十四話

 取り囲む村人達は、時計塔から落ちてきた男を好奇な目で見つめていた。何せ肩に一人を担ぎ、片手でも一人を抱えながら、見事に着地を決め、何の怪我も負っていないのだ。屈強な男だったとしても、誰も抱えていない状態だったとしても、この高さから落ちればまず無傷ではいられないはずだが、男は自分自身はおろか、他の二人の身も無事に守り切っていた。普通では考えられない奇跡のような光景に、村人達は驚き、感嘆する半面、一体何者なのかという不審感も見せていた。


「あんた、大丈夫なのか……?」


 手製の槍を持つ中年の男性が心配するように、だが恐る恐るといった感じにスタリーに話しかけた。


「心配ない」


 二人を軽々抱えたまま立ち上がったスタリーは、半ば失神しているレネを男性に渡した。


「彼を休ませてやってくれ。かなり怖い思いをしたはずだ」


「助けてくれて、ありがとうよ。ところで、あんたは一体……?」


 周りの疑問を代表するように男性はたずねた。するとこれを引き金に、他の村人もいろいろな疑問を投げかけてきた。


「どうやって時計塔まで登ったんだ? あそこは特別な梯子がないと登れないはずだけど」


「その肩に担いだ犯人、昨日あんたと一緒にいたって言うやつがいるんだけど、まさか知り合いなのか?」


「本当にどこも怪我してないの? あの高さから落ちたっていうのに。同じ人間とは思えないわ」


 好奇な目の中での質問攻めは、次第に不審と疑惑に変わっていった。急いでテオドールを追いたいスタリーだったが、答えをはぐらかして去れるような状況ではなかった。さらに村人の安全のために避難誘導もしたいが、これでは聞いてもらえるかもわからなかった。


「答えてくれよ。あんた、何者なんだ?」


 厳しい視線がスタリーをつかまえる。すべての質問に答えるなら、もう身を明かしたほうが早いだろう――そう判断したスタリーは、渋々口を開いた。


「私はブランディス領主、スタリー・ブランディスだ。訳あってここに現れる吸血鬼を捕らえにきた」


 それを聞いた瞬間、村人達の表情はわかりやすく引きつった。


「ブランディスの領主、だって……?」


「それって『吸血鬼の谷』って呼ばれてるところよね」


「あんた、やっぱり人間じゃなかったのか!」


 警戒と戸惑いが広がる中、スタリーはそれを押し止めるように、努めて穏やかに言った。


「誤解はしないでもらいたい。私の目的は吸血鬼を捕らえることであって、それ以外にはない。あなた方が困り果てている問題解決のために、私はここに来ているだけだ。それに巻き込まれないよう、できれば今すぐ家に戻り、安全が確保されるまで出ないでほしい」


 頼むスタリーに、村人達の表情は複雑なものを見せていた。


「吸血鬼の言うことを信じろっていうのか?」


「吸血鬼でも、この方は王様に認められた領主なんだろ? それなら……」


「ブランディスは悪い噂しか聞かないわ。いくら領主でも、何だか怖いわ」


「でも、たった今この狩人を助けてくれたじゃないか。全員見てただろ。この村を救ってくれるっていうなら、信用してみてもいいと思うが」


「確かに、村の男と数人の傭兵だけじゃ、明らかに力不足だったしな」


 一時の話し合いは、槍を持った男性のうなずきで終了した。


「……わかった。じゃあ私らは、あんたの言う通りにするよ」


 まだ不安の滲む村人達を見回し、スタリーは言った。


「ありがとう。すべて私に任せてほしい。あなた方の中にこれ以上、犠牲者は出させないと約束しよう」


 力強い言葉を聞いて、男性は村人達に家へ戻るよう促し始めた。それを見届ける間もなく、スタリーはイサークを担いで教会前から風となって消えた。


 テオドールの元へ向かう途中、茂みの裏にイサークを隠したスタリーは、そこから一直線に気配のある方向へと駆け抜けていった。その気配には今、もう一つが加わっていた。移動したテクラの気配だ。おそらくテオドールを見つけ、追いかけたのだろう――そう思っていた時だった。


