第5話
金曜日の夜。私のスマートフォンに水津からの連絡があった。
今から行きます。と、そこにはあり。私は驚いて目を見開いた。
「あれだけ、嫌な思いをしたのにまだそんな事をしたいの!?」
あまり、そういった欲求の少ない私には彼の考えが理解できない。
よほど暇なのか、色々と持て余しているのか、彼なら引く手数多だろう。それなのに、よりによって私のようなつまらない女となんて……。
「何しても心の痛まない女を抱きたいだけなのかもね」
私は誰からも愛されない女だと自分の事をよく知っている。水津に多くを期待なんてしていない。
だから、彼は私を選んだのだろう。
水津から着信があり「部屋の前にいます」と言われて、私は慌てて玄関のドアを開けた。
「お邪魔します」
水津は挨拶をしつつ、すでに足は部屋の中に入っていた。
「待ち遠しかった?」
水津の意地悪そうに上がる口角を見ていると、今から私を痛めつける事を楽しみにしているのが伝わってくる。
会社での穏和そうな仮面を被った笑顔が嘘のようだ。この裏の顔を知ってるのは私だけだ。
自分が特別だなんて思わない。ただ、都合のいい存在なだけだ。
彼は自分を偽るのがとても上手なのだろう。
「別に」
前回と同じようにそこそにシャワーを済ませて、私たちはベッドに横になった。
前回と同じように痛めつけられるだけの行為を想像して、私の身体は氷のように冷えていくような気がした。
これは、納得してしている事なんだ。と、自分に言い聞かせて水津を見ると、彼も何か言いたげな顔をしてこちらを見ていた。
不意に、四つん這いの姿勢をとらされる。
「あのさ、身体の向き変えるの面倒だからこれからは自分でこうしてくれる?」
また強引に入れられて痛みを伴うのだろう。私は枕をギュッと握りしめながら覚悟を決めた。
歯を食いしばりながら痛みが来るのを待つがそれは襲ってはこなかった。
「醜いな」
水津は私を見下ろしてそう呟いた。
確かに私はあの時と同じで、芋虫のように無様に地面を這っているように見えるのかもしれない。
こんな格好嫌だ。と、水津に訴えようと思った。
「好きに利用してやるよ」
その言葉で、私は現実に引き戻される。
この行為は、お互いの合意があってやっている事なんだ。利害があってやっている。
私には断る権限すらない。それほどのことを彼にしてしまったのだ。
これは、彼が満足するまで繰り返される罰なのだと思えば、痛みはいくらでも受け入れられる。
「っう……!」
前回と同じように、激痛を伴って私の身体は引き裂かれた。
「ごめんなさい」
水津が私を許してくれるはずなんてないのに、私はうわごとのように何度も謝っていた。
尊厳を踏み躙る様な行為で彼の気が少しでも晴れるならそれでいい。
痛みが痺れに変わりだした頃、ようやく水津は満足したようで私から身体を離してくれた。
それから、水津は週に一回私を抱きに来た。飽きることもなく。身体は随分と慣れて痛みは随分と減った。
痛みが続くとそれに慣れるのと同じように、私の心は鈍感になっていた。
全裸で四つん這いになり頭をベッドに押さえつけられて「無様だ」と罵られても、私は何とも思わないようになった。
この時だけは、私に尊厳はなく、それほどの事を彼にしてしまったのだ。と、思えば受け入れられた。
暴力のような行為の後に、背後から抱きしめられても私は勘違いしない。
これは、お互いの利害があってやっている事なのだ。
事実、仕事上での私達の関係は前よりも良くなった。いい方向に進んでいると思っている。
それが全てから目を逸らしているのと同じでも、水津が本社に戻るまでやり過ごせば元通りの生活に戻れる。と信じていた。
「今日は柴多くんとご飯食べに行く日だわ」
気がつけば2ヶ月が経過して、11月になっていた。
「何を着ていこうかな」
この日ほど、着ていくものに悩む時はない。同性が相手なら気合いを入れて可愛い服を選ぶが、異性だと変に着飾るのがいやらしい気がする。
デートを意識しているように思われるのも癪だが、かといって、いつも通りの格好をすると無礼のような気もして。食べにいく場所が焼肉なら考える必要もなかったけれど、今回は違う。
悩んだ末に、いつもの引っ詰めの髪の毛はハーフアップにまとめて、服は基本的に自由なので、仕事用のシャツからVネックのニットに変えて、寂しく開いた胸元には少し長めのネックレスをつけることにした。
誰も気が付かないと思うけれど。
19時に予約したとは柴多は話してたので、残業しないように気を付けなくては。色々と頭の中で計算しながら私は会社へと向かった。
「小久保さん。どうしたんですか?その、今日はおしゃれですね」
少し早めに出社して、資料や企画書の進捗状況をを確認していると、出社した柏木が声をかけてきた。
さほど、見た目は変わらないのに、柏木は良く見ていると思う。
彼みたいな細やかな事に気がつく男性は、女性にモテそうだ。言葉の選び方も優しくて嫌な気分にはならない。
「今日はちょっと、用事があって」
私からしたら断れない用事だ。これは、デートでも何でもなく、古の飲み会のような強制的なイベントのようなものだった。
