第4話 人それぞれって言うでしょう?
この間の、お母さんとお婆ちゃんが蜂の巣の処理を巡って言いあいをしてから、二人の様子が少しおかしくなった。
……というより、どちらかというと、お婆ちゃんがお母さんへ注意と言う名の言いがかりをつけることが増えた。
豆腐は舌触りの悪い木綿ではなく、家族のことを考えて絹にすべき。
チンゲンサイの根元の膨らんでいる部分を食べるのは変わってる人しかいないからやめなさい。
もやしは十五分くらい茹でて、透明になったのを確認、更にシャキシャキ感を完全に無くさないと気持ち悪い。
買い物はその日に必要なものだけを毎日買いに行くべきで、冷蔵庫に在庫の物があるのはおかしい。
葉物野菜が切れたときに、彩りに使用する飾り用バランを常に用意しておくべき。
フライパンも鍋も複数使うのは贅沢。一つずつにして、一回一回洗って次のおかずを作るべき。
忙しい朝にどうしてご飯を用意するのか?すぐに用意して片付けられるパンを常備しておくべき。食パンは六枚切りがちょうど良くて普通。
ご飯のときに牛乳を飲むのはおかしい。ご飯と合うお茶を飲むのが普通———…等々。
顔を合わせれば、お母さんのすることすること全部に何かしら言ってる。
言葉の最後は常に『ご近所さんは、私の友だちは皆んなそうしてる。そう言ってる。普通はそうする。』で締め括られる。
……確かに!と思うこともあるにはあるけど、大抵はあまりに言ってることが微妙だったり細かすぎたりで、『嫁いびり』という言葉が頭に浮かんだくらいだ。
……だけど、そんなお婆ちゃんへのお母さんの態度はあまり変わらなかった。
……というか、変わらなさすぎて、逆に怖い。
『そうなんですか〜?人それぞれですからね〜』
と微笑みながら返事はするけど、その通りにすることは殆どないからだ。明らかにお婆ちゃんの話をことごとく聞き流している。
そんなことが何日も続いて、夕食の時間。
『ご飯のときに牛乳を〜』の話になったとき、我慢し切れなくなったらしいお婆ちゃんが、
「結衣さん、貴女、人の話を全く聞いてないでしょう!?」
と詰め寄った。お母さんは、
「ちゃんと聞いてます。でも私は牛乳好きだし、栄養バランスも考えて飲んでます。」
と返しながら、食卓のそれぞれの席に牛乳の入ったコップを置いた。……お婆ちゃん以外の席に。
お婆ちゃんはやっぱりそれが気に入らなかったみたいで、
「ご飯と牛乳を一緒に口の中で混ぜながら食べるのは気持ち悪いでしょ?そんなふうに食べる人は行儀悪く見えるし、ちょっと変わってると思わない?」
と口端を引き攣らせながら言って、
「クチャクチャ音を立てながら食べるのは行儀が悪いので、口の中の物が見えるようには食べませんし、ご飯と牛乳を混ぜながら食べたこともありませんね。飲み込んでから次を食べたり飲んだりしてますよ。
ご飯のときに飲み物を牛乳にするのも別に変わってるとは思いません。
お茶でも牛乳でも、好きなものを飲んだらいいんじゃないですか?」
と言い返されていた。
私はお婆ちゃんの主張に何となく納得できなかったんだけど、どうしてそう思うのかがわからなくて悩んだ。
今日は牛乳だけど、私も弟もお茶やそれ以外を飲むこともあるし、お父さんは牛乳よりお茶を飲むことが多いけど、それに対してお母さんが何か言ったことはなかった筈……。じゃあお婆ちゃんが牛乳以外の飲み物のことを言わないのはどうしてなんだろう?
でも、更にお婆ちゃんが責めるように言い募った言葉にお母さんが言い返したとき、私が納得できずにもやもやしていたのは何故だったのかがはっきりわかった。
中学校を卒業して一年以上経っている。給食が無くなって、お昼はお弁当か学食かになった。お昼に牛乳を飲むことも無くなってたから、すぐには思いつかなかったんだ。
「ご飯はお茶漬けとかするでしょう?
だからご飯のときに出す飲み物はお茶にするのが普通なのよ。
パン食なら牛乳と一緒に食べてもおかしく無いけど、ご飯と一緒なのはおかしいわ。そういうことを結衣さんはちゃんと習わなかったの?
