第4話

 それから、ずっと寝込んでいたのは言うまでもなく。

 血はすぐに止まったが、引き裂かれるような痛みと、粘膜を強く擦られた痛みは身体を動かすたびに私に襲ってきた。

 それと、気になっていたのは水津の事だ。

 最終的に怒らせてしまったので、彼がどのように動くのか考えるのが怖かった。訴えられるかもしれない。という、不安で眠れなかった。

 月曜日、会社に行くと柏木が私に声をかけてきた。


「小久保さん。おはようございます。顔色、すごく悪いですけど」


 柏木は気遣わしげな表情だ。休日はずっと寝込んでいた事を見透かされているような気がした。

 本当は助けを求めた方が楽だとわかっている。しかし、私は笑って誤魔化す。


「そうかしら?ファンデーションの塗りすぎかも」


「……本当に?」


 探るような目。柏木は目端がよく利く。だからこそ、いつか私を追い越すだろう。優秀さは部下だからこそわかる。

 弱みを少しでも見せたら、私の代わりなんて彼なら容易くなれてしまうから。

 信用のない私の足場はいつだって脆い。まるで薄皮の氷の上に立っているようで、それが崩れていくのを考えるのが怖い。


「大丈夫よ。本当に、心配かけてごめんなさい」


 だから、私はどんなに体調が悪くても、辛くても平気な顔をして笑うしかできない。

 平気だと大丈夫だと虚勢を張らないと、自分は立っていられないから。

 誰かを信じてしまうと、大きな痛手を負うことを私は知っている。

 もう、誰も信じる事なんて私にはできない。


「柏木くんは、本当に優しいのね。ありがとう」


 私はにっこりと笑って、彼と心の壁を作った。


「そりゃ、小久保さんの事、心配ですから」


 柏木は困ったような顔をした。


「じゃあ、仕事しようか」


 柏木から離れてデスクに座ると違和感を持った。誰かに見られているようなそんな感覚だった。


「……?」


 私がそちらに目を向けると、水津とかち合った。

 彼は何か言いたそうな顔をした。そこには金曜日の夜に私に向けた苛立ちや怒りは含まれていなかった。

 とりあえず当面は首が繋がった事だけはわかった。

 安堵から思わず笑みが溢れると、水津は気まずそうに目を逸らした。

 身体の調子は最悪だが、仕事に集中する事だけは何とかできた。

 休憩時間になるのはあっという間だった。


 12時きっかりの時間になると、水津は立ち上がり明らかに私に視線を向けて口を開く。


「あ、小久保……」


「水津さん!一緒にランチしましょう!」


 水津が私の名前を言い切る前に、別の女子社員が水津の名前を呼んだ。


「え、あ、進藤さん。僕は」


 水津は断ろうとしたのだろうか、続きを言おうとしたがすぐにそれは阻まれた。


「ねえ、行きましょうよ!」


 進藤は水津の腕に抱きつくと、引きずるように彼を連れてフロアからいなくなった。


「こんなに、わかりやすいアプローチってなかなかないな」


 頭上から聞こえてきた嫌な声に、私は眉間に皺を寄せそうになるのを我慢した。

 今日は、厄日か何かなのだろうか。


「肉食系だよな」


 進藤のアプローチに少しだけ引いている男は、柴多といって私の同期で、そして、元婚約者の親友だ。


「単純に好きって気持ちが強すぎて、抑える事ができないだけよ。まだ、新卒なのよ。あの子」


 進藤はまだ22歳で、年齢相応だと私は思う。やりすぎなのはわかるけれど。


「なるほど」


 柴多は納得したように呟く。

 彼が私の所に昼にやってくる理由はただひとつだ。


「お昼には行かなかったの?」


 疲れている時に、彼の顔を見て食事をする事を考えるだけで気が重たい。しかし、今後の付き合いを考えると断ることはできない。


「何となくね。一緒にご飯食べない?」


 柴多は柔和な笑顔で私を誘った。

