芽生え

判家悠久

ローエングリン書店龍泉市立図書館 ビストロ・オールオーバー

 青森の暦上初夏は、何ら始まってもいない。

 ただ、ここローエングリン書店龍泉市立図書館内のビストロ・オールオーバーでは、ロマンスに序列は一切ないが、目を見張るものがある。託された何ならは、使わない方がいいのだが。



 過ぎ行く未来。世界は流行病の罹患と回復を繰り返す。今やありきたりの紛争も、中東だけではなく世界に満遍なく勃発する。

 当初こそ何故になったが、渦中になると生命と胃袋しか思いつかなくなるので、原理主義者は消えつつある。幸せかどうかは、生きているだけで精一杯だ。


 そんな状況でも、何を雰囲気平和なのかは、過去の俺に言っても通じないだろう。中高年の嘆きが多いのだが、物価が4倍になった。それでも生活出来ているのは、日本式隷従資本主義が曲がりなりにも機能しているらしい。

 段階を踏みながら、女子学生から搾取し、労働従事者から搾取し、あるべき家族から搾取し、中央の企業に上納金が収められる。そのお陰で、都市と地方では押し並べて2倍の賃金格差がある。


 地方の有志が、幸せを求める権利を集団訴訟したが呆気なく負け続けている。ライフライン維持の為に、生活費が今も上がり続けるが、それでも都市の方が何かと住み心地良いので、全国の半分の電力会社にガス会社に交通機関が国営化した。そう、幸せかどうかより、今や国有企業を守らないと国家としての対面がで、一地方の声は潰さなくていけない。


 いや地方も、それはそれでのストライキすべきも。もう中央企業の搾取と酷使のそれに疲れて、地方を捨てて、都市に転出している。日本の中に、重いベールで包まれた東京国がある。それにまつろうかまつろわないか、不思議な世紀末を迎えている。


 ただ中央も周りをしっかり見ている。到底埋められぬ格差を、束の間の充実感を与えるサービスを提供する。テーマは地方でも文化的な生活。


 この文化的生活が、とてつもなく大きい。物価が4倍になった事で、書籍が一番の娯楽になり、オンラインで映画10回見た方が充実感を得られる。それは4倍以上ではないかも。日本より諸外国の物価上昇が凄まじく、翻訳本などとても買い付け出来なくなっている。そして記事にしても、アングラ翻案し著作権を逸脱している。もっとも、それも国内のライターを低価格で酷使した企業努力なのだが。


 そんな事案を経て、書籍を扱う書店は都市でやっと。通販も義理でオンラインしている位。実質、出版社も発注が入ってからのオンデマンド印刷になる。ここで実質書籍は、行政が手放し私立化された図書館に収蔵されるだけになる。この私立図書館こそが、中央企業の施す恩恵だ。


 ◇


 俺は、そんなメディアミックスをシフトせざる得なかった出版社直営の書店に、10に近い資格とコネを持って入社した。

 かなり昔であれば、初期配属営業職も。現在の書店勤務の大凡は、全国私立図書館への司書として派遣される。司書と言っても、権限は大きく広く困難になり、文化的コンシェルジュとして自立しなくてはいけない。


 そう俺は、給仕の資格を持つ為、務めるローエングリン書店龍泉市立図書館内に、龍泉市市役所の要望でオープンされた、ビストロ・オールオーバーのギャルソンに配置換えさせられた。


 その青森県龍泉市。元は青森県G市のグレードアップだ。長期間の都市転出が続き、休耕田が増えたところで、飛び地がちな市政をオセロの如く吸収していった。

 ただ単に行政地域が広がったかのそれでは無く、海外の食品飼料の買い付けが競り負ける状況が続き、日本政府の食料自給率100%がある。生産力向上と商品のブランド化。この二つを同時なんて、とても困難だが、一次産業のバイオテクノジーの波及力は、農業研究所のポテンシャルとして、予算がある程度あればいつでも叶う状況だった。

 地方は地方で、生き延びていられるのも、一次産業の帰属が大きく、今や龍泉市もフラッグシップたる地方に置き換わっている。


 その龍泉市の要望に押されて、取ってつけたかのビストロ・オールオーバーで溜め息はつくも。ローエングリン書店部長にして館長の戸隠杏子が、凄い事になるから負けないでと押された。