ご両親は教えてくれなかった?」
「……それを言うなら、学校給食の所為ですね。
給食だとご飯でもパンでも牛乳が毎日出てきますから、それに慣れて飲み物が牛乳になってしまったんですよ。」
……お母さんの言葉に反論できる人が何人いるのか?
お母さんがそう言った瞬間、黙ってスマホを弄っていた真一が、私の横でブハッと吹き出した。
「そうだよな。俺、学校で毎日飲んでるもん。」
さっきまで少しイライラしていたのが嘘のように肩を震わせて笑っている。
それを見たお婆ちゃんの眉が跳ねあがった。
それから、怒っていますと言わんばかりに早口で捲し立てる。
「!給食は…そう、栄養を考えて飲み物を牛乳にしてるけど、家でまでしなくてもいいのよ!
私はずっとおかしいと思ってたし、気持ち悪かったけど我慢して飲んでいたわ。
結衣さんは自分が牛乳を好きだからって、家族にまで強要するのは駄目でしょう?
自分のことだけじゃなくて、ちゃんと他の人のことも考えるようにしないといけないと思わないの!?」
「家族に強要したことはありませんね。
琴音も真一も違う飲み物を飲むこともよくありますし、誠司さんは朝に珈琲を飲んで出勤してます。
琴音はもう高校生でお昼に牛乳を飲むことは無いでしょうから、家で飲んでも良いと思ってますし、お義母さんにも強要したことはありませんよね?
珈琲に少し入れるくらいじゃなかったですか?」
「私は牛乳が好きじゃないからね。珈琲に少し入れるくらいでいいのよ。
教師生活の間に、何十年も散々毎日飲まされたんだから!
他のお家じゃ、牛乳なんて一週間に一本くらい飲んだらいい方だって言ってたわ。
それに比べて我が家は飲み過ぎよ。
ご飯のときに牛乳を出されてるのを見ちゃったら、それが自分のじゃなくても相手が気分を悪くすることがわかってるんだからやめてあげないと!普通はそう思うものよ?こうやって他の人に言われたら嫌な気分になるじゃない?結衣さんはそう言われないように気をつけようとは思わないの?
そんなことになる前に、私が注意してあげてるのよ?」
「……そんなことを言う人は私の友人にいませんけど、わざわざ言ってくる人がいたら、絶対に深く関わらないようにしたいと思いますね。性格が相当歪んでいる人だと思いますし、そんな人に関わったら、絶対余計な揉めごとに巻き込まれますよ。」
お母さんの言葉は、聞いて初めて自覚したけど、私ですらそうだろうなと思う返答だった。
……また真一がブハッと吹き出す。
お婆ちゃんの顔がみるみる赤くなった。
まるでギャグアニメでも見てるみたい。
……いや、なんで怒るの?お母さん、ホントのことしか言ってないのに。
それからの話は……、なんか、ちょっとおかしい。
「またそんなふうに、人のことを悪く言うのは良くないわ。
周囲の人がそういうことを言うのは、貴女の悪いところを直してあげようとして言ってくれてるのよ?
結衣さんはもう少し謙虚になって、人の言うことに耳を傾けないといけないんじゃない?」
「時と場合によると思います。
……ご飯のときに牛乳を飲むのは悪いから、やめるように注意してくれてる?
いちいち人の飲んでる物を確認してとやかく言うのは、ただの嫌がらせですよ。
にんにく臭さを撒き散らしてる訳でも、汚く食べ散らかしている訳でもない……。他人が口出しするような話ではありませんね。
ご飯のときに牛乳を飲んでいるのを見て、『気分が悪くなる』人がいるから飲むな、なんて、言いがかりにも程があります。その人、よっぽど世の中に不満があるんでしょう。
好き嫌いなんて人それぞれです。
自分と違うからといって、良いも悪いもありませんし、八つ当たりされるほうはとても迷惑です。」
お母さんの顔は、いわゆる真顔で話してた。
無表情で、静かに、淡々とお婆ちゃんの話を全否定する。……キッツい言葉をかろうじてマトモに聞こえるよう、丁寧に取り繕って話してる感じがヒシヒシしたけど。
……まあ、食事どきに牛乳を出しただけで悪いと言われ、言うことを聞かなければ、貴女のために言ってくれているのに謙虚さがないだの、何だの言われたら———めちゃくちゃ腹が立つ。
私だったらムカついて口汚く罵ってしまいそう。
お母さんはよく、ああ冷静に話ができるな……。
……というか、お婆ちゃんは気づいてるのかな?