「デート?」
「違うわよ、そんな相手なんていないわ」
柏木が珍しく食いついてくるので、私は苦笑いが出てしまう。
「そうなんですね。良かった」
キッパリと否定すると、彼はなぜか嬉しそうだ。
「何が?」
「いや、別に、今日は頑張りましょう!」
柏木はにっこりと笑ってデスクに向かって行った。
私は何か釈然としない物を感じながら、深くは考えないようにした。
そういえば、柏木には恋人がいないと以前話していたけれど、一人者仲間の私に恋人ができて「先を越された!」と思って慌てたのかもしれない。
「……忘れてた」
一人者という意味で水津の事を思い出した。
水津には今夜予定があるとは伝えてはいなかったが、来るのは夜中だし時間的にはすれ違うことはない。わざわざ伝える必要もないか。
彼も私の予定に興味もないだろうし、余計な事を言ってお互いに嫌な気分になる必要もない。
もしも、私が居なくても帰るでしょう。きっと。
何をしていたのか忘れかけていた私は、慌てて再び書類に目を通す。これは、今度使う予定のもので、念の為にダブルチェックをしている。
問題はなさそうだ。
「あの、進藤さん。この資料のコピーをお願いします。あと、水津くんも手持ちの仕事がなければ手伝ってあげて」
私は始業と同時に二人に声をかける。
新入りの進藤だ。彼女は一番手が空いているから、それと水津にも、この資料を作ったのは彼だから。部数も多くて複雑なので、わからないことは聞きながらやった方が早い。
「私も後から手伝うからお願いします」
「わかりました」
進藤は後から水津が来るとわかったからか、嬉しそうに返事をした。
水津は私の方を何か言いたげな顔で見ていた。おそらく進藤と一緒にするなと抗議をしたかったのだろう。
ある程度手持ちの仕事を片付けて、進藤のデスクを確認するが、彼女はまだいなかった。水津も同じように不在だ。まだ、コピーは終わっていないようだ。
「柏木くん。私、コピー手伝いに行ってくるわね」
「わかりました」
私が柏木に声をかけると、二人のデスクを確認して頷いた。
「じゃあ、行ってくるわね。しばらくよろしく」
私は声をかけてフロアから離れた。
フロアにはコピー機があるので、コピー室を使うのは大量の資料を作る時だけだ。
そのため、人気がないときは静かで、大量の資料作成をしている時は騒がしい。
今日は静かなので、他の部署では資料の大量作成はないようだ。
「……っ!」
誰かが何か話しているようで、小さな声が漏れて聞こえてくる。
そういえば、進藤は水津の事が好きで、熱烈なアプローチをしていた。
水津はそれに少し戸惑っているけれど、満更でもない様子だった。きっと、進藤がデートにでも誘っているのだろう。私には関係のない事だけれど。
「ん、水津……さんっ」
次に、聞こえてきたのは苦しげな進藤の声だ。
私は反射的に中を見てしまう。そして、すぐに後悔した。
二人はお互いを求めるように抱きしめ合い。そして、口付けをしていた。
「っ、んっ」
進藤の嬌声じみた声。美しい蝶が求愛しているように私には見えた。
「水津さん……」
甘やかな進藤の声。二羽の蝶が番になった瞬間。私は息をすることを忘れた。
二人だけの世界の中に、私は迷い込んだような気分になっていた。
見てはいけない物を見てしまった。と、思ったのと同時に、私は二人が羨ましかった。
私には、もう、人を愛する事ができない。それに、醜くて汚らしい私は誰からも愛されはしない。
石化したように足が動かない自分を叱咤して、この場から離れようとした瞬間。水津と目があった。
彼は悪戯が成功した子供のように意地悪そうにニヤリと笑った気がした。
お前など選ぶわけがない。と、嘲笑っているように見えた。
「……」
何とかコピー室から、離れてようやく呼吸ができたような気がした。
これは、きっと、彼がわざと私に見せつけたのだと理解した。関係の終わりを言葉にすることも面倒だったのだろう。
彼の車の中にあったピンク色のクッションの持ち主は間違いなく進藤だ。
「馬鹿みたい」
だから、綺麗な蝶は嫌いだ。戯れるように近づいてきても肩には留まらず。毒々しい鱗粉だけを残して遠くへと行ってしまう。
番を見つけた水津は、二度と私の部屋には来ないだろう。心を傾けなくて本当によかった。
別に傷ついているわけじゃない。ただ、綺麗な蝶になれる人が羨ましくて、なれない自分が惨めに思えるだけだ。
コピー室に戻れなかった私はフロアに戻った。
柏木はすぐに戻ってきた私に不思議そうに声をかけてきた。
「小久保さん、何かあったんですか?」
「あの二人の間に入ることほど、藪蛇なことはないと思っただけよ」
「何ですか、それ、あはは」
私が困った顔をして返すと、彼は楽しそうに笑っていた。やっぱり彼はいい人だと思う。
あれから、気まずさから進藤と水津を直視することができなかった。
芋虫の女 @keganiaoba
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