十五話
ぐぐっと牙が食い込む感覚と、そこに走る痛みに、テクラは表情を歪めた。テオドールに血を吸われるのはこれで二度目だ。だが今度こそ吸い尽くされる――そう覚悟したテクラだったが、テオドールは吸うことなく、すぐに首から口を離した。
「人間、じゃない……邪魔だ!」
苛立ちの目で睨むと、テオドールはテクラを押し退け、その後ろで倒れるレネに飛びかかろうとした。が、それはすぐにスタリーの手で止められた。
「私が止めている間に、早く行け」
テオドールを羽交い絞めにするスタリーは、身も心も弱り切って怯えるレネに言った。すると、切断され血を流す腕を残った手で押さえながら、わなわなと震える足で立ち上がったレネは、涙が滲む引きつった顔のまま、走って村のほうへと逃げていった。これでようやく無関係の者は消えた――スタリーはもがくテオドールをつかみながら、冷静な声でテクラに言った。
「テクラ、私が渡した腕輪を外してくれ。それをテオドールに付けるんだ」
「腕輪を……? わ、わかりました」
意図を察したテクラはすぐに外套の下の腕から腕輪を外した。血の欲求を抑える呪具は、これまでテクラのそれをきっちりと抑えてきてくれたが、しかしテオドールはテクラの状態とは異なり、完全に欲求に支配されている。それでも効果はあるのか、二人は共に半信半疑だった。
「効いて、くれるでしょうか」
「わからないが、今思い付くのはそれしかない。効果がないようなら、また別の方法を考えるまでだ」
上手くいくことを祈りながら、テクラは兄の手をつかんだ。
「放せ! 放せ!」
暴れて抵抗するのを、二人は懸命に力で押さえ込む。そしてテクラはその手に腕輪を通した。子供用だった小さな腕輪は、テオドールの手をぎりぎりに通り抜け、無事手首に納まった。変化は起こるのか――テクラは腕輪のはまった手を握りながら、兄の顔をじっと見つめた。
「兄さん、私がわかる……?」
呼びかけるが、反応はなく、テオドールは暴れ続けていた。三分、五分と待つも、様子は変わらない。それでももう少し経てばという希望を捨てられない二人は辛抱強く待ち続けた。するとついに、その変化は現れた。
「……兄さん?」
暴れ、押さえていた手から力が抜け、明らかに動きが大人しくなり始めていた。テクラは兄の顔をのぞき込み、その表情を確かめた。
「はあ……ああ……僕は……」
ぎらついていた赤い目は細まり、叫ぶように発していた声も静かなものになっていた。まるで獣だった表情は、以前のテオドールを取り戻そうとしていた。
「スタリー様……!」
「ああ。上手くいったようだ。もっと話しかけてみてくれ」
促され、テクラは笑みを浮かべて兄を呼んだ。
「兄さん! 私だよ。妹の名前、憶えてる?」
「……テクラ……」
呟いたテオドールの目は、動揺するように揺れながら妹を見据えていた。
「正気を、取り戻したんだね……!」
感極まり、テクラは兄をそっと抱き締めた。それを見てスタリーは静かに両手を離す。自由になったテオドールはもう暴れることはなく、棒立ちのまま妹を見つめていた。
「テクラ……生きてて、よかった……」
動揺した目にわずかな笑みを浮かべたテオドールだったが、それはすぐに消えた。テクラを見つめていても、意識はまるでそこにないようだった。
「もう話せないかと思った。前の兄さんに戻らないんじゃないかって……。いっぱい聞きたいことがあるの。兄さんに起きたことを、最初から全部――」
するとテオドールはテクラの肩を弱い力で押し離した。
「わかってる。僕には大きな責任がある。……テクラ、噛み付いてごめん。痛かっただろ」
自分が付けた噛み痕を優しく撫で、テオドールは目を伏せた。
「何をしたか、憶えてるの?」
テオドールは弱々しくうなずいた。
「全部、憶えてる。この手で何をしてしまったのか……」
