狼を呼ぶ口笛

月井 忠

第1話

 炭焼き職人の手は黒い。

 故に私の手は黒い。


 父や祖父がそうであったように、私も幼い頃から炭焼きを手伝い、今では立派な職人として腕をふるっている。

 洗っても洗っても手には炭がこびりつき、もはや肌に色素が沈着したように落ちなくなった。


 亡くなった両親が働き者の手だと褒めてくれた、その黒い手で私はじゃがいもを洗い、鍋に張った水に落としていく。

 鍋を両手で持ち、かまどに移し、薪に火をつける。


 今日は満月だ。

 そろそろあの少年がやってくる。


 私は机に置かれたランプを持って、窓辺に置く。

 窓の向こう、夜空の端から、かすかな声が響いてきた。


「狼だぞー! 狼がやって来るぞー!」


 声の在り処は村の入り口辺りだろう。

 ここは三方を森に囲まれた村の外れで、この先に家はなく、隣までも距離がある。


 届く声は、か細く小さい。


 夕食時だった。

 夜空の下で家々がランプの明かりを灯し、一家揃って食卓を囲んでいることだろう。


 彼の声が聞こえたなら、ドアを開け対応する者がいてもいい。

 しかし、少年の声は寒空の下、一人寂しく響くのみだった。


 満月になると、決まって少年は狼が来ると触れ回った。

 初めは村人も話を聞いて対処した。


 狼は来なかった。


 同じことはその後も続き、嘘だとわかってからは、一人として相手にする者はいなくなった。

 彼のことを狼少年と言ってからかう者も出始めた。


 少年の生い立ちには同情すべきものがある。


 私は台所に戻って、茹で上がったじゃがいもを皿に乗せ、ドアを開ける。


 そろそろ雪がやってくる。

 かがんで皿を置いた。


 少年が来る満月の夜には、いつもこうしている。

 彼が帰った後には空の皿が残されていた。


 施しのようにも映るだろうが、贖罪と言った方が良い。

 私には罪がある。


 ドアを閉め、窓に戻ると少年の声は聞こえなくなっていた。

 いつもなら、どんどん近づいてくるはずの声が、今日に限って止んでいたのだ。


 代わりに奇妙な沈黙があった。

 静かな夜は、少年の声をなくし、より一層深く静まった。


「ぎゃー」


 男とも女ともつかない叫びが聞こえた。

 その声に呼応するように、叫びの声は一つ二つと増えていく。


 遠くには立ち上る火の手が見えた。

 村の入り口にある家が燃えているようだった。


 ランプを持って、ドアを開ける。

 地面には皿に乗ったままのじゃがいもがあった。


 さっと影が現れる。


 細い足が皿を蹴飛ばし、じゃがいもは投げ出された。


 四本の足は静止した。


 ゆっくり視線を上げると灰色の狼が目の前にいた。


 こちらに顔を向けている。

 視線が互いに絡み合って離れない。


 狼の金色の目には私が映り込んでいた。


 狼は前足を出し、後ろ足がそれに続く。


 私は玄関でへたり込んだ。

 腰が抜けていた。


「待て!」

 左から声がした。


 弾かれるように顔を向ける。


 そこには巨大な四本の足があった。


 白銀の狼。


 見上げると姿形は狼そのものだが、明らかに狼とは違う大きさだった。


 雪のように白い毛皮の先が、小さな風にゆらゆらと揺れている。

 むき出しの牙は人の手ほどはあるだろうか。


 更に驚いたのは、その目だった。

 右目は狼と同じように金色をしているのだが、左目は血のように赤く、見つめられるだけで生きた心地がしない。


 視線を更に上に持っていくと、そこには白銀の狼にまたがる少年の姿があった。

 ぼさぼさの髪と粗末な服を着ているが、そうした容姿に不釣り合いなネックレスを胸元に輝かせている。


 満月はその向こうで控えめに光っていた。


 しばらく、少年と目を合わせていた。


 口は驚きで開いたままだが、声を発することはできなかった。


 冷たい突風が横切る。


 風は少年のぼさぼさの髪を吹き、顎まであった前髪を払う。

 隠されていた右目があらわになった。


 さらなる驚きが私を捉えた。

 少年の右目も白銀の狼と同じように、血のような赤い色をしていた。


 慌てた様子で髪をなでつけ目を隠すと、少年は顔を背け、指で輪っかを作り口に運ぶ。

 ピーッと高い音が静かな夜を切り裂いた。


 すぐに何匹もの狼たちが、少年と白銀の狼の元に集まった。

 駆けつけた灰色の狼たちは、牙や爪を赤く染めていた。


 私は少年のことを見る。

 少年は私のことを見ない。


 白銀の狼がゆっくり首を左に回し、来た道を戻っていく。

 私は少年の背中を見続けていた。


 狼たちは足音一つ立てずに去っていく。

 村人の叫びはすでになく、遠くでパチパチと燃える音だけが響いていた。


 私は助かったのだろうか。

 村人の叫びは狼に襲われたということなのか。


 なぜ私は助かった?

