからね」
「あはは、何でですかー! ……まあ要は誰とも、本気じゃないんですよ。本当の恋人じゃないです、付き合ってって言われてもはぐらかしてますし。キスまではしますけどね? でも、それ以上のことはしない関係です」
「……亜莉沙ってさ」
「んー、何ですか?」
上目遣いで僕の方を見る彼女に、僕は呆れたように笑ってみせる。
「めちゃめちゃ、悪い女だよな」
「今更気付いたんですかー? 葉月君ったら、おっそいですねえ」
亜莉沙はそう言って、
「……だって、皆に覚えていてほしいんだもん」
ぞくりと、した。
声の温度が、余りにも低かったから。亜莉沙の方を見るのが怖かった。彼女が今浮かべている表情を想うだけで、心が段々と崩れていくように思った。
「恋愛感情って面白いと思いませんか、葉月君?」
再び聞こえた彼女の声は、温かくて楽しげなものに戻っていたから、僕はようやく亜莉沙の方を見ることができた。笑っていた、……でもその笑顔の裏にどれだけの思いを隠しているのか、僕には想像することしかできない。
「恋愛的な意味で好きになった人のことって、どうしようもなく大切で、失いたくなくて、忘れられない存在になりますよね? 不思議ですよね、人間の中にそれだけ大きな熱が宿るなんて、すっごく不思議じゃないですか? 面白いなあって思うんですよ」
僕は何も言うことができないで、代わりにただ、
「……だからわたしは、地球上の皆がわたしに恋しちゃえばいいのになあって、思うの」
彼女の瞳はどこか、ガラス玉のような無機質さを孕んでいて。
僕は自分が泣き出しそうになっていることに気付いて、それは絶対にしてはいけない行為だと思ったから、
「あのさ、ごめん、さっきからお腹痛くて……お手洗い、借りてもいい?」
俯きながらそんな嘘をついて、最低な逃避を選択する。でもきっと、泣くよりはましだ。一番泣きたいのは彼女だから。絶対に、そうだから。
「ああ、全然大丈夫ですよ? すみません、気付かなくて。場所はわかりますよね?」
「勿論。お前の家に来るの、何回目だと思ってんの」
「わからないくらい、沢山」
「僕も同じ答え」
亜莉沙が微笑んでいたことに安堵しながら、僕は彼女に背を向けて扉を開ける。理性と裏腹に一筋目から零れ落ちた雫を、右手で強く拭き取った。
――亜莉沙には生まれつき、心臓に大きな欠陥があった。
彼女が長くは生きられないであろうことを、僕は知っていて。
その事実を初めて、泣きじゃくる亜莉沙から聞かされたとき。狂気的な赤色に染め上げられた夕暮れの帰り道で、僕は何度も世界を呪った。
どうして亜莉沙を選ぶんだろう? どす黒い悪意を形にしたような人間が、彼女よりも死んだ方がいい人間が、この世の中には沢山いるじゃないか。それなのに、どうして。
どうして。どうして。どうして。どうして。どうして……
何度問うても答えは返ってこなくて、僕は自分の柔い肌に爪を立てながら、歩き続けた。
亜莉沙のことが好きだと気付いたのは、いつだっけ。
どうにか落ち着けた気持ちを
年が一歳離れているなんて、小さな僕たちにとっては
好きだと気付いたことに明確なきっかけはなくて、ある日ふと、ああ、好きだな、と思ったのかもしれなかった。そしてそれは多分、ずっと昔のことだった。
亜莉沙の部屋の前に立つ。一度深呼吸をして、ゆっくりと扉を開いた。
彼女の前に置かれた皿には、真っ赤な苺しか残っていなかった。一番好きなものを最後まで取っておく癖は、昔からずっと変わらないんだな、と思う。亜莉沙は顔を上げると、僕に向けて微笑みを零した。
「おかえりなさい、葉月君。お腹は大丈夫ですか?」
「ああ、平気。ごめん、心配かけて」
「ふふ、謝らなくて大丈夫ですよ?」
彼女は笑いながら、金色のフォークで苺をぷすりと刺した。何かが異なっているような気がして、再び亜莉沙の隣に座ったときに、その違和感の正体がわかった。羽織っていた白のパーカーを脱いでいて、彼女の腕が
……痣?
