胡蝶の夢

いずも

荘周之夢

 1-1


 彼女は春のように天真爛漫な人だった。

 一緒に歩いている時に美味しそうな匂いが漂ってくると、ボクに一瞥もくれずにその発生源に向かって進み出す。

 正解のルートはこっちだと促すも、好奇心に一度火が点いたらもう止められない。

 やれやれと観念したボクは彼女に付き従うも、探しものが得意でない彼女に先立って結局はボクがその正体を突き止めるのだ。


「はい、半分こ」

 そうして差し出される食べ物はいつもボクの方が少し大きめなことに気付いているのだろうか。

 気付いていてもいなくてもどっちでもいいか。

 その差し出された半分は彼女の愛であり、それに応えるのがボクの愛だ。

 何も起こらない日常こそ至福である。

「また、明日ね。おやすみ」

 今日もボクは彼女の愛情のゆりかごに揺られ眠りについた。



 1-2


 彼女の存在は春風のように心地よかった。

 小さくて柔らかくて、抱きしめると春の匂いがした。

 最初は彼女も嫌がって抵抗していたが、何度も繰り返すうちに彼女の方からねだるようになった。

 嬉しい時、楽しい時。

 辛い時も。

 気分をリフレッシュさせてくれるとても大事な時間。

 ねぇねぇ聞いてと上目使いで見つめるその仕草に僕はとても弱いんだ。

 ああ、聞きたい。

 君の話を、君の声を。

 だからおやすみ、また明日。

 僕は春の香りに包まれながら眠りについた。



 2-1


 彼女は夏のように開放的な人だった。

 困った時は助けを求めることに躊躇せず、周囲の人もそれに応える。

 彼女の周りには、困っていたら手を差し出してくれる人たちがいつだっている。

 そんな時、彼女の目にボクは映っていない。

 じゃあ、ボクは。

 ボクは彼女にとって必要とされているのだろうか。

 彼女に何をしてあげられるんだろう。


「いつだってあなたを一番頼りにしているんだから」

 ああ、なんてずるい。

 そんなことを言われてしまったら何も言い返せない。

 さあ、明日こそ彼女に困難が起こらないように。

 彼女が暗闇で独り立ち尽くしている時は道標に、光になれますように。

 ボクは誓いを立てて眠りについた。



 2-2


 彼女は清々しいほどの夏空に真っ直ぐ線を描く飛行機雲みたいだった。

 僕のことなど忘れているように小走りで駆けていく癖に、時々振り返ってはこちらの歩調に合わせて速度を調節する。

 休憩しようか。

 なんて合図すると、もう? と言わんばかりに小首をかしげて立ち止まる。

 僕が公園のベンチに腰掛けている間はせわしなく首を動かし、興味津々に通行人を眺めている。

 それがなんだか面白くて僕も同じように真似すると、遠くにクレープ屋のキッチンカーを見つける。

 こいつ、僕に見つけさせるためにそんな行動を?