伏せた目で見下ろした両手は、小刻みに震えていた。犯してしまった罪は、欲求から解放された途端に、その心に重くのしかかっているようだった。
「ではテオドール、私が君を助ける以前のことから教えてもらおうか」
スタリーは横に立ち、動揺を見せるテオドールを見据えた。
「領主様……はい。全部、お話しします……」
心を落ち着かせるように、小さく息を吐き出してから、テオドールは話し始めた。
「こうなった始まりは……その時は始まりとも思っていませんでしたが、僕が友達だったノアに恋人ができたことを伝えたことからでした」
恋人と聞いて、テクラはテオドールに思いを寄せる女性がいたことを思い出した。片想いではなく、どうやら両思いだったらしい。
「彼女はマリアといって、ノアも知る女性で、伝えた時は一緒に喜んでくれたんですが……僕は知らなかったんです。ノアも実は、マリアに好意を持ってたなんて……。あいつは大人しくて、自己主張なんてできない性格だった。だから衝撃を受けても、僕には何も言えなかったのかもしれません。そうとは知らず、僕はマリアとの話ばかりして、いつかは一緒になりたいとも言って……ノアにしてみれば、苛立つ話で、マリアを取られた気分だったんでしょう。そんな気持ちに気付いてやれなかった僕も悪いですが、その後のノアの行動は、あまりに悪意に満ちてました」
スタリーは思い出したように、ふむと小さくうなずいた。
「その悪意とは、もしかして毒か?」
聞かれたテオドールは険しい表情に変わった。
「はい。……テクラ、僕がお前の血を吸った日の午後に、一緒にケーキを食べたのを憶えてるか?」
「クリームを塗った小さなケーキでしょ? 憶えてる。あれはノアに貰ったって……」
「そう。あのケーキに、ノアは毒を混ぜてたんだ。それを知らずに、僕はテクラと分けて食べてしまって……体調が急激に悪くなったんじゃないか?」
指摘され、テクラは当時の自分を思い出した。確かにあの晩、汗が止まらないほどの熱と腹痛に襲われていた。これまでその理由がわからないままだったが――
「ノアの毒のせい、だったの……?」
テクラは驚き、唖然とした。大人しそうなノアがそんな大それたことをしたなど、すぐには信じられなかった。
「なぜノアが毒を入れたとわかった」
スタリーは冷静な目で聞いた。
「その日の夜、僕はノアと会う約束をしてたんです。向こうが話があるからって……。でもそれは、僕の体調を見るためだったんです。しっかり毒が効いてるか確かめるために。待ち合わせ場所に着いた頃には毒の影響が出てきて、ノアは最初、僕を心配するふりを見せてたけど、次第に隠してた感情をあらわにし始めて、苦しむ僕を笑って見てました。問い詰めると、先にマリアを好きになったのは自分だと怒鳴り、お前は早く死ぬんだと、毒を混ぜたことをあっさり告白したんです」
あの夜、テオドールが外出して会っていたのは友人のノアであり、そのノアは嫉妬心からテオドールを毒殺しようとしていた――領民に毒殺犯がいないことを願っていたスタリーだったが、真相は願い通りとはいかず、最悪の予想の範ちゅうとなった。
「そんな……ノアは私にも優しかったし、人を傷付けることなんて絶対にしなかったのに……」
「彼は優しく、大人しすぎたんだ。誰にもそう接することで、自分の本心を押し隠し、感情を蓄積させ続けた。そしてテオドールから恋人の話を聞かされことで、それは限界を迎え、殺意という形で爆発させたんだろう。彼は他人に対して心配りはできたが、自分には不器用だった。誰かが彼の感情に気付き、発散させることができていれば――いや、仮定の話に意味はないな。……テオドール、君には何の落ち度もないとわかったよ」
「そうでしょうか……」
陰りのある表情を見せると、テオドールは話を続けた。