『お義母さん』と名指しはしてないけど、お母さんが『嫌がらせしてくる人』『不満を八つ当たりしてくる迷惑な人』と言ってる対象は、誰が聞いてもお婆ちゃんのことだ。
お婆ちゃんはそれだけ言われても、まだムキになって反論していた。
真一はもうお腹を押さえてヒーヒー言っていた。
「結衣さんは人それぞれと言うけど、それでも人を思いやる気持ちがない……とまでは言わないけど、ちょっと配慮が足りないと思うわ。
牛乳のこと一つにしてもそう。
去年、私の誕生日に和食のお店にみんなで食べに行ったでしょう?
そのときも結衣さんは人への配慮や協調性が足りないと思ったわ。
コース料理の最後に、デザートを三つのうちから選べたのを覚えてる?
結衣さんは白玉善哉を注文していたけど、琴音ちゃんも真一くんも誠司もバニラアイスを頼んでいたでしょう?
私も餡子が好きだから白玉善哉のほうが良かったけど、みんながバニラアイスを頼んだから、それに合わせてバニラアイスにしたの。
……なのに結衣さんは一人だけ違うデザートを頼んでいた。
別々に作る手間とかを考えたらそんなことは出来なかったと思うのよ。
結衣さんは店員さんの手間とかを考えられなかったの?悪いことをしたと思わなかった?
そういう配慮が出来ないのは良くないし、やっぱり協調性と思いやりをもって行動出来ないところは直さないと。
結衣さんはそういうのがまだまだ足りないわね。
普通なら、みんなからどう思われるかとか、そういうことを考えて行動しないとと思うものよ?
そこから外れたら注意されるし、注意されたら悪いところを直そうと努力しないといけない。
結衣さんは『自分は』って、そこのところがちょっと、我が強いというか、人の忠告を聞き入れないところがあるわね。
それは人と人との関係を悪くするから、直さないといけないところよ?」
……いや待って!ちょっと待って!!
……お婆ちゃんって、言ってること自体は別におかしなこと言ってない……ことはないか。それまでの会話の内容を思い出すと、おかしなことだらけで何を言っていいかわからなくなっちゃう。
言ってやったぜと言わんばかりのお婆ちゃんは、『それはメニューを選べるようにした店側の責任ですね。どうぞお店の本社へでも苦情をどうぞ。選択肢が無ければ私も同じものを食べていたでしょうから。』と返されてまた激高してた。
自分の友人たちがその場にいたら、一人だけ違うデザートを食べてるお母さんを非難した筈だとか、店員さんたちも面倒なことをさせられて嫌な思いをしていた筈だとか、そんなことをお母さんへ一生懸命に言っていたけど、お母さんはどこ吹く風で、『メニューに載っている商品を普通に頼んだだけの客に文句をつけるような店へ行くのは金輪際やめましょう。子どもの教育にも良くないです。』と言ったので、お婆ちゃんだけがどんどんヒートアップしていった。
お母さんとお婆ちゃんが言い合いをしている間に夕飯を食べ終わった真一が、皿を片付けようと席を立たずに笑い転げているのもわかる気がした。珍しくスマホを出してない。
話の続きが気になって仕方ないんだと思う。
お母さんも話しながら少しずつ食べていて、残りは半分ほどになっていた。
お婆ちゃんは話に熱中してまだ箸もつけてないけど、私に話を振られている訳でもなかったから、このおかしな会話を聞きながら食べ進めることにした。
……この煮込みハンバーグ美味しいな。
暫くして、言いたいことを言い終えたらしいお婆ちゃんの、ふんという得意げにも聞こえる鼻息を聞きながら、お母さんをチラリと見たら、さっきまでの無表情が嘘のように、にっこり笑ってる。
ゾワ
その恐い笑顔のまま、お母さんが口を開いた。
「……そうですね。お義母さんの言いたいことはわかりました。」
柔らかく優しい声に、お婆ちゃんがうんうん頷く。
「学校教育が大失敗だということなので、まずは元教職員だったお義母さんから、給食センターか、教育委員会かに一連のことを陳情すべきですね。よろしくお願いします。」
「!?どうしてそんな話になるの!」
お婆ちゃんがビックリして悲鳴をあげた。
……お母さんすごい。言いたくても普通は言わないわ……。普通はふざけるな!って喧嘩になる。
でも話の流れ的に、一番穏便(?)な解決策はお母さんの提案する話になるよね……。普通言わないけど。
……お母さん、相当頭にきてるなぁ。
「今と違って、私が給食で牛乳を飲んでいたのは小学校時代と中学校時代の併せて九年間です。
中学校はお弁当で、牛乳は申し込み制でしたけど、私は飲んでいました。
今はたくさんの中学校でも給食が提供されていて、牛乳は給食とセットのところと、申し込み制のところがありますけど。
三十年以上も前の、私の時代から行われている間違った食育が今も続いているのは、そのときに現役だったお義母さんにも責任がありますよ。
どうしてその当時に、わかっていて間違いを正さなかったんですか?