 まあ、たまには食べ歩きも悪くない。

 僕が立ち上がるとその気配だけでキッチンカーに向かっていく。

 ここまで以心伝心だとおかしくて笑ってしまう。

 新作はチョコクランチ入りのチョコソース味だって。

 僕には甘すぎるし、君と半分こ出来ないからいつものフレーバーにしよう。

 再び木陰のベンチに腰掛けて、幸せを分け合おう。

 幸福を噛み締めながら、君はウトウト。

 つられて僕も静かに眠りについた。



 3-1


 彼女は秋のように繊細な人だった。

 ほんの小さな出来事に一日中幸せを噛み締めていた。

 見知らぬ土地の災害に胸を痛めていた。

 そんな時はボクは彼女にひと声かけ、ただ隣に寄り添う。

 彼女はボクの体にそっと触れながら悲しみが去っていくのを待っている。

「今の私は見たくないものから目を背けて、都合の良いことだけを信じてる」

 そんなことはないよとボクが言っても、彼女の表情は晴れない。

「私は弱い人間だ」

 どうしたんだろう。

 今日の彼女は様子がおかしい。

 不安に押し潰されそうな顔をしている。

 何があったんだい、ボクに話しておくれよ。


「あのね、手術を受けるの。――私の目、見えるようになるかもしれないって」

 そうなんだ、良かったじゃないか。

 でも、なんでそんな泣きそうな顔をしているの。

「失敗したら二度と視力は取り戻せない。そんなこと言われたら怖くって」

 でも、やらなきゃ何も変わらないよ。手術は受けるべきだ。

「……うん。やらなくちゃ変わらないもんね」

 ああそうさ。

 やっと笑ってくれた、君は笑顔の方がずっと似合うよ。

 大はしゃぎするボクの背中を優しく撫でながら、彼女は言った。

「そうなったら、あなたともお別れしなくちゃいけないんだね」

 お別れ? どうしてだろう。

 ボクはその意味を理解できずに眠りについた。



 3-2


 彼女の心根は秋の月のように澄み渡っていた。

 自由気ままに振る舞う姿は星が踊るようにきらめいていた。

 いつまでも眺めていたいと思っていた。


 空にはひつじ雲が群がり、ほんの少し雨の気配がした。

 花壇の花も風に揺れている。

 そろそろ帰った方がいいかもしれない。

 名残惜しそうにする彼女に、僕も心が痛くなった。

 だからまだ遊び足りない彼女が一足先に公園を出たのを見過ごした。

 その刹那、強く風が吹いた。

 路上に人が集まっている。

 嫌な予感がする。

 彼らは何を言っているのだろう。

 人混みを押しのけて覗いた先に見えたのは。

 血まみれで横たわる無残な彼女の姿だった。


 呆然と立ち尽くす僕に隣の人が話しかけてくる。

 何も、聞こえない。

 僕は耳を手で塞ぎ、嗚咽を漏らしていた。

 その様子に気付いた一人がこちらに駆け寄って、僕を見ながらゆっくりと両手を動かす。

「あなたの ペットですか?」

「はい そうです」

 胸の前で親指と人差し指を合わせて肯定する。

 それが精一杯の返事で、後のことは覚えていない。

 心に穴が空いたまま、何もかも失くしたみたいに虚ろな感覚。

 けれど息をするのも苦しいほどに体が重い。

 このままもう目覚めなければいいのにと願いながら、眠りについた。



 4-1


 彼女は冬のように物静かな人だった。

 初めて会った日は怯えた様子で、こちらから声をかけても返事はない。

 一歩踏み出せば後退りされ、距離感はなかなか縮まらなかった。

 きっかけは些細なことだ。

 段差のある道を進もうとする彼女に何度も警鐘を鳴らす行動を取り、先に進まぬようその手を引っ張った。

 誰かが言った「そっちの道は危険ですよ」の言葉に、ようやく彼女はボクを認めてくれた。


 そこから打ち解けるのに時間はかからなかった。

 彼女はボクを必要としてくれて、ボクにも彼女が必要だった。

 ボクは彼女の目となり、道標となり、希望の光になった。

 そんな彼女がとうとう本当に光を取り戻す日がやってきたのだ。

「ああ、見える。あなたが私を導いてくれたのね」

 泣きながら彼女はボクを抱きかかえた。

 ああ、良かった。

 彼女の喜びはボクの喜びだ。

「ありがとう……今まで本当に、ありがとう」

 その言葉で、ボクはようやく理解した。

 彼女の目が見えるようになったということは。

 盲導犬としてのボクの役目も終わったということだ。


 ボクたち盲導犬は数が少なく、ボクはまだ若いから別の人のところに行くことになるらしい。

 次に目を覚ましたら、もう彼女はいない。

 それはとても悲しいことだ。

 やっと彼女はボクを見てくれたのに。

 もう声を聞けないのだろうか。

 このまま朝が来なければいいのにと嘆きながら眠りについた。



 4-2


 彼女は聴導犬というわけではなかったけれど。

 いつだって僕を助けてくれたし、生きる希望を与えてくれた。

 音のない暮らしは変わらないはずなのに。

 やけに部屋の中が寂しくなった。

 聞こえていないはずの音がそこにはあったのだ。

 そこに居てくれるだけで良かったのに。

 今でも足元にじゃれつく幻影を追いかけている。


 これが胡蝶の夢ならば。

 次に目が覚めた時、僕は果たして幸せだろうか。

 どちらの世界が、どこで生きる僕が正しいのだろう。

 わからない。

 一つ言えることは、この世界に君はもう居ないということ。

 ああ、僕ではない僕よ。

 せめて幸せであってくれ。

 こんな悲しい思いをするのは僕だけでいい。

 彼女を想い、永い永い眠りについた。



 5-1


 新しい家族が増えた。

 彼女はもう居ない。

 盲導犬としての役目を終えた。

 そのまま引き取られた。

 とても幸せだった。

 ボクは最後まで役割を果たし、やがてくる最期の時を待つ。

 けれど、そこに彼女は居ない。

 何度も夜を待った。

 幾度と朝を巡った。

 眠っても、目覚めても、彼女には会えなかった。

 ああ、なんで。

 なんで眠たいんだろう。

 ここで眠ってしまっては、もう会えなくなってしまうのに。

「また、明日ね。おやすみ」

 ボクはもう聞こえない「また明日」を待ち侘びて、安らかに眠りについた。





 明日のボクは犬になっているのだろうか。

 しかし犬のボクは永遠の永い眠りについた。

 もう会えない彼女を想う。


 明日の僕は人間になっているのだろうか。

 しかし犬の彼女は永遠の永い眠りについた。

 もう会えない彼女を想う。


 次に目を覚ました時、どちらの姿になっているだろうか。

 再び芽吹く季節を待ち侘びている。

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胡蝶の夢 いずも @tizumo

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