「僕は毒に侵されながら、必死に命乞いをしたんです。解毒剤をくれと何度も何度も……でも、ノアは笑うだけでした。そんなものはないし、お前には必要ないものだと突き放されて……。そこでそのまま、僕は死ぬべきだったと、今は思うんです」
その言葉に、テクラはどきりとした。脳裏には自分が命を奪った両親の姿が浮かんでいた。
「だが、君は私に助けを求めにきた」
「はい。思い出したんです。ケーキはテクラも食べたってことを。無関係な妹を見殺しにしたくなかった……。でも、それ以上に僕は、ノアのことが許せなかったんです。あいつの思い通りに死んでやるのが悔しくて、絶対に復讐してやりたかった……」
仲のいい友人だったからこそ、裏切られた衝撃は強く、深い。そして信頼していた気持ちはそのまま裏返り、憎しみに変わる。人間として、テオドールの抱いた感情は普通なのだろう。まったく理解できないものではないが、やはり憎しみからは何も生まれないことは、この世の理と言えるのかもしれない。
「吸血鬼については昔、いろんな人から教えてもらったんです。それで知識がありました。時間がない僕が助かるには、その方法しかなかったんです。……あの時は、本当にありがとうございました」
礼を述べられ、スタリーは困惑の表情を見せた。
「何と返せばいいのか悩むところだが……回復した君がテクラの元へ急いで向かった理由は、自分と同じように毒から命を救うためだったわけか」
「はい。おかげでテクラの命は――」
「テオドール、君は吸血鬼に等級があることは知っていたのか?」
「等級……? 初めて、聞きました。僕は純粋な吸血鬼と、人間から変わった吸血鬼しかいないと……」
正しい情報ではあるが、不足は否めない。二人の様子、特にテクラの強張った表情に気付いたテオドールは怪訝な目を向けた。
「何か、あったのか……?」
兄は心配そうに聞いてくる。両親のことはすぐにでも話すべきだったが、テクラはぐっとこらえ、話を元に戻した。
「兄さんは、私の血を吸って助けてくれたんだね……。あの時は正直、驚いた。赤い目の兄さんがいて、何も話さずに行っちゃったから……。どうして説明してくれなかったの? 少しでも言ってくれれば、私は……」
「悪かった。でも、いられなかったんだ。テクラの血を吸って、体の中に妙な感覚が走ったんだ。もっと血を求める、高ぶったような感覚が」
「血の欲求だね」
呟いたスタリーに、テオドールは小さくうなずいた。
「僕はそれが、何となく危険な感覚だと思って、テクラの元からすぐに去りました。そのまま次にノアの元に行って……最初は少し痛め付けて、毒を混ぜた罪を認めさせるつもりでした。でもあいつは生きてる僕を見て、次は必ず殺してやると言って……殺される前に殺そうと思ってしまったんです。抵抗するノアを押さえ付けて、首に思い切り噛み付きました。血を飲み始めると、自分がまったく抑えられず、気付いたら目の前でノアは死んでました。その後、家族の方に見つかって、僕は慌てて逃げて……それからは血を飲みたい気持ちとの葛藤の毎日でした」
「なぜ私の元に戻らなかったんだ。戻ればどうにかしてやれたものを」
「変わってしまった自分がわからなかったんです。人間を見ると、無性に襲いかかりたくなって、頭は血を吸うことばかりを考えてて……。領主様に会ったら、ひどいことをしてしまうんじゃないかと、自分が怖くて誰にも会えなかったんです。だから村を出て、この気持ちが収まるまで人気のない場所へ行こうと……」
スタリーはバルバラの話を思い出す。彼女が感じたテオドールの気配は人間が多くいる街などには寄らず、ふらふらとさまよっていたという。その頃の彼にはまだ理性が残り、まさに葛藤の最中だったのだ。