「――やめてっ! お願いだから!」


 悲痛な叫びを上げるテクラの声が聞こえ、スタリーは足を速めた。そしてようやくその姿を見つけた。木々に囲まれたそこでは、テクラが身をていしてテオドールを押し止めている光景があった。そのテオドールはすでに理性を失ってしまったのか、赤い目を見開いてテクラの押さえる手を振り切ろうとあがき、暴れている。久しぶりに見たその姿は助けた当初とは大分変わり、薄汚れた服に乱れた髪、獲物を狙う獣のような顔付きは、人間だった頃のテオドールと同一人物とは思えないほどだった。そこから視線を少しずらすと、テクラの後方に一人の女性が座り込んでいた。がたがたと震え、恐怖の表情で二人を見つめている。テオドールはこの女性を襲おうとしたのだろう。だがテクラに阻まれたらしい。女性も間一髪助かりはしたが、あまりの恐ろしさに腰を抜かして動けないようだった。まずはあの女性から助けなければ――スタリーは迷わずに駆け寄った。


「さあ立って。走れるか?」


 腕を取り、自分を立ち上がらせる男を、女性は驚いた顔で見上げた。


「だ、誰……?」


「それは村の者達に聞いてくれ。一人で行けるか?」


「え、ええ……ありがとう」


 震えながらも、どうにか走り出した女性は、そのまま建物のあるほうへと逃げていった。


「血……逃がすか……!」


 低く唸るように言ったテオドールは、テクラを突き飛ばそうと激しく暴れ始めた。


「やめ……きゃっ!」


 振り上げたテオドールの手はテクラの頬をかすめ、そこに細い傷を刻んだ。これに怯んだ隙を突き、テオドールはテクラの押さえる手を振りほどくと、女性が消えた方向へ駆け出そうとした。


「今の君を自由にさせるわけにはいかない」


 すかさずテオドールを捕らえたスタリーは、力尽くで暴れる手足を押さえようとするが、下級吸血鬼といえども、理性を失った状態では力の抑制はなく、スタリーでもかなり手こずる状態だった。


「ス、スタリー様!」


 その存在に気付き、テクラは駆け寄った。


「顔の傷は大丈夫か?」


「はい。かすり傷ですから。それより私もお手伝いを――」


「今のテオドールは危険だ。君は近付かないほうがいい。邪魔する者は誰であろうと攻撃してくる状態だ。血の欲求に完全に支配されてしまっている」


「放せ! 血が、飲みたいんだ!」


 全身を使ってもがくテオドールは、押さえ込むスタリーを敵のように睨み付け、わめき続ける。その様子をスタリーは気の毒な目で見つめていた。


「私が目を離さなければ、こんなことにはならなかった……彼の苦しみは、私の責任だ。どうにか理性を取り戻させなければならないが……」


「このまま待ってても、兄は正気に戻らないんですか?」


「ここまで深い血の欲求だと、その可能性は薄いだろう。たとえ戻るにしても、そうなるには長い年月が必要になる。あちらの世界でそういう者が出たら、まず監禁し、絶食させて弱らせるのが常だ。しかしこれも確実な方法じゃない。一度欲求に支配されると、そこから抜け出すのは我々でも容易なことじゃないんだ。人間だった彼ではなおさらだろう」


「じゃあ兄はずっと、このまま血を求め続けるだけに……? そんな、何か、他に方法は……」


 スタリーは黙り、考え込む。その腕の下ではテオドールが暴れ、大声を上げていた。


「どけ! 触るな! 僕の邪魔をするな!」


 頭を激しく振り、赤い目をさらに血走らせ、テオドールは欲求に取り憑かれたようにもがき騒いでいた。その姿からは以前の優しく真面目な兄の面影は見つからない。だが記憶にしっかりと刻まれているかつての兄を思い出すと、テクラは目の前の光景が悲しく、そして見るに堪えなかった。