そのときに常識として、米と牛乳を一緒に食べるのは間違いだと教育すべきだったんじゃありませんか?」
「……そうなってれば、結衣さんは牛乳を飲まなかったの?」
「当たり前ですね。
小学一年生って、年齢で言えば六歳か七歳ですよ。小さい子って素直ですから、そのときに教えられたことは、後々大人になっても残っています。
私もそう教えられていれば、習慣として米とは別にして飲んだでしょうね。」
「でも栄養バランスを考えて牛乳をだしていたんだから……「それでも間違いを正す教育することはできた筈です。家庭科の授業でもなんでもいい。ご飯と牛乳を一緒に食べることは、本当は他人の気持ちを考えない行為で、思いやりがない行為だと教えるべきでした。学校は栄養バランスのためとはいえ、渋々間違ったことを生徒たちにさせないといけない状況だと教えれば良かったんですよ。それを放置したのは教育関係者全員の怠慢ですね。その被害を受けた方はたまったものじゃありませんよ。」……」
「しかもまだその間違いを続けていて、お義母さんの言うおかしな教育が終わった後の被害者に対して、それは普通じゃないとか、教えてきたことは本当は悪いことだから今から直せだとか……、わかっていながらわざわざ間違いを教え続けている理由はなんですか?最初からマトモな教育をして欲しいです。」
「……結衣さん。言い方ってものがあるでしょう?
結衣さんの言い方には棘があるわ。
もうちょっと優しく言うことはできないの?
相手を嫌な気持ちにさせないように話さないと。相手も興奮してちゃんと話をすることができないでしょう?」
「そうですね。言われないように訳のわからないことを言わないようにしないといけないと思います。私から何か言うことって殆どないですから、ぜひその辺をお願いしたいですね。」
「……私は結衣さんの言い方がよくないという話をしているのよ?」
「私は義務教育でおかしなマッチポンプはやめて欲しいという話をしています。
本音と建前を義務教育自体に組み込まないで欲しいです。
そもそも、最初は牛乳を飲むか飲まないかの話だったのに、話が関係の無い別の話にすり替わってしまっていますよ?」
「……マッチポンプって何?」
「自分でマッチを使って火をつけて騒ぎにし、また自分でポンプの水をかけて火を消したことでヒーローになることです。
日本では『八百屋お七』がよく似た話として有名ですね。
自作自演をして褒め称えられることの例えですよ。」
「!そんなことはしてないわよ!!」
「食育でしてるじゃないですか?
学校では栄養バランスを理由に、ご飯と牛乳を一緒に出して飲ませて、世間に出てからそれが習慣になった人には、それは人を不快にさせるからやめなさいと指導してあげるんでしょ?」
「それは結衣さんが人の好意を無碍にするから……。」
「間違いを教え込んでからそれを叱り、正すのは好意じゃなくて嫌がらせというんです。子どもを教育する学校がそれを後押ししてどうするんですか?最初から正しいことを教えていれば、そんなことをする必要は無かったんですから。そしてそれをわざとするのは意地悪な人だけですよ。」
「で、でも間違ってるところは直さないといけないでしょう!?
そのことは結衣さんも素直に聞かないといけないのに、色々と言い訳ばかりするから!」
「だからまずは、見て見ぬふりをやめて、間違った教育を正してくださいと言っているんです。
学校では間違った教育を続けているのに、個人にどうこう言っても誰も聞かないですよ。
お義母さんは退職しましたけど、まだお友だちに現役で働いている人はいるって言ってましたよね?