 そして、ローエングリン書店龍泉市立図書館内の無菌喫茶室が、瞬く間に改装され、厨房付きの予約制のお洒落なビストロ・オールオーバーの看板が上げられた。


 メンバーは精鋭3人。一応店長兼ギャルソンとしては、俺南小路隆係長が経営状況を把握する。

 シェフには20代半ばの霧山希さん。実家代々の老舗レストランを継いでいたが、都市郊外の微妙な立地で店を畳んだところを、ローエングリン書店運営部に引き抜かれたらしい。もっとも愛嬌込みは言わずもがなと。

 スーシェフには、銀髪の拝島竜治さん。本人曰く前科一犯で運悪く刑務所に放り込まれたと言う元ヤクザ。執行猶予無しでどれだけ極悪だったのかだが、刺青を消した跡が残る両腕からの包丁捌きは抜群で、それは想定銃刀法違反もしようかだ。


 そのビストロ・オールオーバーの崇高な使命とは、食育に尽きる。各書籍から想起される、食事の充実感を漏れ無く提供するという困難さだ。


 これまでに200超グループが来たが、9割は満足している。残り1割は大満足で、都市並みの提供価格でもリピート客が多い。

 そこ迄の大成功は、俺の司書としての作者の背景像をシェフ側に提供しつつ、食べ慣れた地産地消の食材を探し当てるのが功を奏している。勿論味付けは、生活習慣病が悩ましい、龍泉市ならではの、体に優しい濃い味付けにはしている。


 ただ今日のお客さん。俺達ビストロ・オールオーバーのメンバーでも喧々諤々で、最後の最後で、やっと、これは有りかの答えになった。


 ◇


 今日のお客さんは、見た目親子のカップルさんだ。

 予約を入れたのは、地元国立大卒業の大地主家のコケティッシュな大津彩夏さん。招待客は、ビニールハウス栽培を長らく勤しむ今は独り身で長身の木伏彬さん。戦前、いや戦後でも憚れる主従関係だが、今はそんな時代では無い事を皆知ってるも、憚って言えない。地方と寄り添うのは本当に難しい。


 今回、予約を入れるに当たって、彩夏さんが示した書籍は『遠雷/立松和平』の小説だ。どうしても食材はトマト。極めて困難メニュー作りで、それは手順を踏んだ喧嘩にもなる。

 遠雷は、都市の中で廃れ行くビニールハウス農家の悲哀と、人間の営みがただ鮮明だ。そこに有りがちな渋さが有る筈も、瑞々しさが上回る。

 映画も見たが、今の時代に有りがちな、メインに添えたトマトの甘さが、とてもイメージに合うものではなかった。


 ビストロ・オールオーバーのカップルデートは、普段通りの睦まじさで進む。ただそこには、彩夏さんの彬さんへの必至の食い止めが入る。

 彬さんはビニールハウスでトマトを栽培している。日本政府の食料自給率100%は言うは容易いが、肥料は碌に入手出来ずに何とかやりくりしている。そして温度調整の維持費は軽く天井を貫いている。何よりは、常に100%の生産調整を出来る筈も無く、供給過多になったら、卸売価格は破綻する。

 そう、農家は好きでも、このバランスが崩れて、まま外国の農園で従事する方が多くなる。その方が給金の実入りが大きい。


 彬さんは、今年の冬はもう無いですからと短く繰り返し、大地主家の彩夏さんは、農業技術筆頭の彬さんが抜けたら、龍泉市、いや青森県が低迷すると切実に訴えるが、そうでは無いだろうだ。


 彩夏さんは正直では無い。好きです、と言えばいいのにと思う。

 歳差、格式、何より頑な。俺は給仕しながら、どう二人の背中を押そうとしたが、形式的な新書案内だけに留めた。当然、この二人にはまるで届いていない。


 遠雷の名札のついたメインディッシュは、まだ青森は肌寒い為、津軽トマトの完熟スープに、米粉フランスパンになる。実に質素だが、これでも最高級の部類になる。


 俺としては、最後に気軽に小麦パンを食べられた世代なる。小麦の穀倉地帯が、紛争で軒並み埋葬地帯になったら、これがどうしようもない。

 小麦不足で、軒並みビール事業・焼酎事業・ウイスキー事業への割り当てがゼロになり、国策の元で統合会社にされては、アルコール第二種禁酒法が敷かれた。そう俺は、生まれてこの方ビールを飲んだ事が無い。

