十六話

 その後、スタリーはテオドールの言う通りにすべてを収めていった。彼の遺体はスタリーが仕留めたことにし、村人達にその死を報告して事件の解決を告げた。当事者達は一応の納得を見せたが、サロフス領での事件だったこともあり、これらのことは領主であるテトマイエル卿にも伝わることとなった。しかし卿にはすでに話をしていたこともあり、さほど大きな問題になることはなく、スタリーが犠牲者の遺族に慰謝料を支払うことで事件は落着した。


 ブランディスに戻ってからも、スタリーは事件の説明に追われた。だがこちらの事件の最初の犯人はノアで、彼はすでに殺されている。テオドールを仕留めたことを、ノアの家族は喜び感謝したが、スタリーは真実を言わねばならなかった。だが起きたことを真実と思わせるためには証拠が必要で、スタリーは懸命に探し回ったが、やはり見つけることはできなかった。ノアが毒をケーキに混ぜたという証明はできず、彼は犠牲者、テオドールは殺人犯という立場を変えることは叶わなかった。村で起こった悲劇は、ランドフスカ家の長男が引き起こしたもの――住人達には、不本意ながらそう認識されることになった。だがそれがテオドールの意思でもある。両親を殺めた罪を背負い、それを犯した妹を罰さないでほしいという言葉は、スタリーによって守られることになった。


 それら一連の事件に、偶然にも係わってしまったレネだが、テオドールに腕を切り落とされた後、一体どうしているのかはスタリーには伝わってきていなかった。ただサロフスのトルツ村を去る時に、村人から彼は無事だと聞いており、命に別条がないことだけはわかっていた。片腕を失って、レネは吸血鬼の恐ろしさ、そして自身の力不足を痛感したことだろう。しかし強気を崩さない彼のことだ。治療しながらも、これは単なる油断が招いた怪我だとでも言って、吸血鬼を狩ることに意欲を見せているかもしれない。できればこの痛みから様々なことを学び、狩人などやめて故郷で静かに暮らしていてもらいたいものだが、現在、レネの気持ちはどう変わったのか……。頭の片隅にでも、スタリーの忠告の声が残っていることを願うばかりだった。


 そして、好き勝手にやった挙句、銀の矢で心臓を一突きにされ、昏睡状態にされたイサークはというと、スタリーにトルツ村から密かに運び出され、ブランディスへ戻る途中でバルバラに預けられていた。彼女は今も時間があればあちらの世界へ戻ることもあり、スタリーはそのついでにイサークを送り届けてほしいと頼んだのだった。バルバラは呆れ顔を見せたが、最後は快く引き受け、送ることを約束してくれた。あちらに戻るまでは胸の矢はそのままに、イサークはしばらく眠り続けることだろう。次に目を覚ました時は、見慣れた自分の寝床にいるに違いない。その時の当惑と、状況を理解した時の憤った顔は目に見えるようだった。だが銀製の武器で負わされた傷はそう簡単には治らない。スタリーに怒鳴り込んでくるにも、それは大分経ってからのことになるだろう。それまでは人間も、こちらに住む吸血鬼も、平穏に暮らせると保証できそうだった。イサークにはその間に、規律を破ろうとしたことへの自省と、きつい叱責を受けてもらわねばならない。彼はそれだけの振る舞いをし、乱したのだ。あちらの世界を仕切る者なら、それくらいは理解し、判断してくれるはずだった。


 事件の後始末をすべて終えたのは、テオドールが亡くなってから一ヶ月が経った頃だった。スタリーはようやく普段通りの生活に戻り、領主としての仕事も再開させていた。吸血鬼が活動しやすい夜、執務室ではスタリーが机に向かい、溜まった事務を黙々とこなしていた。領民の数が少なく、のどかな田舎であり続ける地でも、一ヶ月も空ければ仕事は溜まるものだ。手紙の返信や各町村からの報告の確認。そこからの記録――側近や秘書のいないスタリーはすべてを自分の手でこなさなければならない。それでも他領に比べれば少ない仕事量なのだろうが、たった一人で何十枚もの報告に目を通し、そこから記載すべきものを選んで書き記していく作業は、吸血鬼と言えどもかなりの集中力が要った。