「当てもなく、歩き続けて、気を抜くと精神が変な方向へ高揚しそうで、それをどうにか抑えるだけで精一杯でした。でも、身も心も疲れすぎて、僕は楽になりたかった。もうまともな考えもできなくなっていたんだと思います。とにかく辛いこの状態から抜け出したかった。体の奥でくすぶる感覚に全部、何もかもゆだねたい――そうした時は、本当に壮快で、自分が何をしてるのかわかろうともしなかった。ただ意識が向くままに、人間を襲って、血を飲み、その命を身勝手に……奪い……」
うつむいたテオドールは、震える両手で顔を覆った。
「ノアを、あいつを恨みたい。だけど、血を吸いたがって、命を奪って、楽になろうとしたのは僕なんだ。進んで殺人犯になったのは、僕自身なんだ」
「吸血鬼になったばかりでは、血の欲求にあらがうのは難しいものだ。君は進んで殺人を犯したんじゃない。欲求がそうさせたんだ」
「その欲求を、僕はまだ抑えることができたんです。だけどそうしなかった。早く、楽になりたかったから……そうすれば、どうなるかも想像できたのに……。ノアの毒で、あの時点で、僕は死ぬべきだった……」
「それなら、私だって――」
顔を上げたテオドールを、テクラは複雑な表情で見つめていた。
「私だって、死ぬべきだった。……兄さん、私、兄さんに何て言えばいいのかわからないの。助けてくれたことは嬉しいのに、私は、喜べない……喜んじゃいけないの」
「テクラ……?」
「先ほどの等級の話だ」
妹が何をしたのか、まだ知らないテオドールに、スタリーは口を開いた。
「吸血鬼の中で人間から変わった者は下級と呼ばれ、君はそれに当たる。その下級に吸われた人間、すなわちテクラは、最下級と呼ばれ、吸血鬼の中では血の欲求が一番現れやすく、理性も失いやすいんだ」
そんな説明をした意味を、テオドールはスタリーの目から読み取ると、ゆっくりテクラに向き直った。
「……まさか、お前も……?」
半ば確信した眼差しが、呆然と妹を見つめた。
「私も、殺人犯よ。母さんと、父さんを殺した、殺人犯……」
はっと息を呑み、テオドールは言葉をなくした。人形のように動かなくなり、まばたきも忘れてテクラを凝視する。同じ命を奪うにしても、他人と家族ではまた別の重大さがあった。娘が、両親を殺す――その衝撃は、テオドールの胸に突き刺さり、自分の責任と共に、そしてやはり、という覚悟を固めさせた。
「兄さんは死ぬべきなんかじゃない。だって悪いのはノアなんだから。ノアが毒なんて入れなければこんなことにはならなかったんだし。だけど……私を助けるべきじゃなかった。ありがとうって言いたいけど、それはどうしても言えないよ。母さんと父さんを殺して生きるくらいなら、私も毒で死んだほうがましだった。こんな罪、耐えられないもの」
テクラは泣き笑いの表情で胸の内を明かした。兄のことは悪く言いたくない。しかし、そこから生じた取り返しのつかない罪は、テクラを深いところで苦しめ続け、その思いを吐き出させた。そんな妹を、テオドールは真っすぐに見つめていた。
一人の青年の悪意から、兄妹の人生は狂わされた。スタリーが言ったように、テオドールには何の落ち度もなかった。テクラも同様だ。だが今は同じ罪の意識にさいなまれていた。どこで、何を間違えたわけでもない。テオドールは生きようとし、妹を助け、最善を尽くしたはずだった。しかし結果はそう言えないものだった。兄妹の命が助かった代わりに両親が、そして遠く離れた村人が犠牲になってしまった。血の欲求――それが兄妹を狂わせた。間違った判断をしたというのなら、それなのだろう。スタリーに助けてもらい、吸血鬼に変わってまで生き延びたことが、そもそも間違いだったのか。そうすれば少なくとも犠牲者が出ることはなかった。テクラも、助けられはしないが、罪を背負うことはなかった。いくら理不尽と感じようとも、ノアの毒で二人の命がひっそりと消える……それを受け入れるべきだったのかもしれない。後悔はいくらでもできる。だが、償いは一度しかできない。たった一つの命をもって――テオドールは薄い笑みを浮かべると、意を決して言った。