「……ねえ、兄さん、私が誰かわかるでしょ? 呼んでみて。ほら、妹の――」


「お前は人間じゃない! 血を、血を飲ませろ!」


 振り上げたテオドールの腕が再びテクラの顔面を狙ったが、それは寸前でスタリーが引き止めた。


「今は何を言っても無駄なようだ。私達が誰なのかもわかっていない」


 テクラは呆然と兄を見下ろした。お前は人間じゃない――攻撃されたことよりも、そう言われたことがテクラは辛く、苦しかった。吸血鬼である自分を受け入れようとしてきたが、心はやはりそれを受け入れきれなかった。人間とは明らかに変わってしまった自分。そして、これからも変わっていくだろう自分。振り返っても、区切られた道は引き返せず、人間としての人生は二度と歩めない。


「人間だった……兄さんも、私も、人間なんだよ? 血なんておいしいはずないんだから、飲む必要ないでしょ……?」


 悲痛な表情で話しかけるテクラだったが、テオドールに耳を傾ける様子は微塵もない。この言葉は、自身に言い聞かせるものでもあった。一つ間違えれば、目の前の兄のように変貌してしまう未来もすぐ側にあるのだ。人間が人間の血を吸うなど、そんなおぞましいことは繰り返したくない――テクラはただ、その一心だった。


「……そうだ。一か八かだが、テクラ、君の――」


 思い付いたように口を開いたスタリーだったが、次の瞬間、何かに気付き、その手はテクラに伸ばされた。


「危ない!」


「え……」


 振り向こうとしたテクラの肩は押され、そのまま体は横へ転がった。直後、その脇を風を切って何かが通り過ぎていった。


「……矢?」


 テクラの目がとらえたのは、銀色の矢尻が光る矢だった。すぐに視線を背後へ向けると、そこには見知った射手の姿があった。


「外したか。まあいい。そいつは俺が狩るんだ。射られたくなきゃ、さっさとどけ。吸血鬼はこれに弱いんだろ?」


 いつもの強気な態度と、極度に警戒した表情で、レネは同道していた二人に弓矢を構えていた。時計塔での出来事や、スタリーに命を助けられたことなど、すべてなかったかのような態度には、彼が懲りた様子はうかがえない。自分がどれだけ危険な状況にいるのか、まだ認識できていないらしい。さすがのスタリーも、ここまで物分かりの悪い人間には、少々きつく言う必要を感じたが、今はそれどころではなかった。


「報酬は横取りさせないからな。狩人として無能だとか誰にも――」


「人間……!」


 レネの姿を見つけたテオドールは目を見開くと、意識をそらせていたスタリーの手からすり抜け、勢いよく飛び起きた。


「待てっ――」


 慌てて押さえにいくスタリーだったが、その手は弾かれ、テオドールは猛然とレネに突っ込んでいく。


「なっ……」


 レネはその動きにかろうじて反応し、矢の目標をテオドールに変えるが、そうした時にはすでに目標との距離はほぼなかった。赤い目と視線が合い、レネの呼吸も時も一瞬止まる――


「うああああ――」


 刹那、そこには悲鳴と血しぶきが上がった。弓を握っていたはずのレネの左腕は宙を舞い、赤い弧を描いて地面に落ちていた。邪魔だと言わんばかりに振ったテオドールの手が、いとも簡単に腕を切断していた。怪力を持つ吸血鬼の恐ろしさ――片腕を失ってようやくそれを認識したレネは、戦意を喪失し、恐怖しかない表情で逃げ出そうとする。だが血を求めるテオドールが逃がすはずもない。伸ばした手はレネの頭をつかもうと動く――


「駄目!」


 小柄な体が二人の間に割り込み、レネは突き飛ばされた。それをつかむ予定だったテオドールの手は、代わりに茶色の頭をつかんで引き寄せると、脇目も振らず細い首筋に噛み付いた。

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