 一段落したところでペンを置いたスタリーは、一息入れるために紅茶を飲もうと執務室を出た。明かりをつけていない暗い廊下には、窓から差し込むほの白い月明かりだけが目立っていた。向かうその先へ視線をやると、月明かりの奥からとぼとぼと歩いてくる姿が見え、スタリーは足を止めた。


「……テクラ、散歩にでも行くのか?」


 声をかけると、テクラは視線を上げた。その表情はやけに思い詰めているように見えた。外套は着ていなかったが、太陽のない夜には必要ないだろう。外を歩き回るには問題ない格好ではあったが、スタリーを見る顔からは、どうも散歩に出かけるつもりはなさそうだった。


 ブランディスに戻った後、スタリーが事件の後始末をしている間、テクラは領主の館であるここで世話になっていた。気持ちとしては家のあるテルノーナ村に戻りたかったが、吸血鬼に変わった身ではそう簡単に戻ることもできなかった。何せノアは吸血鬼の兄に殺されたのだ。その妹まで吸血鬼で、しかも同じ村で暮らすなど、たとえ吸血鬼に寛容な住人でも、被害者の感情を思えば眉をひそめるに違いなかった。それをわかっていたから、スタリーも面倒を見ることを申し出たのだった。


 スタリーが仕事に集中している間に、テクラは部屋の掃除や洗濯、庭の植木の手入れなど、気付いたことは何でもこなした。それらが今唯一できることであり、面倒を見てくれるスタリーへの礼だった。だがそれを終えると、テクラは空白に放り出された。することがなく、何時間も窓の外を眺めるしかなかった。そんな時に頭に浮かぶのは、やはり兄や両親の姿だった。家族の団らんを恋しく思うのと同時に、それを壊した原因の一端が自分であることも痛感する。テクラの心は日が経つにつれ、絡まった糸のように複雑さを増していった。もはや自分でも心の行き着く先を見い出せずにいた。


 それを解消しようと向かったのは、生まれ育った我が家だった。住人が寝静まった真夜中に、テクラは何十日ぶりに慣れ親しんだ家に足を踏み入れた。静寂が包む部屋の中は、最後に見た時と何も変わっていないようだった。ただ、あらゆる物の上にはうっすらと埃がかぶり、あれから確実に時間が経っていることを感じさせた。しかしテクラにはこの家で過ごした時間も光景も、ほんの数日前のようにしか感じられなかった。このまま待っていれば、家族がまた揃って食卓を囲めるのではと思うが、それが叶わない望みだと冷静な自分に指摘されると、テクラは犯した罪の重さを再認識させられたのだった。


 それから日が沈むと、テクラは決まって外へ散歩に出かけるようになった。歩くのはもっぱら館の周囲だったが、一時間、長い時は二時間ほど、スタリーに一言いってから出かけた。最初は単なる気晴らしかと思い、特に気にかけなかったスタリーだが、テクラの様子が次第に沈んでいくのを見て、ようやく気にし始めたのは最近のことだった。どうしたのかと聞いたこともあったが、テクラは曖昧に答えるだけではっきり言わなかった。何か悩んでいるのはスタリーにもわかったが、言いたくないのなら無理に聞くわけにもいかず、自ら言ってくれるまで見守ることにしたのだった。


 そして今も、テクラは夜の散歩に出かけるものと思い、声をかけたのだが、こちらを見る表情や雰囲気は明らかに普段のものとは違っていた。暗く、思い詰め、しかし何かを覚悟したかのような力強さもわずかに感じる。白い月明かりに横顔を照らされたテクラは、スタリーに歩み寄ってくると、真剣な眼差しを向けて言った。