明日でも連絡を取って改革でも始めてください。
話はそれからです。」
「そんなおかしなこと言える筈がないでしょ!!」
「外で言えないようなおかしなことを個人に押し付けられても困ります。
そもそも私は牛乳の飲み方を間違ってるとか思ってないので。」
「〜〜〜〜〜!」
お母さんの言ってることは、それだけ聞くと完全に屁理屈なんだけど、お婆ちゃんのおかしな主張への反論だと考えたら、これ以上ないほど完璧な正論だと思う。
ぐうの音も出なかったのか、歯を食いしばって黙ってしまったお婆ちゃん。
お母さんは涼しい顔で食事の続きを始めた。
お婆ちゃんは少しの間動かず椅子に座っていたけど、結局ひと口も食べずに席を立ち、食事の乗った皿を長手盆に乗せて、リビングを出て行くつもりのようだ。
そして、廊下に繋がるドアを開けたまま振り返り、捨て台詞のように言い放った。
「そんなことを言われたら、気分が悪くてもう一緒に食べられないわ。今度から食事は別々に取りましょう!」
「わかりました。」
「結衣さんが私と一緒に食べたくないみたいだからね!」
「そんなことはひと言も言ってません。」
「食べていて気分が悪くなる人とは一緒に食べられないからしょうがないわよね!」
「お義母さんがそう言うなら仕方ないですね。」
「もっと人の気持ちを考えるようにするって言うなら大丈夫だと思うけど!」
「理不尽な話でなければ大丈夫です。」
「……今度からは私のぶんは必要ないからね!食事自体も別々に作ることにしましょう!結衣さんは誠司と真一くんと琴音ちゃんのぶんを作りなさい!私は自分のぶんだけ作るから!そうすればお互い嫌な思いをしなくて済むからね!」
「わかりました。」
「〜〜〜〜〜!
私は自分の生徒からそんなふうに言われたことは一度も無かったわよ!」
「私はお義母さんの生徒ではありませんからね。」
……お婆ちゃん、最後の台詞は完全に捨て台詞。
……しかもお母さんに全部躱されてるし。
冷静に話をするお母さんとは逆で、興奮しすぎたお婆ちゃんの話は早口だし主張もめちゃくちゃ。とても聞き取りにくかったけど、もう一緒に食べないと言ってるのは理解した。
お婆ちゃんもお婆ちゃんだけど、お母さんもお母さんだ。
売り言葉に買い言葉、ってやつ?
お婆ちゃんは、ご飯茶碗に煮込みハンバーグの入った深皿、味噌汁の入ったお椀と焙じ茶のコップを、ガチャガチャと長手盆の上でぶつかり合うくらいに荒々しい足取りで部屋へ帰っていった。
……階段の途中でお箸を一回落としてた。
バッタン!
二階で一際大きな音がして、思いっきり自室のドアを閉めたのがわかった。
その後にドスドスドスと荒い足音もビリビリ響いてきて……
……なんか、あれ「お母さんと喧嘩したときの俺みたい!お婆ちゃん、七十歳越えてるのに子どもかよ。」……と真一が笑いながら言う。
……そう、それ。
まさにさっきからのお婆ちゃんは、お母さんと喧嘩したときの私や真一とそっくり。
それに興奮し過ぎてて、話が全く通じてなかった。
だけどお婆ちゃんとの喧嘩の当事者だったお母さんは、上にお婆ちゃんの部屋がある一階の天井に一瞬目をやっただけで、特に大きな反応をしていない。
……少し、心配になった。
「……いいの?お母さん。」
「何が?」
「……その、お婆ちゃんのこと。」
「いいんじゃない?お婆ちゃん自身が決めたんだから。
ああいうのは人への思いやりどうこうじゃなくて、難癖とか言いがかりって言うのよ。
そんなことまで聞く必要はないわよ。」
「……でも、あんなに怒らせたら面倒なことにならない?一緒に住んでるから、余計に。」
「……かもね。でも仕方ないわ。
言われて仕方ないこともあるだろうけど、さっきの話は違う。ああいうののご機嫌取りのために言うこと聞いてたら、そのうちこっちがストレスでどうにかなっちゃうから。
お婆ちゃんは『言い方』が悪いって言ってたけど、そもそもあんな言い方をされる前に引き下がってくれてたら良かったのにね……。何が何でも自分の言うことを押し通そうとしつこくするから、こっちも言わざるを得なくなるのに……。」
ふうと小さく溜め息を吐くお母さんに、私も真一もああと納得した。
そう言えばそうだ。
最初にお母さんが言ったのは、『栄養もある牛乳が好きで飲んでる』だけだったし。
お婆ちゃんだけじゃなくて、お母さんの言うこともおかしかったけど、しつこくし過ぎたから、最後はあんなにも刺々しくて攻撃的な言い方になったんだろうな。
でも、どうしてお婆ちゃんは、お母さんが喧嘩腰に聞こえるような言い方をするまでしつこくしたんだろう?