 誘ったといっても、彼は勝手に弁当を持ってきているので断りようがない。

 柴多は客観的に見るととてもいい人だ。あの時ですら彼は理性的に私を庇ってくれた。

 元婚約者は婚約破棄の原因は私にあると噂が流れても否定しなかった。きっと、自分にとって都合がいいと思ったのだろう。

 自分に原因があると言えばまだ良かったかもしれない。

 彼は妹が妊娠したからと早く結婚することになって、ようやく周囲に知れ渡り『ある件』が決定打になり退職した。


 柴多は凄く『いい人』なのだろう。現在もそうだ。

 だけど、今の私は、誰も信用できないし弱味を見せる事もできない。


「ね、弁当それだけ?」


 柴多は私が持ってきたおにぎり二つを不思議そうに首を傾けた。


「少し寝坊して作る時間がなかったの」

「小久保でも寝坊するの?」


 柴多は私のことを機械レベルの真面目な人間だと思っているのだろうか。


「まぁね」


 苦笑いが出そうになるのを堪えてなんとか返事をすると、一番聞かれたくない事を柴多は聞いてくる。


「そういえばさ、社長の親族が今部下なんでしょう?どんな感じ?」


「凄く優秀だよ。私が上司でいいものか悩むくらい。それくらい完璧」


 内心冷や汗をかくが、部下を褒める上司の顔をして笑う。

 私が下手なことを言ってまた変な噂を流されるのはもう嫌だ。水津にも他の部下にも失礼にならないように言葉を選んだ。


「悩みすぎだろ」

「そうかな?」


 本当は水津の事を誰かに相談したい。もしも、あの時のまま柴多を信用できたら相談したと思う。

 けれど、私は柴多を信用できなかったから何も言わない。


「考えすぎ」


 悩みすぎだと言わんばかりに柴多は笑った。


「水津くん?だっけ?どっかで見たことあるんだよなぁ」


 柴多は意外な事を言い出す。社内広報で水津の写真が載っていたし、社長の面影がどこか残っていたからそのせいかもしれない。


「社内広報に写真載ってたよ。社長にも顔そっくりだし」

「そうだよなぁ。気のせいだよな。やっぱり」


 柴多は苦笑いした。でも、意識していない所で水津とあっているのかもしれない。


「あのさ、来月の金曜日の夜は暇?ご飯食べに行かない?二人しかいないけど同期会しようよ」


「もう、そんな時期なのね」


 私達が入社したての時は、忘年会シーズンを避けて同期で集まって飲みに行ったりしていた。

 私達の婚約破棄のアクシデントと、みんな県外に異動したり辞めたりして、今ではこの支社に残っているのは私達二人だけになった。

 それでも、定期的にこれはやっている。私はやらなくていいと思っているが、柴多が声をかけてくるので断るに断れずにいた。


「お店は焼肉でいい?」

「あ、今回はオレが決めてもいい?」

「別にいいけど」


 私達は少しだけ言葉を交わして、すぐに解散した。

 身体の痛みは、しばらく続いたが金曜日にはすっかり良くなっていた。

 柏木が何か言いたげな顔をするが、私はあえて何も言わなかった。

 水津とはお互いに当たり障りなく接することができたと思う。関係は私の望んだ通りに良くなった。

 他人には分かりにくい辛辣な事を言われても、その直後に彼が『言い過ぎたかな』とこちらの顔を窺う程度にはましにはなっていた。

 身体の調子は最悪だが、頭痛は起きなかった。

 多少痛い思いはしたが彼が本社に戻るまでは、このまま過ごせたら辞めずには済みそうな気がしていた。

 婚約破棄の時に、必死に縋りついた仕事をどうしても私は手を離したくはなかった。

 だから、どれだけでも我慢できる。自分を汚してでも。痛い思いをしても。

 2回目はお互いに不快な思いをしたから、水津は絶対に来ないと思っていた。


 けれど、奴は来た。今回も金曜日の夜に。

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