「お話ししたいことがあります。いいでしょうか」


 抱えていた悩みで、何か答えが出たのだろうか――そう思いながらスタリーは微笑を浮かべた。


「もちろん。ちょうど一息入れようとしていたところだ。向こうの部屋で聞こう」


 テクラを促し、スタリーは応接間へと入った。ランプに明かりを灯し、部屋の暗闇を取り払う。


「紅茶でも――ああ、君の口には合わなかったんだったね」


 スタリーは苦笑いしながら言った。ブランディスに戻った頃、スタリーは唯一気に入っている紅茶をテクラに勧め、飲ませたのだが、やはり同じ吸血鬼だからと言って同じ味を好むわけではないらしく、テクラが二口目を飲むことはなかった。


「お構いなく。スタリー様は飲んでください」


「いや、紅茶はいつでも飲めるから。今は君の話を聞こう……さあ座って」


 中央の長机を挟むように、二人は向かい合う位置でソファーに腰を下ろした。スタリーは正面のテクラを眺めながら、ふと似た光景を思い出していた。


「以前にも、こんなやり取りをしたことがあったね。あの時も私は君の話を聞いていた」


 吸血鬼にされた体で、血の欲求に怯えながら、テクラはスタリーに助けを求めに来た。それが二人が初めて会った瞬間であり、事件解決への出発点だった。そして現在はすべてが収まった状況で、同じ部屋で同じように向き合って話をしようとしている。あれから大して時は経っていないが、スタリーはなぜだか懐かしく思えた。


「そうですね。私はスタリー様に、助けていただいて……」


 かすかな笑みを浮かべるも、それはほんの一瞬だった。硬い表情に戻ると、テクラはそのまま黙り込んだ。緊張なのか、無駄話をしたくないだけなのか、二人の間に漂う空気はやけに重く、静かだった。


「普段はあまり見ない顔をしている。……君の話とは?」


 本題を促すと、テクラは上目遣いにスタリーを見据え、小さく息を吐き出してから口を開いた。


「まずは、私をここに置いてくださったこと、とても感謝してます」


「急にかしこまってどうしたんだ? こちらこそ掃除などしてもらって助かっているんだ。礼などいらないよ」


「いえ、スタリー様のおかげで、ゆっくり考えられる時間ができたんです。でも、ずっとお世話になるわけにはいかないので、先のことを……私はどうするべきかを考えたんです」


 悩んでいたのは将来のこと――そう知ってスタリーは微笑んだ。


「急いで考えるものでもないだろう。君がここにいたいのなら、好きなだけいてくれていい。私に気遣いは無用だ。それとも、ここは居心地が悪いかな……?」


 少しいたずらな視線を向けると、テクラは首を横にぶんぶんと振った。


「悪いだなんて……その逆です。私には、居心地がよすぎるんです」


「それはよかった。では――」


「よすぎるから、この先が、怖いんです。自分がどう変わってしまうのかって……」


 スタリーは小首をかしげ、テクラを見つめた。


「何が怖いというんだ? この先何があろうとも、君は君でしかないだろう」


 これにテクラは力ない笑みを見せた。


「違うんです。私は吸血鬼に変わりましたけど、人間なんです。人間で、いたいんです」


 この言葉に、スタリーの脳裏には閃光のように、かつて心奪われた女性の姿がよぎった。


「ここにいれば雨風にも当たらず、暖かいベッドで寝られます。兄のことで白い目で見られることもありません。吸血鬼の体は毎日の食事も必要ないし、疲れもあまり感じません。いろいろな作業も苦じゃありません。病気にもかからなくて、人間より遥かに長生きで……。私は、そんな生活に変わってしまったんです」


「それが、怖いというのか?」


 テクラはうなずく。


「スタリー様、前に好きだった人間の女性のお話をしてくれましたよね。病気で苦しむその女性を助けようとして、でも拒まれて……。私、拒んだ女性の気持ちが何となくわかるんです。人間でいたい、血を吸われて同じ自分でいられる自信がない――女性は、そう言ったんですよね」