そんなことを思ってたら、お皿を片付けた真一がカップアイスを開けながら、また違う疑問を口に出した。
……!あっ。そのアイス最後の一個じゃん!
くやし〜!
「……さっきお婆ちゃんがさ?」
「うん?」
「お母さんがお婆ちゃんと一緒に食べたくないと思ってる……みたいに話してたじゃん?」
「……そうね。」
「あれなんで?お母さんのことが気に入らなくて文句言ってるのはお婆ちゃんのほうじゃね?
なのになんで、お婆ちゃんは自分がお母さんと一緒に食べたくないって言わなかったんだろ?
お母さんはなんでかわかってんの?」
「ああ。お婆ちゃんは人からの評価とか噂とかをとても気にする人だからよ。」
「なんで人の目が気になったらあんな言い方になんの?」
「お婆ちゃんはしょっちゅうお友だちと食事に行ったり遊びに行ったりしてるでしょう?」
「うん。」
「先生時代に受け持った生徒さんやその保護者さんの中にも、まだお婆ちゃんと交流がある人もいる。」
「知ってる。」
「ご近所さんともよくお話してて、仲が良い人が多いの。」
「うん。それで?」
「今日のことを誰かに話したりするときに、『自分の息子の嫁を気に入らなくて一緒に食べることをやめた』って言うのと、『息子の嫁から自分とは一緒に食べたくないと言われて一人で寂しく部屋で食べてる』って言うのとでは、聞いた相手が受ける印象が違うと思わない?」
「……うわぁ。なるほど。」
……お婆ちゃんの話を聞いたときは、なんか変だな?としか思わなかったけど、説明されたら腑に落ちた。物凄く納得した。
つまりお婆ちゃんは、お母さんを悪者にできるように、あんな言いまわしをして確認を取ったんだ……。
……お母さんに思いっきり否定されてたけど。
お婆ちゃんはお母さんに言い負かされるたびに話を逸らして、お母さんの思いやりがないとか、人の気持ちを考えろとか、言い方がよくないとか言ってた。内容とは全く関係無い方へ話を逸らして、自分が注意しないといけないようなことを言うお母さんが悪いって感じに話を持っていってた。
……もし私が話の内容を何も知らない状態で、
『あの人は人の言うことに耳を貸すことなく、自分の思うことが全部正しいと思ってて、何度注意しても聞かず、人の話を聞く気が全くない。
もっと皆んなの気持ちを考えて欲しいけど、そう注意すると喧嘩腰のキツい言葉を投げかけてくるから嫌な気分にさせられて、精神的にしんどくなる。』
と聞かされたら、『あの人』はなんて自分勝手で嫌な人なんだろうと思うだろう。
でももし、『あの人』への評価が、誰かの主観を通した曖昧な言葉だけじゃなく、具体的な行動や話題にのぼった人自身の語る言葉だったなら、また違う印象になるんじゃないか?
そう……、例えばお母さんが言ったみたいに、
『あの人は私がご飯と牛乳が一緒の食卓に並んでいるのを見るのが気持ち悪くて嫌だと言っているのに、飲み物を牛乳からお茶に変更しないと我が儘を言う。
何度もご飯と牛乳は合わないと教えてあげているのに、私の言葉を無視して牛乳を飲み続けるおかしな人だ。
その気持ち悪い組み合わせを見るのも嫌だと思っている私に配慮して、食事のときは目の前で飲まないで欲しいのに、あの人はだったら学校給食に文句を言えなんて無茶を言ってきて、私はとても嫌な気分になった。
あの人が私の言うことを聞いてくれさえすれば、全てうまく収まるのに……。』
……と置き換えたら、どうだろう?
逆に『あの人』の酷さを訴えている相手の方がヒドいと思ってしまうんじゃないだろうか……?
……いや、ヒドいを通り越してヤバいんじゃ??