「お前の罪は、僕の罪だ。それは全部僕が引き受けるよ。この命を使って」
言葉の意味を測りかね、テクラは不安げな表情を向けた。
「兄さん、どういうこと……? 変なこと考えてるなら、やめてよ……」
これには何も答えず、テオドールはスタリーに顔を向けた。
「お願いがあります。僕が正常なうちに、どうか……殺してください」
「兄さん……!」
テクラの悲鳴のような声が上がった。しかしテオドールの目はじっとスタリーの返事を待っている。そのスタリーも冷静な表情を保ったまま、真剣な眼差しでテオドールを見据えていた。
「なぜ、死にたがる」
「死にたいんじゃありません。この罪は、死んでしか償えないんです。両親や、無関係の人達の命を奪った僕は、生き続けるわけにはいかないんです」
「違う! 悪いのはノアだって、さっき言ったじゃない。兄さんが死ぬ必要なんて――」
「ノアが憎いからって、僕の罪を押し付けることはできないんだよ。事実は、消せないんだ。罪を犯して、多くの人に迷惑をかけてしまった。その責任は紛れもなく僕にある」
かたくなな意志を見せるテオドールは表情をやや緩め、スタリーを見つめた。
「僕がこのまま生きれば、領主様にご迷惑がかかります。捕まって、役人に突き出された場合もです。サロフス領に突然現れた領主様と、そこで人間を襲った吸血鬼の僕が、まったくの無関係と考える者はいないでしょう。邪推されれば、領主様がしたことだと思われかねません。助けていただいた方に、そんなご迷惑はかけられません」
「この後の私を考えての覚悟だというのか……?」
瞠目したスタリーに、テオドールはかすかな笑みを浮かべた。
「残念なことに、多くの人間はまだ、吸血鬼の過去の一面しか見てません。血を狙って襲いに来る、恐ろしい存在だと。僕は、領主様がそんな吸血鬼じゃないことを知ってます。僕のしたことで不審や疑いを持たれる状況にはしたくないんです。だから――」
「だから、殺せというのか」
感情を抑えた低い声にも、テオドールは笑みを崩さなかった。
「そうです。領主様は僕を捕まえ、仕留めるんです。そして、その死体を村人に見せるんです。私が討ち取り、この事件は解決したと――それで、領主様を疑う者はいなくなるはずです」
テオドールの筋書きは、スタリーに犯人である自分を殺させ、村を悩ませていた事件の解決者にすることだった。これならスタリーに感謝しても、疑う者は出ず、余計な勘繰りを止められると考えたのだった。
「僕をこれ以上助けたり、かくまったりなんかしないでください。そんなことをすれば、吸血鬼を敵視する者達の思う壺です」
スタリーは奥歯を噛み締めながら思考していた。テオドールは大事な領民の一人で、守るべき命だ。だが、彼の言うことも一理あった。このまま助け、ブランディスでかくまうこともできるが、テオドールは村人達に姿を知られている。距離が離れているとは言え、そんな状況が知られれば、確実に大事となるだろう。さらに言えば、テオドールはブランディスでもノアを殺し、罪を犯している。そのノアは加害者でもあるが、ブランディスに連れ戻すとなれば、然るべき処罰を受けさせなければならない。この国で殺人を犯した者は、すべて斬首刑と決まっていた。しかし、ノアが毒を食べさせたことを考慮すれば、それを免れる可能性もあるが、証拠がなければそれも叶わない。日数が経った今ではそれを探すのも困難だろう。ノアの家族も厳罰を望むに違いない。スタリーがテオドールを守るには、様々な壁や危険が待ち受けているのは確実だった。
「テクラの罪も、全部僕がしたことにしてください。僕が、両親の命を奪ったことに……。それならまた、安心して暮らせる。そうだろ?」