 スタリーは呼び起こされた光景を見ながら、かすかなうなずきを返した。


「私も、同じ感覚なんです。この先何十年、何百年と生き続けた時、私は今の私とまったく違っているかもしれないと思うんです。あらゆるものの見方が変わって、それに対する気持ちも変わって、人間だった自分からかけ離れた感覚を持ってしまうんじゃないかって。でも、一番怖いのは長すぎる時の経過で忘れてしまうことです。スタリー様への感謝、日常の幸せ、家族との思い出、そして、両親を手にかけた罪……」


 感情をこらえるテクラを見て、スタリーは言った。


「ご両親のことは、仕方がなかったことだ。そうさせたのは血の欲求で、君の意思じゃない」


「じゃあ私には罪はないんですか? そんなはずありません。実際に噛み付いて、母さんと父さんを殺したのは、誰でもなく私なんです」


 一時の静寂が部屋の中に流れた。ランプの柔らかな明かりが、二人の顔に違った陰影をつけていた。


「……私はすでに吸血鬼で、もう人間には戻れません。だから、決めたんです。スタリー様にお願いすることを」


 顔を上げ、力のこもった眼差しを見せると、テクラは言った。


「私も、兄のように殺してください」


 これにスタリーは微動だにせず、ただ鋭い目を向けた。


「君の罪は、テオドールが背負って逝った。それを無駄にするのか」


「罪をかぶったから生き続けろなんて、私には無理です。両親を殺してしまった自覚まで、兄さんは持ってってくれない。私が、自分でどうにかするしかないんです。でも、罪に問われない私は償う場も与えられず、ここにいます。一体、どうしたらいいんですか? 両親に何ができるっていうんですか?」


「生きているだけでいい。それだけでも――」


「スタリー様のように、何百年間も、私に生き続けろと? 命を奪っておきながら、平和に暮らし続けることが、償いだっていうんですか?」


「ご両親は、君の死など望まないはずだ」


「そうかもしれません。母さんも父さんも、私を愛してくれてました。でも、それじゃ私が納得できないんです。平然と生き続けるなんて、したくないし、怖いんです」


 テクラの感情がこもった目がスタリーを見つめた。


「私を、人間として死なせてください。人間として、償わせてください。お願いです……」


 懇願する言葉は、スタリーの胸の奥深くに響いていた。人間として――かつて、あの女性もそれを求めていた。人間の私を愛して……人間のまま死にたい……どうして彼女らは生きられる機会を拒むのか。スタリーにはやはり理解ができなかった。


「……なぜ生きようとしない。吸血鬼でいることが不安なのなら、私が助けてやれる。行き場がないのなら、ずっとここにいても構わない。君の命は、まだ終わる時じゃない」


 これにテクラは困惑の表情を見せた。


「優しいことを言わないでください。それが、私は怖いんです。楽なほう、苦しくないほうを選んだ時に、私は私でなくなるかもしれない。過去も、そこで犯した罪も忘れて、今しか見えなくなるような自分にはなりたくないんです」


「今しか見えなくなることの何が悪い。それは君の人生なんだ。先に進むには今を見なければ始まらないだろう」


「スタリー様――」


 かすかな笑みを浮かべ、テクラは言った。


「過去を忘れてはいけないんです。失った命を忘れてはいけないんです。自分のせいならなおさら……。それが、人間というものだと思うんです」


 吸血鬼として生まれたスタリーには、人間の感情をすべて理解することは、所詮無理なのかもしれなかった。過去を忘れず、失われた命も忘れない。そこまではわかっても、それがなぜ自分の死につながるのか。テオドールも命で償うと言ったが、テクラはそれとはまた状況が違う。事件は片付き、命を捨てる必要性はどこにもないのだ。それなのになぜと思わずにはいられなかった。その望みが単なる自己満足のようにしか感じられないスタリーには、それが理解の限界なのだと痛感した。


