ナーロッパ帝国の侍従長 人魚姫と海水
葉山 宗次郎
生理食塩水
「もう朝か」
窓から入る夜明けの光に顔が照らされ机に突っ伏していたキースは目が覚めた。
昨夜は遅くまで仕事をしていたため、眠気が強く瞼が重い。
禄でもない主に、主の弟である皇太子殿下の侍従長に任命されたため、このところいろいろと仕事を持ってこられてその処理で忙しい。
「まあ、多少はやりがいはあるけど」
昨夜、夜食にスープを貰ったこのところ美味しく感じる。
自分が指導して改良した甲斐があったというものだ
主や、皇太子殿下にも好評だ。いけ好かないが、人に喜んで貰うのは嬉しい。
「さて、身支度を調えるか」
本当はベッドの上でもう一眠りしたいが、朝から仕事が多い。
キースは洗面台に向かうと、すぐに顔を洗った。
そして丁寧に歯を磨く
転移者によって発展したナーロッパ帝国とはいえ、医学が遅れているため虫歯一つでも死に直結するので念入りに洗う。
続いて洗面台の脇に置いてある容器に自分が作った特製の液体を入れる。
そして容器の長い筒を自分の鼻の中に入れて流し込む。鼻の奥をよく洗った後反対側から出し今度は逆側から同じことをする。
「何してるの」
その様子を美少女が見てあきれていた。
「いくら殿下でも臣のプライベート空間に入り込むのは感心しませんね」
「弟に仕える人間がどんな人物か気になるのは当然だと思うけれど。変なことをしているんじゃないか気になるし」
勝手に入ってきたのは、帝国第一皇女ヴィクトリア殿下だ。
キースを天職であった帝国図書館司書から侍従長に任命しやがった、キースにとっては誘拐犯も同然だ。
外面は見る物を魅了する美少女だが、中身は腹黒な人間だ。
しかも、大胆なことで知られる。
普通なら独身の女性がそれも身分があるのに、都市が同じくらいの臣下の部屋に入ったら色々問題が出るハズ。
特に宮廷から離れる事が出来ない側仕えの噂好きな女達の話のネタになる。
だが気にする様子はない。
むしろ、噂の伝わり方で、女達の信用度、口が軽いか否かを見ているようだ。
本当に陰険だ。
「おかしなことですか」
「少なくとも鼻に自ら水を入れるような人物は私の周りにはいないわね。最近の転生者はそんなことが流行ってるの?」
「やめて下さいバラさないで下さいよ」
ナーロッパ帝国は転生者によって生み出された帝国だ。
初代皇帝は転生者だしその後も多くの転生者電車が現れ帝国を発展させてきた。
だが、あまりにも多くの転移者、転生者がやってきたため、もたらされた新しい技術がぶつかり合い時に不具合を起こして暴走。
帝国は混乱した。
そのため200年ほど前帝国は分裂内乱が勃発した・
100年にわたり国は混乱し再び統一するまで安定を欠いた。
それ以降は転生者転移者を呼び出すことはなくなったが、もたらされた技術の多くが、その意味をよく理解されるまま継承されるに至った。
そのため今の帝国で転移転生したというのはありがたい存在であるとともに災いをもたらす不吉な存在でもある。
そのため転移者あるいは転生者と判明すると厄介なことに巻き込まれる。
それをキースは嫌がって隠していた。
不本意ながら侍従長を引き受けたのは、その事実を隠すためと帝国の保護を受けるためである。
そのために目の前にいるわがままな美少女帝国の第一公女殿下の言うことを聞かなければならないのだ。
煩わしく思いつつもキースは説明した。
「風邪を防ぐために鼻の奥を洗う鼻うがいですよ」
「効くの?」
「風邪の病原菌は鼻の奥に住み着くことが多いですからね。予防にはなります」
「鼻の中に水を入れて痛くないの」
「平気ですよ」
「どうして?」
「わずかですがこの水には塩を含んであるんですよ」
「それで平気なの? むしろ塩が入って余計に痛くなりそうなんだけど」
「大丈夫ですよ。そもそも鼻が痛くなるのは体内の塩分濃度と真水では浸透圧が違うので痛みを感じるからです。そこで塩を入れて生理食塩水を作れば細胞と塩分濃度が同じになり」
