インビジブルⅣ

安条序那

終わった後の日

「行きましたね」


 数分前、地上最後の希望の船が空に向かって飛び立った。

 理想郷を目指した船は、灰色の空に虹と共に穴を開け何条もの幾何学模様の光と共に旅立っていった。

 この部屋に残ったのは地上最後の二人、レーティン・マクガフィン教授とアラガ・ヒラヒサ准教授だった。

 天からは緋色の雪粒のようなものが地上に満遍なく降り注いで、その先には大きな金管楽器の絡まったような羽を持つ大きな、余りにも大きな天を覆う程の生き物が立っていた。

 複数の頭を持って、或いは複数の表情を持って、そのどれもが地上に笑いかけていた。実際にその『生き物』は、今も優しく微笑みかけて祝福するかのように、目の前を通り過ぎる最後の船を見守っていた。


「彼らはうまくやってくれるといいのですが」


 襤褸きれの布のようになった擦り切れたリクライニングチェアにアラガはどっかりと体を預け、伸びっぱなしだった無精ひげと髪の毛に乱雑にばっさりと鋏を入れた。そうすると奇妙なおかっぱ頭と真っ直ぐなひげが四角く奇妙なシルエットになった。

 ばさりと重たい音を立てて繊維の束が地面に落ちて毛が辺りに散らばっても、もう綺麗好きのマクガフィン教授は何も言わなかった。


「それより君、良かったのかね。あの船に乗りさえすれば本当に進めたかった研究の続きが出来たかもしれなかったのに」

「いいんです。インビジブルⅣのアルコーエンジン規格の設計者は僕です。あのエンジンがどんな欠点を抱えていて、それがどうオペレーションしてやれば解決出来るか、それは伝えることは出来ても感覚は教えられない。あいつの暴走を感覚で理解できるのは、ぼくしかいない。他の人間では飛ばせなかったでしょうから」

「……始動から圏外脱出までの不安定さがやはり最後までクリアできず、か。逆に安定さえしてしまえば、後は何とでも、ということだな。君がいないのでは向こう側で彼らも苦労するだろうよ。しかしまるで、あの船を兄弟のように言うじゃないか」

「この数年……いや、もう十一年になりますか。人類が全部の時間とリソースを積み上げて作った脱出船は、血の付いた鉄くずになって地上に落ちていきました。インビジブルⅣはその最後の船、そして虎の子の船です。初型のパンタレイⅠ号の設計者は、僕の母だった」


 教授はおもむろに立ち上がって、ほこり被った戸棚を開けると、琥珀色の満たす瓶とショットグラスを取り出して、緩やかな手取りで磨きつつ口を開いた。


「ということは、君はパンタレイⅠには乗らなかったのか。それとも、母アラガ氏が地上に残していった、ということかな」

「そういうことです。当時は酷く母を恨みましたがね。でも今なら分かる。アルコーエンジンの前進燃焼機関には明確な欠点があった。でも当時はできるだけ多くの知性、そして人間が人間らしくあるための『知識』それを少しでも残すために例え不完全な機体でも飛ばなきゃ行けなかった。もう既に十年前には人類に猶予がなかった」


 ショットグラスに注がれた液体は、人類がまだ木と醸造庫、そしてそれを継いでいく為の技術と余裕、豊かな生活物資に囲まれていた頃の高級品だった。ラベルには12年と書かれて開けられていなかったが、その中身は既に半分ほどが消えていた。

 そっとグラスを持ち上げてその向こう側を透かして見ると、パンタレイⅠ号の空中分解事故が思い起こされた。

 地上最大規模の輸送船パンタレイⅠ号、乗員4500名がアースⅣと名付けられた新型内燃機関にて射出された。アース内燃機関は実際の射出時と同負荷の耐久実験が三度にわたって行われたが問題なく、史上最高の惑星間飛行船と称され多くのプロパガンダが打たれ希望の象徴となった。