「暮らせるわけない……家族が、皆いない中で……。兄さんは、死ぬことなんてない!」
懇願するように言った妹に、テオドールは切ない微笑みを見せた。
「言っただろ。これは命でしか償えないんだ。……領主様、どうかテクラを罰さないでください。僕が責任を負って殺されれば、何もかも丸く収まるんです」
真摯な眼差しがスタリーを正面から見つめた。
「この命を、僕の償いのためとして、使ってください」
十八歳の青年に、スタリーは胸の奥で感心していた。自分の罪への償い、そして妹を救うために、自らの命を捨てて利用させるなど、何とも賢い思い付きだ。たとえ頭に浮かんだとしても、普通の者なら命を捨てることをためらい、行動に移すこともできないだろう。すべてを自己犠牲で収めようとする覚悟は見事と言える。だが、悲しいことにそれを行おうとしているのは、ブランディスの領民であり、十代の若者なのだ。自分から死を選ぶには、まだ若すぎる年齢だ。
するとテクラはテオドールの肩をつかむと、加減もなく揺らして言った。
「兄さんが死ぬなら、私も死ぬ! だから、そんなのやめて!」
悲痛に叫ぶ妹を見つめながら、テオドールは揺らすその手を握り、止めた。
「馬鹿なこと言うな。お前は前の暮らしに戻れるんだぞ。僕はどこにいようと結果は変わらない。いずれ首を切られる身なんだ。それともお前は、僕に逃亡しろとでも言う気なのか? 罪に背を向けて、逃げ回れって言うのか? 違うだろ。そんなこと誰も望まない」
口角をわずかに上げたテオドールは、手首にはまった腕輪を外すと、テクラの手に強引に渡した。
「返すよ。本当に、ごめん。辛い思いをさせたな。だけど、もう心配はいらないから」
「やめてよ……兄さん……!」
震える声で呼ぶが、テオドールは目を合わせることなく、スタリーに振り向いた。
「領主様、お願いします。僕のこの命を……」
殺すのはあまりに惜しい青年だ。妹を思い、犠牲者を思い、領主のことにまで思いを至らせる。彼はもともと被害者なのだ。ノアのことをもっと恨んでもいいはずだ。しかしテオドールは心まで徹底して真面目らしい。罪と向き合い、皆が最善になる方法を考えた――そう、これは最善なのだ。テオドールの言う通り、おそらく彼は斬首刑に処されるだろう。遺体はさらされ、見た者からは軽蔑の言葉を吐かれる。荒野に粗末に埋められ、犯罪者として、いずれ誰の記憶からも忘れられていくのだろう。だが、テオドールの真実はそうでないことをスタリーは知っている。彼は死を望むが、それは償いのためだ。何も知らない者にののしられ、見下されるなどとても許せない。罪は犯したが、テオドールはそれに向き合ったのだ。そんな青年の心を知り、尊厳を守れるのは、この場にいる者だけだ。犯罪者として殺され、さらされるのなら、彼の望むように、ここで討ち取ったことにするべきだろう。それが、見送る者のできる最善なのかもしれない――
「……わかった」
低い声と共にうなずいたスタリーを見て、テクラは目を見開いて驚愕した。
「スタリー様……何で!」
「いずれにせよ、テオドールは死ぬことになる。残酷だが、処刑されるよりは、私の手で楽にしてやりたい」
「領主様……感謝します」
テオドールは安堵の表情で微笑んだ。
「いや……そんなの、いやだよ……」
うなだれるテクラに、スタリーは気の毒な目を向けながらも言った。
「君は離れているんだ。私達が見えないところまで」
ふっと顔を上げたテクラは唇を噛み、暗い瞳には涙を溜めていた。その顔は今にも泣きそうで、叫び出しそうに見えた。言葉でなくても、彼女が何を言いたいのか、スタリーには痛いほどわかっていた。わかるからこそ、それ以上何かを言うことはできなかった。
「……テクラ、領主様を困らせるな。言うことを聞いてくれ」