「私は、この感情を忘れたくない……だからスタリー様、お願いです。兄のように、私のことも……」


 少し潤んだ目でテクラは言う。その表情にはしっかりとした覚悟が見て取れた。兄に続いて妹まで――大きな溜息を吐きたいのを抑え、スタリーは聞いた。


「断る、と言ったら、君はどうするつもりだ?」


 わずかに目を見開き、だが次には肩を落とすと、テクラは小さな声で言った。


「そうですか……わかりました……」


 スタリーを見ていた視線が、ふわふわと泳ぐように部屋を見回し始めると、テクラはおもむろに立ち上がり、窓のない壁のほうへ歩き始めた。


「これ、お借りします」


 そう言って手を伸ばしたのは、壁に飾られていた古い短剣だった。金と宝石で装飾された観賞用で、手入れ不足のせいか輝きはなく、どこも曇った光だけを放っていた。


「テクラ、おかしなことをするな」


 立ち上がり、スタリーは険しい表情を向け言った。


「ごめんなさい……でも、スタリー様が何もしてくれないんなら、私はこうするしかないんです!」


 短剣を抜き、鞘を放り捨てると、テクラはその切っ先を自分の喉に向け、振り上げる――が、その手はすぐにスタリーに押さえられた。


「これは観賞用だ。切れる刃ではない」


「切れなくても、刺さればそれで――」


「ひどい痛みに苦しむだけだ。そもそも、喉を切ったところで死ぬことはできない。吸血鬼が自殺をするのは至難の業なんだ」


「そんな……」


 力の抜けたテクラは手から短剣を落とすと、がくっとうなだれた。


「人間でいたい……母さん、父さん、兄さんに……また会いたい……」


 スタリーの腕にすがったテクラは、大粒の涙をこぼしながら嗚咽した。


「私を死なせてください……家族に、会わせてください……」


 十七歳の少女をここまで死に取り憑かせたのは、自分のせいなのかもしれないとスタリーは思った。テオドールを助けなければ、兄妹はさらなる苦しみを感じることはなかったのだ。ではあの時、彼を見捨てるべきだったのか――スタリーはそうだとは思えなかった。大事な領民を助けずにいられるわけがない。あの判断は間違いなどではない。あれでよかったはずなのだ。しかし、心は迷い続けている。テクラを吸血鬼にしてしまった責任はあり、それをいくら感じようとも、この手で彼女を人間に戻してやることはできない。だが、そこから解放してやることはできる。望み通りの死をもって……。


 涙を流す少女をスタリーは見下ろす。こんなに死を望むなら、叶えてやるべきだろうか。人間として、ここで人生を終わらせることが彼女の希望なら、喜びになるのなら、願いを聞いてやれるのは自分しかいないのだ。吸血鬼である自分しか――心は未だ迷いに乱れていた。だが、テクラの気持ちに寄り添うならば、その願いに応えてやるしかないのではとスタリーは思った。


「……君が、そこまで死にたいというなら……」


 テクラの肩をつかみ、スタリーはそっと押し離した。それに涙で濡れた表情が見上げてくる。


「望み通り、私の手で……」


「スタリー様……」


 泣き顔だった口の端に、かすかな笑みが浮かんだ。


「ありがとう、ございます」


 礼など言われたくない。これから命を奪おうとしているのに。不愉快なことをしようとしているのに――


「じっとして……本当に、いいんだね」


 確認すると、テクラはゆっくりとうなずき、静かに目を閉じた。


「はい。お願いします」


 真っすぐ立ち、テクラはそう言って最後の言葉を終えた。表情は穏やかだったが、濡れたまつげがわずかに震えていた。引き結んだ口元には強い覚悟が見えるが、やはり死を迎え入れることがたやすい者などいないだろう。それはスタリーも同じことだった。


 テオドールの時のように、テクラの胸の前に手をかざし、構える。あとは貫いて、心臓を取り出すだけ――他人の、しかも守るべき領民の命を奪うことに、それを望まれたとしても、スタリーにはまだ迷いが残り、抵抗があった。本当に、このまま望みを聞いてしまっていいのか。彼女は自分の手で殺されるべきなのだろうか――