 その射出コンディションは最高の状態が保障され、パンタレイⅠの為にまだ人間が住んでいた可住地域の約5%が発着場として埋め立てられた。これによって人類の食料計画は大きく圧迫され、その先は時間が経てば経つほど人類の食糧問題は酷くなっていくだろう、と予測された。

 しかし事実は、それに反して人類の減少が食料の減少を上回った。乳幼児の死亡率が9割を超えたからだった。『天使病』と呼ばれる肩甲骨が肺出血を伴いながら背側に隆起し死亡する骨格変異を6歳以下の子供がほぼ漏れなく発症し、そしてそれを解決するための人類のリソースは、もう無かった。

 翻って、パンタレイⅠ号は圏外脱出直前まで安定し地上からのオペレーション、及び計器類についても一切の異常が無かった。しかし突然、エンジンから走った炎が居住区の壁を走った。その瞬間だった。

 空が弾けたように地上を光で覆った。空を見上げた人々が目にしたのは、希望の船が寄る辺ない空で燃えている様子だった。4500人という膨大な人数が乗る船である。当然緊急用脱出装置は足りず、またなぜかその一つも作動もしなかった。

 通信は最後まで繋がっており、最後まで残った優秀な科学者と操縦者達は燃える部屋と尽きていく酸素の中、起こった状況データを最後まで送り続け、残された映像には一酸化炭素中毒で死亡した人々が船の揺れと共に右へ左へ転がっていく残酷な映像が残っていた。

 後に原因は解明されたが、それはアースがなぜ三回もの試験負荷実験に耐えたか疑問な程に設計段階から既に正常な飛行が著しく難しいことを示唆していた。かくして、人類の最後の技術戦争が始まったのだった。

『できるだけ多くの人間を飛ばす』たったそれだけの為に、『地上に居たくない』その恐怖だけが人類を協力させていた。


「あの『生き物』から降り注ぐ緋色の雪は止められない。破壊も出来ず、動きもしない。それが地上からなくならないことが分かった時――人間は空の向こうに行くしかなくなった。そして、全員が行けないと分かった時……バベルの塔の寓話のように引き裂かれて協力できなくなった。そしてもうどうしようもないくらい文明が破壊されて誰も生きられなくなった時、ようやく結束できた。けれどその希望の船は――」

「空で燃え尽きた。誰も遺体は残らなかった。だから……母を許さない為に科学者になったんです。なぜあの日、ぼくも乗せてくれなかったのか聞きたくて」


 細い目で窓の外を見ながら、汚れたコップに瓶の中身を注ぎ入れる。


「なぜって、それは君……」


 ぐっと中身を一杯煽って、教授の言葉を遮るようにアラガは言葉を割り込ませた。


「この希望を完全に失った世界で生きることは――希望を持って空で死ぬことよりも良いことだと、教授は言うんですか」


 一気に回ったのか、それとも頭に血が上ったのか、アラガの顔は真っ赤になっていた。


「僕にとって、アースは兄弟だったんです。母の研究所で一刻一刻と組み上がっていく、弟のようなものだったんです。母にとっても、そしてパンタレイⅠの整備員、開発者、建築者、全てにとってあれは家族であり、家そのものであり、人類の希望だった。それに乗って死ぬならそれだって幸せだったでしょう。だからパンタレイⅠの技術者達は最後まで希望を失わずにデータを送り続けた! それ以降の脱出船が全て空で燃えはじめた時、誰も応答しなかったでしょう?」

「……いや。私の思慮不足だった。君は母アラガ氏を超えてきたのだね」


 マクガフィンはアラガが冷静さを欠いているのを見て、視線を伏せた。


「いいえ。彼女を踏まえて、超えねばならなかった。最低人数だけを地上に残し、送れる分を最大限ハビタブルゾーン惑星に送る。技術者として、研究者として、できることの最後ですよ。そして、完成させた。だから、僕らは今世界で一番の科学者で技術者です。5000人がほぼ永続的に旅できる船だ。歴史にだって類を見ない偉業だ。私は地球人類の総人口の99.9%を空に飛ばした! ……これが、地球の科学者なんですよ」