「ああ後で暇な時に聞くから」
ヴィクトリアはキースの説明が長くなりそうなので遮った。
自分から話を振ってきた癖にと思いながらもキースは黙った。
「それより緊急事態なのよ。ちょっと手伝ってほしいんだけれど」
「どうしました?」」
「実は人魚族の姫が今やってきているんだけれど」
「そういえばいらしているということですね」
多くの種族をその支配下に置くナーロッパ帝国は海に住む種族も臣従している。
彼らも他の種族と同じように時折、宮殿にやって来て皇帝などに挨拶をしている
ただの挨拶ではなく家臣を率いて帝国の官僚や御用商人と交渉したり打ち合わせする予定もあり、帝国にとっても非常に重要だ。
各種族が作り出す特産品は帝国を豊かにしている。
その仲介こそ、帝国の存在理由だったし、手数料収入は大事な財源だ。
だからこそ、粗略には出来ないし、可能な限りお持て成しをする。
人魚族であっても例外ではない。
「実は使者である人魚姫の体調が思わしくないの」
「水が悪いんじゃないんですか?」
「毎日新鮮な海水は運んで来ているけれどダメみたい。どんど衰弱していてこのままだと倒れてしまいそう」
「それはいけませんね」
支配下にあると同時に保護下である種族が宮廷の中で急死したら帝国が暗殺したと疑われかねない。
他の種族との関係も悪くなってしまう。
何とか姫には体調を回復して貰う必要がある。
「使っているのは海水ですか?」
「そうよ。彼女たちの海の環境に近くしているのだけれど」
「なら今から私が言う水の分量に対して塩を入れてください。大体一パーセントですね」
「それ生理食塩水?」
「はい」
「帝国が招いた客人の鼻の中に注ぎ込めと?」
「いいえ全身を入れてもらいます」
「……はあ?」
キースの言葉にヴィクトリアは納得いかないようだったが言う通りに生理食塩水を作って人魚姫を入れた。
「人魚姫の体調が戻ったわ」
昼頃になってヴィクトリアが戻ってきた。
半信半疑だったが、キースの言うとおりに生理食塩水の中に人魚姫には入って貰った。
すると徐々に人魚姫は元気を取り戻していった。
「疲れていたんでしょうね。これで少しは体が休まるはず」
結果をヴィクトリアから聞いたキースは満足する。
しかし、ヴィクトリアは納得していなかった。
「なんで元気になったの」
「体内の塩分濃度と周りの水の濃度を合わせただけですよ」
「海水に住んでいるなら海水の方が快適じゃないの」
「いえ生物の細胞ってだいたい塩分濃度が1%くらいなんです。海の魚でも同じです。疲れているときは、それに合わせてやるのが良いんです」
「海水の塩分濃度は3%ぐらいじゃないの」
「ええそうです海水魚の場合、海水を体内に入れたらそれを濃縮して体外に排出しているんですよ。実は海水魚も結構負担がかかっているんですよ。なので体内の塩分濃度と同じ生理食塩水の中に入って体を休めてもらいました」
これは低比重治療という海水魚に対する治療だ。
「まさかあなたの言ってた生理食塩水がこんなところで役に立つなって」
「あちこちで役に立っていると思いますけれど」
「本当に?」
「はい、最近のスープ、美味しくありませんか?」
「確かに美味しいと感じることが多いわね」
「実はあれ生理食塩水を使っているんですよ」
「体内の塩分濃度と近い比重にすれば美味しく感じるんですよ」
「そうなのやっぱりあなたを侍従長にした甲斐があったわ」
「ならお礼として前職である図書館司書に戻してもらえますか」
「それは絶対にダメ」
「ケチな主だ」
キースは憮然としながらも自分の仕事に戻っていった。
ナーロッパ帝国の侍従長 人魚姫と海水 葉山 宗次郎 @hayamasoujirou
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