 超円高でも海外旅行の際に飲めるのは聞いている。あとはイリーガルだが、配給制で余った小麦パンからビールに蒸留している輩もいるが、軒並み国税庁に訴追されて、非国民扱いされては、後々の生計は途絶える。

 その背景で、米粉パンが主流になる。ここで、戦中で米粉パンを製造していた、青森のパン製造業が踊りでては、日本はパン発展国に名乗りを上げる。まさか戦中の技術が1世紀近く経ってもとは、先代の方々は何と言うのだろう。


 そして、主役となる津軽トマトの完熟スープを、彩夏さんも、彬さんも興味深く見つめる。この完熟トマトは彬産の拝島ファームで収穫されたトマトだ。これが最後なのかと、声に出ずともバイブスが伝わる。

 何よりは、スープと言えど、完熟トマトが氷山化しており、もうこれだけでお腹を満たす事はお約束しますを添えると、その場は和やかになった。ここからだ。


 素敵カップルは、スプーンを持ちスープ皿を掬う。果たしてスプーンの中には、竜治さんによって精密かつ緻密にカッティングされた立方体のトマトが浮かぶ。そして口に運ばれると、言葉より先に、瞳での会話が始まる。

 そう、完熟トマトとは言え、敢えてえらく硬い部位だけ、竜治さんがカッティングし、残りはスープで深く煮込まれる。

 そのスープも一癖有り。希さんが、津軽衆の馴染みの深く濃い口触りを、塩分では無く、津軽産の香味野菜とニンニク大量で、食感と共にまさしく遠雷の轟き。今は口の中で大整理中だろう。

 そして、そうであるべき言葉が、素敵カップルで交わされる。


「まさかだよ。肥料がもう合わなくて、熟すタイミングがバラバラな、うちのトマトにこんな希望があるなんて」

「彬さん、ですから私は、普段から言ってますよね。トマトを生で食べる方は、やっと半分なのですよ。拝島ファームの卸先を、もう一度再考しましょう。そのう、付き合いますから。そう一生でも良いです」


 ここで空気が不思議になったので、俺は『遠雷/立松和平』由来の、津軽トマトの完熟スープ遠雷を司書として解いた。


「彬さん。遠雷の物語は、見合いでも運命の二人の先行きが不安なものになっていますが、彩夏さんの解釈では、二人だからこそ乗り越えられるとの解釈です。これは、拝島ファームさんからも仕入れている、ビストロ・オールオーバーの総意でも有ります。農作物もですが、如何でしょう、彩夏さんも一緒に育まれてはと思います。勿論中学生の娘さんも込みですよ。改めまして、ご家族ご一緒に、ビストロ・オールオーバーへの弛まぬ御愛顧を頂ければ幸いです」


 彬さんは爆笑するが、彩夏さんはただ顔が真っ赤になった。

 龍泉市の大津家と言えば、まず大地主でもあるが、無冠の昭和の文豪を輩出した文化的な格式だ。彩夏さんの事だから、五手迄読んだプロポーズさせる文節を用意しただろうが、彬さんは原則成果主義なので、そんな事通じる筈も無い。


「彩夏さん、この先、まとめて娘扱いしてしまうかもしれませんが、それでよろしければ、家族になりませんか」

「家族。それ、とても素敵ですね。」


 この抜群のタイミングで、シェフ希さんが白桃を丸ごと寒天に封じ込めたスイーツを持ち寄り、運命の名札を立てる。

 ここは賭けだった。白桃づくしは、大津家の無冠の昭和の文豪が好みに好んだ洋菓子だ。彬さんの事だから、この提供は、大津家に入れと先読みしてしまうだろう。でも、家族と口から出た以上、格式なんてどうでも良い事になってしまった。


 俺は後ろ手で、拝島ファーム有志から託された、青森仙台間のフェリー3枚チケットを真ん中から静かに破った。子供連れの駆け落ちなんて、ロマンスからどうしても逸脱する。さて、俺のビストロ業も、本格的になったものだ。




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