 興奮していたのを自覚してか、握った拳を緩やかに解いて、アラガは下手に笑顔を見せた。


「……この先、どうするかね。空の向こうの彼らが、いつか私たちを助けに来てくれるのを待つかね」


 発着場のだだっ広い地面は既に発射の衝撃でコンクリートが剥がれおちて毀れていた。発射の反動によって何十メートルの大穴が空いていた。その回りの地面には染みのような紅い液体が燻るように地上に落ちては揮発して、色の付いたガソリンのように不浄に大気を満たしていた。


「彼らは、いつか地球には帰ってくるでしょう。しかし重力に対しての時間の影響を鑑みるとそれは1000年先か、或いは10000年先かわかりません。そこまでぼくらは生きていません」

「じゃあ」


 マクガフィンは笑って言った。


「私たちでアダムとイブになるかね?」

「冗談。もうこりごりですよ」


 二人は少々密やかに笑い、窓の外の『羽を持つ生き物』に視線が集まっていた。

 大きな大きな生き物だった。地球の体積のおよそ十分の一、最高点は1200kmにも及ぶ。

 10年ほど前のなんでもない日、それは地球に『降り立って』ほんの少し羽を動かした後、眠りはじめた。

 ほんの少し翼のような皮膜を動かしただけ。たったそれだけ、たったそれだけで地球人口の23%が死亡した。

 死因は津波と暴風による倒壊、種々自然災害が起こったからだった。そしてその一年後、その生き物の体表から何かが剥がれ落ち始めた。

 雨雲のようなそれは程なくして地上を薄く覆った。その中でも濃度の高いものが地上に降ると、作物は枯れ、緋色の雪で人は死んだ。理由は不明だった。

 それが意味したのは、濃い緋色の雪が降る地域は住めない、ということだった。場所が特定され、気が付けば人類の居住可能地域は以前の半分以下になり、争い、密集による感染病、災いは瞬く間に人類の個体数は減らした。降ってきた“それ”が何かすら調べきることが出来なくなった。

 愚かな戦いだった。失っていたのは、最も貴重な『人』だということに、人類は取り返しが付かなくなるまで気付かなかった。或いは、気付いていても、それが大きな集団自殺になっているとしても、既に止められるほどのまとまった力は人類には残されていなかった。


「私たちは、地上最後の生き残りになったわけだが。幸い食料は十分過ぎるほどにあるし、育てられる。争いは終わった」

「おまけに研究対象もある。変な体液とか、降ってる雪の基礎研究になりそうですけど」

「時間もある。まあ、それもあと一秒か、それとも私たちの死ぬまでかはわからんがね。まずは……掃除だな」


 マクガフィンは毛束を掴みあげると窓を開け放った。風と共に様々な汚穢が散っていき、生温い風が室内を駆けた。


「雲の切れ間がある。久しいな」


 空には打ち上げた船の軌跡がいつまでも残っていた。

 それが暖かな日照を生み出して、つぶらな瞳のように煌めく太陽が地上を差していた。

 雲の切れ間が風に流れ、それが空模様を変え太陽光が『生き物』を照らした時、マクガフィンは確かにその生き物が嘶き、蠢いたことを確認した。


「見たかね、アラガくん」


 アラガの瞳にも驚きの色があった。


「『動いた』。太陽の光で?」

「わからない。でも、これは……『発見』だ」


 茫然と、二人の中に何かが満ち始めていた。

 達成の先の空っぽの時間を埋めるための理由ができた。

 そうなれば、二人の意志は固まっていた。


「アレ、解き明かしちゃおうぜ。アラガ」

「いいですよ。いい暇つぶしになるかも」

 二人の口角が上がる。そこには地上に残った最後の地球人達が居た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

インビジブルⅣ 安条序那 @jonathan_jona

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