第3話
その週の金曜日、仕事を終えて会社から出ると水津が私に話しかけてきた。
「今から行っていいですか?」
私は水津が何を言っているのか一瞬よくわからなかった。
「え?」
「忘れたんですか?アレ」
忘れてなんていない。ただ、どこかで悪い冗談だと思っていたのだ。
「……忘れてないわ」
「じゃあ、俺の車に乗って」
だからといって、私が水津の車に乗る必要はない。
「え。でも」
「いいから来いよ」
戸惑っていると苛立ちを隠せない様子の水津は会社の敷地外にある駐車場に行くように、私の背中を少しだけ乱暴に押した。
「っ、ええ。わかったわ」
突然、背中を押されて私は体勢を崩し前方に倒れそうになる。
「どうぞ」
水津に押されるまま私は駐車場へ向かい。若い子が好きそうな車を見て息を飲む。
青いスポーツカー。良いところの青年だと思っていたが、やはり車もそうなのか。
それなりにこだわっているように思えて、不安になる。
「本当に、私が助手席に乗ってもいいの?」
私の質問に水津は嫌そうに眉を寄せた。嫌いな人間を車に乗せるのはやはり気分のいいものではないだろう。
「別に構いませんけど」
しかし、水津は不服そうな表情だ。本当は私を乗せたくなさそうにしか見えない。
「私、電車で帰ってもいいけど。なんか申し訳ないし」
私の愚図にしか思えないような言葉に、水津は舌打ちをする。
「は?俺はいいって言ってますけど」
水津の不機嫌のゲージはどんどん上がっていくようで、腕を組んで「面倒なんで、さっさと乗ってください」と言われ恐る恐る乗車した。
黒色の革のシートは肌触りがとてもよく、私の座席には女性用の可愛らしく。若い子が好きそうな。ピンク色のクッションが置かれていて、居心地が悪い。きっと彼の恋人用に用意した物だ。
使用感のあるそれは、私のために用意したようには全く思えず。恋人が居ることを隠す様子もない彼は「弁えろ」と言わんばかりだ。
彼には恋人がいるはずなのに、なぜ、私を座らせたのだろう?と疑問が浮かぶ。
水津は私がシートベルトをしたのを確認すると、不機嫌さを隠す様子もなく乱暴に車を発進させた。
ガクンと突然車体が揺れて身体がぐらつく。
ピリピリと悪意が、首筋に絡み付くようで身がすくむ。なぜこんなにも嫌われなければならないのだろうか。
居心地が悪くなって私は外の景色を見ることにした。
しかし、都会の緑のない道路を眺めていても殺伐とした世界しか感じない。この車の中のように。
早く家に帰って、早く終わらせて、早く帰ってもらおう。
「着きましたけど」
不機嫌な水津に声をかけられて、私は慌てて返事をした。
「あ、ありがとう」
「お邪魔します」と、一声かけて水津は私の部屋の中に入る。
「花が好きなんだ?」
花瓶を見た水津の何気ない言葉に私は答えに困る。
花は確かに好きだが、部屋に飾られているものは全て匂いのない物だ。人に執着しなくなったかわりに、物を無くしたりするのがとても嫌になっていた。
生花が枯れていく様は、まるで今の自分のように思えて、以前は好きだったのに飾れなくなっていた。
「ええ、まあ、好きね」
「でも、造花でしょ?本物じゃない」
その一言に『お前がどれだけ擬態しようが、本物にはなれはしない』と言われているような気分にさせられる。
不意に、幸せそうに子供を抱き締め微笑み合う彩那と澤田の姿が頭に浮かんだ。
もしかしたら、私がそこに居られたかもしれないのに。いや、あり得ない事だったと思う。あの時に別れなくても、私ではない別の誰かが澤田の隣に居たはずだ。
私は一生蝶になんてなれやしない。それだけは良くわかっている。
「生花を買うと枯れるでしょう?取り替えるのが嫌で」
「そうやって人間関係を切り捨ててきたんだ?」
水津の言葉は冷たいナイフのように胸に突き刺さる。切り捨てたんじゃない。切り捨てられたのは私だ。
そう、叫びたい気分だ。
「……」
何も言えずに私は目を伏せた。
「……次からは前もって連絡して、俺が部屋に行くよ」
退社後とはいえ、声をかけてくるという非常識さに彼も少しは反省したようだ。
「そうね。できればそうしてもらえると嬉しいわ」
「他のセフレとかち合うと面倒だしね」
水津はよほど私が男に飢えていると、思っているようだ。
「そんな相手もいない、そこまで飢えてなんていない」と思わず返しそうになってやめた。
私がどれだけ訴えても彼に全裸で襲いかかった事実は変わらないし、言ったところで信じてはくれないだろうから。
「……そうね」
無意味なやり取りをするのが面倒で、適当に返すと、水津は不愉快そうに顔を歪めた。
「今はいいの?」
水津は獰猛な肉食獣のような表情なのに、甘い声で私に囁いた。
「ええ、もちろん」
そのために彼を部屋に入れたのだから。覚悟はできていた。
「どうぞ」と、水津に促されたので私が先にシャワーを浴びながら、どうしたものかと考える。
私はこういったことの経験がない。澤田と付き合っていた時もきっかけはあったが、うまくいかなかった。
初体験なんて実質的に酔った勢いでしたアレだけだ。
「どうすればいいのよ」
自分にはわからない。
身を任せておけば、彼が勝手に勘違いして色々と済ませてくれるはずだ。
ヤケクソ気味にそう決めつけて私はシャワーを済ませた。
それなのに、バスタオルを巻いたまま水津の前に出ると、彼は驚いたように目を見開く。
「バスタオルする必要あります?」