やっばぁ……。
あの後、お婆ちゃんが部屋を出て一階に降りてきたのは一回だけ。食べ終わった食器を洗い場に持ってきたときだけだった。
……しかもわざわざ、お母さんがお風呂に入ったのを確認してから、足音を忍ばせて降りてきた。
お婆ちゃんと喧嘩した当事者はお母さんだけど、どっちかというと、気分的に私はお母さんの味方だったから、少し気まずさもあって、降りてきたお婆ちゃんとは何も話をしないまま、その日は過ぎてしまった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ ◆◇◆◇◆◇◆◇◆
私が高校に入ってから、私のお弁当を作るため、お母さんは平日毎日五時に起きる。
野球部の朝練がある真一が六時に起きてきて、私の起床は六時半だ。
今日はそれよりも少し早く目が覚めてリビングへ行ったら、いつもは私が起きるのと入れ違いに家を出て行く真一とお婆ちゃんが何故か言い争いをしていた。
どうも一番先に起きているお母さんが、真一と同じ時間に起きてきたお婆ちゃんに朝の挨拶をしたら、お婆ちゃんがそれを無視したらしい。
昨日があんな感じだったし、昨日のお婆ちゃんの様子から無視くらいはするんだろうなと納得したし、お母さんは多分、お婆ちゃんがお母さんを無視しようが特に何も言わなかったんじゃないかとも思った。
だけど、そばにいた真一がお婆ちゃんのその態度に噛みついたらしい。
『先生してた癖に幼稚なことすんなよ。』
って。
……で、真一からそう言われたお婆ちゃんが怒って、お母さんへ子どもへの教育をちゃんとしなさいと言った……と。
……なんだかなぁ。
人に対して『幼稚』なんて言葉を使うのは良くないと真一を
どちらも譲らないそこへ、私が起きてきたみたい。
お母さんはまだ言い争いを続けようとする二人の間に割り込んでいた。
そして真一への教育がなってないとお母さんを叱るお婆ちゃんには目もくれず、まだ何か言おうとしていた真一に待ったをかけたのだ。
「お婆ちゃんは退職までの約三十年間、そういうそういう教育をしてきて、お婆ちゃんの同僚の先生もお婆ちゃんが勤務していた学校もそれを良しとしていたんだから、真一が何か言ったところでどうにもならないの!
それよりも、朝練に遅れないよう早く用意して学校へ行きなさい。」
……と、何もないような声で言い放った。
……………きっっっっっつ!
……話し合いをするだけ無駄だからやめなさい。はキツい。
……だってそれは、お母さんはお婆ちゃんに何も期待していないってことだから。
お母さんはお婆ちゃんに背を向けてたから顔は見えないだろうけど、お婆ちゃんは目をまんまるに見開いてお母さんの後ろ姿を凝視し、唖然としてた。……口がパカっと開いてた。
真一もお母さんのあんまりな言いようにポカンとしてたけど、すぐに我に返って二回ほど吸って吐いてを繰り返し、息を整えたらお母さんに言われた通り、既に纏めていた荷物を持って玄関を出て行く。
……ちょっと挙動不審だったけど、いつも通り。
「……行ってきます。」
「はい。行ってらっしゃい。気を付けて。今日も頑張ってらっしゃい。」
いつも通りのやり取り。
いつもと違うのは、真一へ声をかけるお婆ちゃんのひと言が無かっただけ。
……まあ無理もない。お婆ちゃん、完全に固まっちゃってたから。
お母さんはそのまま私の朝食の用意をしてくれた。
「琴音おはよう。」
「……うん。お母さんおはよう。……お婆ちゃんもおはよう。」
「……」
固まってるお婆ちゃんは無言。そしてそのまま放置。
私が家を出るときになってやっと元に戻ったお婆ちゃんが、また『子どもへの教育が〜』って言い出してたけど、
「どんなに自分と合わない相手でも、挨拶だけはちゃんとするように教育しています。
挨拶は人間関係を築く上で大切で、基本中の基本ですから。」
「……」
……いや、確かに昔からそのことは何度も言われてるけど、今お婆ちゃんにそれを言うのは当てつけでしかないよお母さん。……わかって言ってる気もするけど。
お母さんに渡されたお弁当が横倒しにならないよう鞄に入れて外に出て、玄関のドアが閉まる直前。
『おはよう。』
と起き抜けのお父さんの声が聞こえた。
七時だ。
マジョリティーのススメ 心綴り @floresta
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