スタリーの困惑を感じ取り、テオドールが言った。噛んだ唇を震わせ、兄を見たテクラだったが、その表情に諦めを見せると、手の甲で溜まった涙を拭い、くるりと向きを変え、小走りに遠ざかっていった。そして離れた木の陰にしゃがみ込み、膝を抱えた。その姿はどこかすねたようでもあり、怯えているようにも見えた。
「いつからこうすることを考えていた」
スタリーに聞かれ、テオドールは振り向く。
「わかりません。正気を取り戻した時だった気もしますし、血を吸い続けてる時に漠然と思ってたような気もします。でも、テクラが両親を手にかけたと聞いた時には、もう覚悟はできました」
「逃げようとしない君は、立派だ。できれば殺したくないのが私の本音だとわかってほしい」
「もちろん、わかってます。これは僕のわがままですから」
微笑んだ表情はすぐに消えると、真剣な目がスタリーを見つめた。
「……お願いします」
ゆっくりと呼吸をしながら、テオドールは目を伏せた。自分の死を待つ顔は穏やかで、何の乱れもない。つい先ほどまで震えていたはずの手も、今は落ち着きを取り戻している。すべてを受け入れ、償う――そんな覚悟がひしひしと伝わってくるようだった。
向かい合う位置に立ったスタリーは、おもむろに右手を伸ばすと、その指先をテオドールの胸の中央に定めた。
「強い痛みがあるが、辛抱してくれ」
これにテオドールは、やや緊張の目を見せたが、軽くうなずいてじっとその瞬間を待った。
吸血鬼の死の迎え方は限られる。人間には致命傷になるものでも、高い治癒力を持つ彼らには必ずしもそうはならない。だから中途半端に傷付けることに意味はない。殺すのならば、命そのものへの一撃……すなわち、命を保つ機能に直接手を下す必要があった。下級吸血鬼の場合なら、首や胴を切断すれば済むのだが、それでは斬首刑と何ら変わらない。スタリーは処罰するつもりなど毛頭なかった。そうなると、残された方法は一つしかなかった。心臓への直接の攻撃。だが単に傷付けるだけでは治癒してしまうため、それを防ぐためには、心臓を体から取り出す必要があった。これは上級吸血鬼にも通用する方法で、全吸血鬼の弱点とも言える。意識がある中で、その胸に手を突き刺し、心臓をつかみ出すなど、想像せずともむごい方法であり、激痛を与えてしまうことはわかりきっていた。しかしここでテオドールの望みに応えるには、この方法しかなかった。
スタリーの、胸に定めた手がぶれそうになる。だがすでにテオドールは覚悟を決めているのだ。今さら心をぶれさせ、余計な痛みを与えるわけにはいかなかった。手早く、痛みを最小限にすることだけを意識し、スタリーは目の前の青年を見据え、集中した。小さく息を吸い、そして次の瞬間――
「……!」
膝を抱えたまま、テクラは体をびくりと跳ねさせた。声か物音か、とにかく背後から聞きたくない音が聞こえた。咄嗟に耳を塞ぎ、目も強く閉じる。その目から雫がこぼれ落ち、紺色の外套に染み込んでいった。胸は悲しみと喪失感で膨らみ、重く、張り裂けそうだった。自分で作った静寂の中で、テクラは歯を食いしばる自分の声を聞き続けた。だが嘆く声も、納得しようとする声も、今は何もかも空々しく感じるだけだった。すると、耳を塞ぐ手にわずかな冷たさを感じ、テクラは顔を上げた。頭上に伸びる色あせた枝葉の向こうには、分厚い雲が覆う曇天が広がっている。そして、そこから白い粒がはらりと落ちてきて、地面に吸い込まれていった。それはテクラが初めて間近に見る雪だった。曇天は控え目に、ちらちらとわずかな雪を降らせている。形を残らせることなく、すべてが解けて消えるように……。涙が伝う頬に、無慈悲なほど冷たい風が当たる。降っては消える雪の粒を見上げながら、テクラは無性に我が家へ帰りたくなっていた。
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