 少年にじゃがいもを上げていたから?


 尻餅をついたまま、辺りを見回す。

 白銀の狼の大きな足跡がくっきりと地面に残っている。


 近くには、ばらばらに砕けたじゃがいもが転がっていた。




 生き残ったのは私だけだった。

 いつも木炭を買ってくれる気のいい夫婦、何にでも文句をつけるうるさい老人、そして村の子どもたち。


 全員が狼に噛み殺されていた。


 私はすぐに隣村に向かい、少年のことを伏せて村のことを話した。


 誰も白銀の狼を信じない。


 少年は「狼が来る」といつも言っていた。

 信じてもらえないというのは、こんな気持ちなのだろうか。


 隣村の人間を三人ほど村まで連れて行き、惨状を見せることで彼らは私の話を信じた。


 その後、近隣で白銀の狼を見かけるようになったという。

 少年のまたがる姿は伝えられなかったが、白銀の狼の噂はまたたく間に広まった。


 村人のいなくなった村には、続々と討伐目当ての冒険者たちが集まるようになる。

 彼らは家主のいなくなった家を勝手に壊し、新たに自分たちの家を建てた。


 村は変わっていった。


 さらに彼らは魔石なる物を持ち込んだ。

 魔石は内包される魔力を使って、使用した魔法を維持するこができるらしい。


 火の魔法を使うことで、火力も持続時間も調節できるという。


 木炭も薪もいらなくなった。


 気づけば私は仕事を失っていた。


 それでも私の手は黒かった。




 今日は満月だ。


 私は変わらず、黒い手でじゃがいもを洗い、茹でている。

 両親が褒め、自分も誇りに思っていた黒い手だが今は違う。


 ランプを持って窓辺に向かう。


 すっかり賑やかになった村は夜でも騒がしく、少年が声を上げたとしても、この家まで届くことはないだろう。


 少年は死んでしまったのか。

 あるいは狼たちに指示を与え、山で暮らしているのか。


 白銀の狼の噂で一つ気になることがあった。


 赤い目だ。


 噂ではそのようなことを一度も聞いたことがない。

 あの血のような赤を見て忘れられる者などいない。


 聞くところによると従魔契約というものがあるらしい。

 あの目はそういうことだったのだろうか。


 白銀の狼がいるなら少年も健在なのだろうか。


 生きているなら伝えたい。

 キミは間違いを犯したと。


 キミが真っ先に殺すべきは私だった。


 少年の家族は、村から離れた山の裾野に住んでいた。

 私は冬の間、炭焼きをしているが雪がない季節には伐採をして木材を売っていた。


 少年の父は散々私を殴った。


 家の周りにある上質な木は、自分のものだと言い張って切らせなかったのだ。


 そのことを村長に言うと、村人が総出で少年の家に押しかけた。


 何があったかは知らない。


 私が駆けつけると少年の父母は死体になっていた。

 その年初めての雪が降り、死体には雪が積もり始めていた。


 その情景が目に浮かぶと、ふと思い出す。

 村長は母親の死体からネックレスを奪っていなかったか。


 そのネックレスは、白銀の狼にまたがる少年がしていた物と同じだったかもしれない。


 やはり私には何かができたはずだ。


 少年の家の木ではなく、他の場所の木を切ればこと足りると言えたし、村人たちの暴走を止めることだってできた。


 自分の黒い手を誇れなくなったのは、この頃からだ。


 私は茹で上がったじゃがいもを皿に乗せてドアを開ける。

 雪がはらはらと舞い落ち、うっすら積り始めていた。


 あの時と同じように、かがんで置く。


 あれから一度として、この皿が空になったことはない。


 その場に腰を下ろした。


 私は真っ黒な指で輪っかを作って口に運ぶ。


 少年のように口笛を吹いてみる。


 未だ高く澄んだ音は出ない。


 口笛をうまく吹くことができたら白銀の狼がやってきて、私の喉笛を噛み切ってくれるかもしれない。


 だが確信があった。


 この醜い口笛は、きっと誰の元にも届かない。

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