僕は思わず、息を呑んだ。彼女の腕には幾つもの青い痣と、引っ掻かれたような桃色の傷跡があった。亜莉沙はほのかに目を細めながら、苺を
「亜莉沙……!」
「ん、どうしたんですか、葉月君?」
「その腕、誰にやられたの!」
僕の言葉に、亜莉沙は微かに目を見開いた。自分の腕に視線を移して、それからばつが悪そうな表情を浮かべて、軽く微笑んだ。
「あー、忘れてました。隣のクラスの女の子にやられちゃったんです」
「……何で、」
「わたしのコイビトの一人と中学が一緒で、ずっと好きだったんですって。泣きながらわたしのことを殴るものだから、何だか可笑しかったです」
亜莉沙はそう言って、ちろりと舌を出す。それからふふっと笑って、言葉を続けた。
「でもね、わたし、悲しくなかったです。むしろ、ありがたかったんですよ。だってその子は、わたしが憎かったんでしょう? 憎悪でも、うれしいんです。わたしのことを、きっと、ずっと、覚えていてくれるから……」
もう、限界だった。
気付けば僕は、亜莉沙のことを押し倒していた。
彼女はカーペットの上に仰向けになりながら、きょとんとした表情で僕のことを見つめていた。大きな焦げ茶色の瞳は、時折瞬きを繰り返しながら、どこかぼんやりとした心地を
「お前さあっ……、もっと自分を大切にしろよっ……!」
自分の口から出た声が震えていて、その臆病さがどうしようもなく、嫌だった。
亜莉沙の表情は少しずつ、歪んだ笑顔に移ろっていく。
「葉月君、心配してくれているんですね?」
「そりゃあそうだろ……!」
「優しいなあ。……わたしね、葉月君になら、犯されてもいいですよ?」
その言葉に、僕は目を見張る。亜莉沙は僕の頬に手を添えながら、悲しそうに笑った。
「……もしもわたしが、もっと健康な身体に生まれていたら。偽りのコイビトを沢山つくらなくても満たされる、普通の女の子だったら。わたし、葉月君と、本当の恋人になりたかったなあ。……ねえ、それってすごく、甘美だと思いませんか?」
彼女の瞳から一筋、涙が伝う。途方もなく綺麗な透明に、心奪われてしまう。
「……そうだね。甘美、だよ」
「うれしいです。……ねえ、ベッド、そこにあるよ?」
「……しないよ」
「何で?」
亜莉沙は寝転がりながら、首を傾げてみせる。僕は首を横に振って、口を開いた。
「好きな女の子を、そんな風に扱える訳ないだろ……」
「ふうん。葉月君は、優しいですね?」
亜莉沙の表情は、不満げなようにも、満足げなようにも見えた。
言葉とは裏腹に、汚い衝動が、下劣な欲望が、自分の心の中を渦巻いていた。
抱きしめたい。キスしたい。それ以上のことだって、本当は、してしまいたい。
でも、それよりずっと、ずっと……亜莉沙に、生きていてほしかった。
亜莉沙の手が、僕の後頭部に伸びる。若干の力を入れられて、僕と亜莉沙の顔が近付いた。あと少し間違えてしまえば、触れてしまえそうな距離だった。
聞こえる息遣いが、時折閉じられる瞳が、今彼女が生きてくれていることの証拠だった。
自分の口が、勝手に開かれる。
「……し、」
「し?」
「……何でもない」
「ふふ、意気地なしですね」
「うるさいな」
亜莉沙はくすくすと、楽しげに微笑んでみせた。
だから僕もそれに応えるように、貼り付けたように微笑んだ。
――死なないで。
……言うことはしない。
それを口にしたところで、彼女に残酷な現実を突き付けることにしかならないから。
何より、それを最も狂おしいほどに願っているのは、間違いなく目の前の彼女なのだから。
Cistus albidus 汐海有真(白木犀) @tea_olive
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