『スタリー』


 ふと記憶の彼方から、愛しくも懐かしい声が呼んだ。


『あなたは、人間の私を愛してくれた。だから、最後まで……』


 病で衰弱した弱々しい表情が、懸命に笑顔を作ろうとしている。スタリーに望みを伝えるために――その女性が願うなら、何でも叶えてやりたかった。たとえ自分の意に反することでも、喜び、満足してくれるならそれでいいと思い込ませた。なぜなら、そうしてやることがその女性のためになり、幸せを感じてくれるものと思ったからだ。しかし、救わなかった自分には一体何が残った? 寂しさ、虚無感、深い後悔……それらは時が経っても、事あるごとによみがえり、心をさいなむ。あの瞬間に戻れたら、命を救えていたら、自分は今どう変わっていただろうか……。


 我に返って目の前に立つテクラを見つめた。微動だにしないその姿に、スタリーは愛しい女性を重ねて見ていた――そう、気付いていたのだ。テクラに助けを求められ、その血を吸った時から、すでに重ねていたのだ。心の底にあり続ける深く重い後悔を消したいがために、彼女をあの女性に見立て、接していた。もしかしたらテオドールもそうなのかもしれない。ブランディスに住む彼らを助けたいと思うのは、領主の義務や女性の意志を継ぐためではなく、単に同じ後悔をしたくないから、二度とあんな思いを繰り返したくないから――スタリーはそれをようやく、はっきりと自覚した。


 目を瞑るテクラを見据えながら、スタリーは胸の前にかざした手を肩のほうへずらす。望みは聞いてやれない。生きられる命を奪うことなどできない。そうすれば必ず後悔するのだ。あの時と同じように、この光景が脳裏に焼き付き、心をさいなむのだ。わかっている……。


「……すまない」


 そう呟くと、スタリーはテクラの肩をつかみ、体を強引に引き寄せた。そして後頭部に手を添え、細い首に思い切り噛み付いた。その瞬間、身を固くするテクラがはっと息を呑む音が聞こえた。しかし何も言うことはなかった。目を瞑り、状況が見えないせいかもしれない。首を噛まれ、血を吸われているのはわかっているだろうが、テクラは吸い尽くされれば死ねると安心して思っているのかもしれない。だが吸血鬼はそれでは死なない。血をすべて失っても、一時的に〝眠る〟だけで、またすぐに意識が戻る。つまりは仮死状態にしかならないのだ。


 身を固くしていたテクラだったが、次第に手足から力が抜け、肌は青白く変色していった。吸血鬼は共食いを防ぐためか、同族の血を吸ってもおいしいとは感じない。むしろまずさが先に立つ。それを一人分飲み尽くすのは辛いことだったが、スタリーは表情も変えず、牙を突き立てた傷口から血を吸い続けた。


 ほんの十数秒で完全に力が抜けたテクラは、頭を後ろへのけぞらし、死人のような青白い顔をさらした。血を大量に失い、意識はもうなくなっていた。スタリーは首から口を離すと、そんな彼女を抱き抱えた。


「君は、ここで一度死んだんだ。だからもう、死に囚われる必要はない。ないんだよ……」


 腕の中の少女を見下ろしながら、スタリーは言った。おそらく数時間後には再び目を覚ますことだろう。その時、テクラは何を思い、何と発するか。怒り出すのか、泣き出すのか……スタリーにはわからない。だが、目覚める傍らで彼女を迎えてやらなければならない。たとえ拒まれても、優しくこう言うのだ。私は同じ後悔をしたくない。助けられる命が目の前にあれば、私は迷わず助けることにした。それが、つい先ほど学んだことだと。だから君には生きてほしいんだと……。


 死だけが償いや救いではない。生きる中でも、それはどこかで見い出せるはずだ。独りでは辛いというのなら、スタリーはいくらでも力を貸すつもりだった。二度と愛しい女性の姿が重ならないように、テクラを光ある新たな道へ導くのが、彼女を助ける本当の、唯一の方法なのだろう。もう、過ちなど犯さない――スタリーは抱えるテクラから正面の扉へ目を移し、一歩を踏み出した。

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吸血鬼の時間 柏木椎菜 @shiina_kswg

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