馬鹿にするような笑い方に、羞恥で顔は火がついたように熱くなる。
そんな経験なんてないわよ!そう怒鳴りつけたくなる。
「肉感的な体つきですよね」
水津は目を細めて、私の顔から下を舐め回すように見て言った。
『嫌らしい身体になって……』
母の蔑む声が頭の中で響く。
初潮が始まった頃から、急に胸が大きくなり母親からとくに言われるようになった。
私は自分の身体が嫌で嫌で仕方ない。
「……貴方が満足すればいいけど」
私は彼の吐き出した言葉への嫌悪を隠してニッコリと笑う。こう言えば、たぶん、喜ぶはずだから。
「じゃあ、横になって」
言われるまま横になると、水津の手がバスタオルに伸びた。
「嫌っ……!」
反射的にそれを手で払いそうになって、なんとか理性を総動員してそれを抑える。
澤田とは上手くいかなかった。キスはできたが、身体に触られるのが嫌で最後まではできなかった。
「っ……」
嫌だ、こんなことしたくない。
しかし、今更嫌だと、言えるわけがない。私はあの時、仕事を失うことの怖さから受け入れてしまった。
何も考えずに黙っていればすぐに終わる。私は沸き起こる恐怖心を無視してそう言い聞かせる。
「え、何?駆け引き?」
水津は私の反応をそう解釈したようだ。
はらりとバスタオルを外して、顔を近づけてきた。
「ちょっ……!」
私は近づく水津の顔を押して唇を死守した。押し寄せてくるのは後悔。心を伴わない行為にこんなにも嫌悪感を持つなんて思いもしなかった。
ずっと心は凪いでいたから何も感じないと思っていた。
「なんなんだよ」
「……キスは嫌だ」
「アンタどれだけ偉いの?先に仕掛けてきたのはそっちだろ」
水津がキツい口調で私に詰め寄る。それがとても怖い。やっぱり嫌だなんて言えない。
言ったら彼は激昂しそうな気がした。……どのみち逃げられないのだ。落ち着こう。
「キス自体が苦手で、誰ともできない」
私が誤魔化すためにそれっぽい嘘をつけば、水津は眉間にシワを寄せた。不愉快だと言わんばかりに。
「チッ」
水津は苛立ち混じりに舌打ちをした。
「もう、いい」
水津はぶっきらぼうに呟くと、荒い手つきで軽々と私の身体をひっくり返した。
「え……?」
急に視界が変わり私は驚いた。
これで、顔を合わせる。という気まずさはなくなる。私は少しだけ安堵した。しかし、余裕があったのはそこまでだった。
「っ!」
私のそこに激痛が走った。何か硬いものを無理やりねじ込んでいるような痛みだ。
すぐに水津が、私のそこに自分の陰茎をねじ込んでいるのだと気がつく。
「いっ……」
「うるさい。静かにしろ」
私は目の前にあった枕を掴み顔を押し当てた。そうしないと、痛みで叫び出しそうだから。
「っ……!」
「力抜けよ」
あまりの痛みに身体が強張る。力なんて抜けるわけがない。
「っ、ぅっ!」
枕に口を押し当ててこの激痛に私は耐えた。恐怖はなかった。そんな事よりも、この激痛から逃れることだけを考えていた。
それに、あの時と比べたら、こんな痛みなんて大したことなんてない。
『謝れよ。なあ、本当は先にそっちが浮気したんだろ?自分が被害者みたいな面しやがって!澤田が加害者にさせられて可哀想だ』
『図々しいにも程があるわ。謝れ!』
あの時、彼らは私が『悪い』と、口々に言い。床に私の顔を押しつけて跪かせた。
私は芋虫のように逃げることも抗うこともできなかった。少しずつ呼吸が苦しくなっていくのを感じながら、彼らが飽きることを待っていた。今と同じように。
「っ……!」
痛みというものは継続してくると慣れてくるものだ。ヌルリとそこから生暖かい液体が流れた。
「なんだ、濡れてきたじゃないか……」
水津は容赦なく腰を打ち付けてきた。
内臓を引き裂かれるような激痛に、私は枕に抱きつく腕の力を強める。
「……っ!」
お願い。早く終わって。
「芋虫みたいに無様だな」
水津の大きな手が、私の頭の上に乗り押さえつけるように力が入った。枕に顔を押しつけられて、あの時の光景が目の前に浮かぶ。
『謝れ!』
同期たちの私を怒鳴りつける声が頭の中に響く。
いや、あの時よりはずっとマシだ。心を抉られる言葉よりも痛みを与えられるだけの方がずっと楽だから。
「っ……」
呻き声と共に、膜越しに熱い迸りを感じて、ようやく水津が絶頂を迎えたのを知った。
水津は私のそこからまだ硬度の残る陰茎を引き抜いた。
「っ……!」
痛みに私の身体はビクリと震える。
はぁ、と深いため息を吐いて水津は私から離れた。
「遊んでるわりに、結構締まるんだな」
水津の蔑む言葉にようやく、自分の身に起きたことを理解する。強姦めいたセックスは痛くて怖かった。だけど、仕事を失ったら私には何一つ残らない。
これは、合意の上でしたのだ。記憶がなくても私に迫られた水津はもっと怖かったに違いない。
断れないのに強要される恐怖は、力の強さの有無なんて関係ないのだから。
「傷つけて、ごめんなさい」
私はバスルームへ歩いていく水津に小さな声で謝ると、枕に顔を押し当てて声を殺して泣いた。
これは水津を傷つけた報いだ。私に泣く資格なんてない。涙が出るのは痛いからだ。
気がつけば私は泣き疲れて眠っていた。そして、水津も居なくなっていた。
夢だと思いたかったけれど、身体の痛みだけが現実だと残酷に私に知らしめた。
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